文月小夜

 

Remembrancer


 バッキンガム宮殿に隣接する公園は、あいかわらず観光客で溢れていた。
 名物の衛兵の交代は既に終わっていたので、これでも人は少ないほうらしい。なんとか木陰のベンチを見つけて、一組の家族が腰を下ろした。
 秋の陽射しは柔らかいが、直射日光を赤ん坊の薄い皮膚に当てたくなかった。
 若い母親が赤ん坊を抱いている。東洋人らしい彼女は、黒髪と黒い瞳が美しく、白いベビードレスに包まれた赤ん坊を抱く姿は、その清楚な雰囲気も加わって、公園を行き交う人の目を惹きつけた。
 父親は精悍な容貌を少し疲れを滲ませているが、妻と子供に優しい笑顔を向けている。その笑顔だけで彼の家族に対する愛情がうかがえるような、暖かく、大きな存在をかもし出している。
 母親はその綺麗な笑顔に、少しの困惑を織り交ぜる。
 どうやら、腕の中の赤ん坊が、むずがっているようである。
 大きな泣き声は上げていないのだが、小さな手を握り締め、震わせる。
『どうしたの?』
 困ったように顔を見合わせた夫婦に、一人の少女がひょいと顔を覗かせた。
 白のセーラーのキュロットスーツを着ている。セーラーのラインとリボンはイエロー。共布のラウンド帽を被っている。帽子のラインもイエローだった。白いデッキシューズをはいていて、見た目はまさに、小さな水兵さん。ずいぶん可愛い水兵さんだが。
 英語で話しかけられたものの、夫婦はその少女が、イギリス人なのか日本人なのか、はたまた何人なのか、見分けられなかった。
 肩に届く栗色の髪は多分、生まれつきのウェーブが入っており、瞳の色は薄い茶色。見ようによっては日本人なのだと思うが、肌の白さや子供にしては目鼻立ちがはっきりしていて、日本人には見えない。
 何より、物怖じせず、イギリスで日本人に話しかけてくる、積極性。
『一人で来たのかい?』
 父親がとりあえず英語で聞いてみた。
『ダディとマミーがあっちにいる。お兄ちゃんとまぁちゃんも』
 まぁちゃんと言う言葉だけ、固有名詞のように日本語で言う。
『日本の人?』
 今度は母親が尋ねた。
 遠目に見ると、一組の夫婦が、小学生らしい男の子と、目の前の少女の同じ姿形の少女と、芝生の上でシートを広げていた。ちょうど昼食後という感じに見えた。
『うん、日本語もわかる』
 少女は言ってから、「日本語のほうがいい?」と小首を傾げるように、日本語で尋ねてきた。
「お父さんが外国人なのかな?」
 どう見ても純粋な日本人には見えなかったので、父親は独り言のつもりで口にしていた。遠くにいる父親は、座っていてもかなりの長身だとわかった。
『ダディはクォーターだよ。私とまぁちゃんはダディのおばあちゃんの血が濃く出たみたいだって』
 なるほど、日本語も正しく理解できるらしい。話すのは英語の方が得意なのだろうか。
『あのね、困っているなら、赤ちゃんのものお貸ししましょうか、って。マミーが』
 ひょいと少女は母親の腕でむずがる赤ちゃんを覗き込んだ。
 言われて少女の家族を見れば、中央にクーハンを置いている。その中に赤ちゃんがいるのだろうか。
「赤ちゃんがいるの?」
『うん。弟だよ。この子は女の子?』
 日本語を聞き取り、英語で話す少女に、二人は顔を見合わせて微笑みあう。
『男の子なのよ。ちょっと飛行機で疲れちゃったみたい。時差ってわかる?』
『わかる。私も一昨日までは眠かったの』
『こちらに住んでいるのじゃないの?』
『うん。ダディのお仕事で……、ええーっと』
 少女は人差し指を口に当てる。何かを思い出そうとしているらしい。
「しゅっちょう?」
 出張という言葉を思い出そうとしていたらしい。母親がふふっと笑う。
『何か、必要なもの、ありますか?』
 可愛い目にいっぱい涙を浮かべている赤ん坊に、そっと手を伸ばして、小さな手を握った。
 まるで赤ん坊に何が欲しいの?と尋ねているようで、母親は微笑んでその光景を見つめる。年が離れた姉は弟を大事にしてはくれるけれど、幼い兄弟がじゃれあうような関係は程遠い。
『大丈夫よ、ありがとう』
 礼を言って、ふと、少女が手を握った途端に、ふにゅふにゅと泣きかけていた息子が、ぴたりと泣き止んだことに気がついた。
『だっこ、してもいい? あのね、弟でなれているから。落っことしたりしないよ』
 少し迷ったが、母親は息子の着替えを出してやりたいこともあって、頼むことにした。
『じゃあ、ベンチに座ってくれる?』
『うん!』
 少女はぴょこんとベンチに座り、両手を広げた。自分で言った通り、赤ん坊を抱くのにはなれているらしい。
 その様子に安心して、母親は息子を少女の広げた両手の中にそっとおろした。

イラスト;SELENE様


「あー。う゛ー」
 息子が話しかけるように少女に向かってご機嫌な声を出したので、母親も父親も驚いた。
「子供同士は人見知りしないのかな?」
 父親が苦笑混じりに言う。
 機嫌が悪くても泣き叫ぶことのない息子だが、酷い時は父親が抱いても、泣き止まないことが多い。
「可愛い女の子が好きなのかも」
 母親も驚きながらも、抱き疲れた手を伸ばした。
『女の子じゃないよ』
 少女が言ったが、母親は抱いている赤ん坊の性別のことを言っているのだと勘違いした。
『そうね、男の子よ。弟さんはいくつ?』
『3ヶ月。首が据わったんだって』
『じゃあ、京のほうが少しだけお兄さんだわ』
 京と呼ばれた赤ん坊は、小さな手を少女に伸ばす。少女は髪が赤ん坊にあたらないように、顔を近づける。頬に貝のような手が触れると、優しく微笑んだ。
『可愛いね』
『ありがとう』
 そこへ少女と同じ姿をしたもう一人の少女が駆けてきた。セーラーのラインとリボンはブルー。
『マミーがそろそろ行くよって』
『ツイン?』
『うん。抱かせてくれてありがとう』
 少女は礼を言って、赤ん坊を母親に返した。
「ああー、ぁー、ぁー」
 途端に赤ん坊が泣き出す。珍しく、声を上げて泣いている。
「あら……」
 母親はゆらゆらと赤ん坊を揺らす。
『ごめんなさい。泣かせちゃった……』
『いいのよ。お母さんが心配するわ』
『ちょっとだけ待ってて』
 少女はぴょこんと地面に降りると、迎えに来た双子の少女と手を繋いで、家族の元へともどった。家族はもう帰る用意をしている。
 少女は母親に何かを訴え、こちらを指差していた。
 こちらから母親がそっと頭を下げると、向こうでも頭を下げてくれた。そして、少女に何かを渡している。
 それを受け取った少女は、今度は一人で駆けもどってきた。
『これ!』
 小さなウサギのマスコットだった。タオル地でできたそれは、中に鈴が入っているのか、振るとちろりろと愛らしい音を奏でた。
 少女は赤ん坊の目の高さでそれを振って、音を聞かせている。
 赤ん坊がウサギを掴む。
 ちろりろ、ちろりろ。小さな音に、赤ん坊は泣き止んで、それを見つめる。
「いいの?」
 くれるということだろうか。でも、少女の弟が困るのではないだろうか。
『いいよ。もう一つあるから。じゃあね』
 少女は赤ん坊にバイバイと手を振って、家族の元に戻って行った。
 双子と手を繋ぎ、母親の周りを飛び跳ねるように公園を出て行く。
 父親がクーハンを抱き、兄が荷物を持っている。
「兄弟が多いといいわね」
 多分、誰もが夢見る理想の家族の休日というひとこまだった。
「あんな可愛い女の子が、京のお嫁さんになってくれるといいな」
「そうね」
 二人は微笑み合って、小さなウサギを手にした息子を見つめた。
 タオルで作られたその小さなウサギは、背中に「Takuya」と名前を書かれていた。
「あの子の、弟の名前ね、きっと」
「ああ、そうだな。あの女の子の名前を聞くのを忘れてしまったな」
 ようやく機嫌のなおった息子を抱き上げ、自分たちも立ち上がる。
 娘の留学先の寄宿舎も今の時間なら、学生達が戻っているだろう。
 姿の見えなくなった少女の家族とは反対の出口へと向かった。
 誰の記憶からも薄く消えて行く、異国での出来事だった。
 

 

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