この道の続く果て
 
 
 目の前のインタビュアーはよく喋った。こんなに自分が喋っていては、取材にならないんじゃないかと思いつつ、私に限って言えば、それは大変にありがたいことだった。そもそも、インタビューをされることが苦手なのだから。
 彼女は、インタビュアーは女性だ、自己紹介された時に聞かされた年齢よりかなり若く見えた。着ている物や話し方に活気があるのでそう見えるのだろうが、実際は私とそう変わらぬ年なのだから驚いてしまう。
「有栖川先生は独身だとお聞きしましたが、ご結婚のご予定は?」
 いきなり核心をつく質問にドキッとする。もう少し遠回しな聞き方というものはないのだろうか。
「いえ、今のところ……」
 と、こちらは遠回しな言い方で逃げて、一人の人物の顔を思い浮かべる。
 高い鼻梁に薄い唇。鋭い眼光は冷たく見えて、だが本当は優しい色をしている。結婚の質問をされて、一人の男を思い浮かべるなど、我ながら情けないと思いつつ、それでも彼のことを考えずにはいられなかった。
 先日、状況に流されて、身体を重ねた。それに対して後悔はしていない。むしろ、どこか自分で望んでいたことでもあった。これでより彼の身近な存在になれるのではないかと。
 だが、それは幻想であったようだ。
 彼、火村英生は、翌日、何事もなかったかのように私の部屋を出て行き、それきり連絡も寄越してこない。
 あまりのことに私は落ちこみ、けれど、傷ついている自分に、内心驚いてもいた。
 もしかして、かなり彼を愛しているんじゃないか? と。
「有栖川先生?」
 不思議そうに名前を呼ばれて我に返る。
「お疲れのようですね。締め切りが?」
 気を遣われて笑いで誤魔化す。
「いやー、締め切りに追われているのはいつものことで……。はは」
「大変ですわねー」
 彼女が同情してくれたところへ、軽快な音楽が飛び込んできた。
「あ、すみません」
 彼女は鞄を探り、中から携帯電話を取り出した。
 ……ああ、携帯ね。面白い曲を選んでいるな。
 そう思いながら、私はこれ幸いと、冷たいコーヒーに手を伸ばしたが……。
「えっ! 事故? どこの病院?」
 そんな言葉に、コーヒーにむせてしまった。
 彼女は開いていたノートに、電話で聞く病院名を口伝しながら書き写していく。その手が震えて、それまでの文字とは比べ物にならない、乱れた文字が書き連ねられた。
「先生、申し訳ありません。ちょっとインタビューを急がせてもらってもよろしいですか」
 携帯を鞄に入れながら、彼女は胸を押さえて私を見た。
「そんな、いけませんよ。すぐに病院へ行きましょう」
「いいえ、この記事を仕上げないと。校了がすぐそこなんです」
「インタビューなら電話で出来ます。そうだ、病院へ行く車の中でしてしまいましょう」
 私は彼女に荷物をまとめるように促した。ダメです、いけません、先生に迷惑をかけては叱られますと言う彼女を宥めるのに苦労して、私たちは喫茶店の前からタクシーを拾った。
 
 道中、彼女に詳しく聞くと、彼女の息子さんが交通事故に遭い、病院に運ばれたと言う。彼女、結城知美さんは、本人の意識もしっかりしているし、たいしたことはないのだからと頻りに恐縮していたが、あの状況では、こちらが落ちついて話などしていられなかった。
 それに彼女がノートに書いた病院名は、救命救急センターで、たいしたことはないという、その言葉を簡単に信用できるものではなかった。
 今は夏休み中で、息子さんは友達のところへ行く途中で、車と接触してしまったらしい。
 タクシーは一路、大阪を北上し、吹田にある大きな病院へと吸いこまれていった。
 私たちは結局、車の中でインタビューなど出来るものではなく、慌てて車を降り、受け付けで名前を告げ、救急処置室の場所を教えてもらった。
 結城さんが走り、その後を追おうと振り向いた時、こんなところにいるはずのない人物を見つけてしまった。
「火村……」
 火村も驚いた様子で私を見て、歩み寄ってきた。
「何かあったのか?」
 今までと何も変わらぬ口調、変わらぬ態度にほっとするものの、それがまた私の神経を逆撫でもした。
「君こそ、こんなところで何をしているんや」
 棘のあるいい方をしたのだろう、自分でもわかっていたがとめられなかった。そして火村も私の話し方に不審を抱いたようだ。
「死体の検案書に疑問があって、それを聞きに来てたんだ。遺体解剖の前に担ぎ込まれたのが、ここだったんだ」
 さすがに声のトーンを落とし、周囲を憚って話す。しかし、私はそれさえも気に入らなかった。何故こんなにも、彼は落ちついていられるのだろう。理不尽な想いに支配されていた。
「じゃあ、フィールドワークも頑張ってくれよな。俺は彼女が気になるから」
 処置室へ行こうとする私の腕を掴んで、火村が引き止める。
「何を怒っている、アリス」
「関係ないやろう、君には」
 その言葉に火村は唇を噛み、私の手を離した。
「いや、火村、あのな」
「行けよ」
「火村って」
「行けよ!」
 男二人が受付で睨み合うのはかなり目立っていたのだろう。ギャラリーが集まり始める。
「ああ! もう。君も来てくれ!」
 さっきまでとは反対に、私は火村の腕を掴み、見物する人々から脱出した。
 
 処置室の前に結城さんが立っていた。彼女の横には、警官と作業服を着た中年の男性もいる。多分、息子さんを轢いてしまったドライバーだろう。
「どうですか?」
 私が友人を連れていることにも気づかない様子で、結城さんは頷いた。
「ご主人ですか?」
 警官が私に尋ねる。私は慌てて首を横に振った。
「では、そちらが?」
 火村は違いますと一言だけ告げる。
「あの、私が仕事先で結城さんと一緒にいたんです。そこに連絡を貰って。彼は私の友人で、たまたまここで会って」
 私の説明に警官は頷いただけだった。黙ったまま、扉の前に立ち続ける。
 重苦しい沈黙の中、バタバタと足音がして、二人の人影が近づいてきた。
「知美!」
 彼女の名前を呼んだところを見ると、一人はご主人なのだろう。もう一人はきちんと身形を整えた初老の女性だった。警官が私たちにしたのと同じような質問をしようと口を開いた矢先、乾いた音が廊下に響き渡った。
 ご主人が結城さんの頬を打ったのだ。
「落ちついてください」
 凍りついた空気を破ったのは、さすがと言うべきか、警官だった。
「だから、くだらない仕事なんか、辞めてしまえと言ったんだ!」
 だが、夫のほうは、警官の制止など、ものともしていない。まだ彼女に掴みかかろうとしている。それを止めたのは火村だった。
「あんたが昌治を轢いたのか!」
 結城氏は今度は火村を殴りかねない勢いだった。本当に轢いてしまったドライバーの方は、ひびってしまって、壁際に避難している。
「私ではありません。しかし、今はそれを詮索している場合ではないでしょう。お子さんのことが気にならないのですか?」
「やかましい。部外者なら黙っていてもらいましょう」
 結城氏が再び知美さんを睨む。
「昌治に後遺症が残ったらどうしてくれる」
 どうしてそれを知美さんに言うのか、私は信じられない思いで聞いていた。
「仕事仕事で昌治のことをほったらかすからこういうことになるんだ」
 どうしても事故の原因を知美さんにしたいのだとわかって、私は腹がたって仕方がなかった。だが、彼女は一言も言い返さない。
 どうして。あれほど活発な人だったではないか。家庭でも明るくて、亭主のことなど尻に敷いていると思っていたのにと、彼女を見ると、知美さんは上目使いに、初老の女性を見ていた。多分、夫の母親なのだろう。
 警官は尚も夫が彼女に暴力を振るわないように気をつけていたが、さすがに結城氏もここで殴るのはまずいと思ったのか、手を上げることはなかった。だが、それでも彼女を罵ることはやめなかった。
「ご主人、お勤め先はどこですか?」
 突然、火村が場違いなことを聞いた。口汚く妻を責めていた結城も言葉を継げなくなる。
「なんだ、あんた」
「お勤めはどちらかと聞いているのです。私は府警本部の船曳警部の知り合いのものです」
 火村の言葉は警官にも緊張を走らせたようだが、夫にも多少の効果はあったようだ。
「わ、私は南に事務所を持っているんだ」
「では、奥さんが今日、どこで仕事をしていたか、ご存知ですか?」
「そんなこと、知るわけがないだろう!」
 罵声にも動じず、火村は淡々と続ける。
「奥さんは今日、夕陽丘で、そこにいる作家のインタビューをしておられました。あなたと同時刻に事故の連絡を受けたはずですが、病院に駆けつけたのは、あなたより遠い場所にいた奥さんの方が早かった」
「私は家に母を迎えに行っていたんだ」
「何故です?」
 問われた意味がわからなかったのだろう、結城は、はあ? と口を開ける。
「何故、病院に駆けつける前に母親を迎えに行く必要がありますか? 拝見したところ、足がご不自由なようでもありません。ご自宅はこの病院の近くでしょう。わざわざ救急車は遠くへ運んだりしませんからね。つまり、お母様は自分で来られた方が、早かったのではありませんか?」
 姑が憎々しげに眉間に皺を寄せる。
「意識もしっかりしていると聞いたから、私が母を迎えに寄ったんだ。それのどこが悪い」
「もちろん悪くはありません。しかし、だからと言って、あなたが奥様を責める謂れもないはずだ。あなたはご自分の息子より母親を優先した。それだけのことです」
「そこまでにしましょう」
 一触即発の空気を破ったのは、処置室から出てきた医者だった。
「すべてお聞きしました。息子さんは意識もしっかりしていて、今はお母さんに会いたがっています。処置は終わりました。どうぞ」
 医者はそう言って、知美さんに入り口を譲った。
「お一人しか通せません。しばらくここで様子を見て病室に移ってもらいます。残りのご家族の方はそこで」
 医者は自分も処置室に戻って、ドアを閉めた。
 私は拍手したい欲求を抑えるのに苦労した。
 
 
 
 結城に睨まれながら、火村と私は病院を後にした。インタビューを続けられるどころではなかった。
「なあ、もう帰るんか?」
 私の問いに、火村は片眉を上げる。
「さっきまでとはえらい違いじゃねーか」
 受け付けでのことを言っているのだろう。
「俺は関係ないんじゃないのか?」
 どこまで意地悪なのだろう、この男は。悲しくなるほど腹が立つ。
「もうええわ」
 悔し紛れに火村の横を擦り抜けて早足で歩き始めると、火村が並んでくる。
「なんやねん」
「別に。お前んちに寄ろうかと思って」
「君の家の方が近いやんか」
「だったら来るか?」
 訊かれて、つい足を止めてしまった。
「来いよ。謝るから」
 謝る? 何に!
「アリス」
 焦れた火村が肩に手を伸ばしてくるのを、私は払い除けてしまった。
「自分、何もわかってへん。わかってへんわ。何に謝るって言うんや。いい加減にしいや」
「アリス」
「僕が謝って欲しいなんて思ってると思うんか。えらい見当違いなこと言うなや。バカにするなや。なんやねん、君。わからんわ、君の考えてること」
 涙が出そうになって、歯を噛み締め息を止める。こいつの前で絶対にみっともない姿を見せるものかと意地を張っていた。
「アリス、聞けって。俺が謝りたかったのは、連絡しなかったことにたいしてだ。お前の思っているようなことじゃない」
「へ?」
 私の支離滅裂な口撃の中から、火村は言わんとしたことをちゃんとわかってくれたらしい。たったそれだけのことで、あれほど荒れていた気分がすとんと落ちつく。
「あれは……、悪かったなんて、思っちゃいない」
 そう言われた途端、気恥ずかしくなって、私たちはお互いに視線を外す。
 つまり、それは、お互いに、想いを確認したことにならないか?
「悪かったな、連絡できなくて。あの事件の後、論文を頼まれちまったんだ。それで……」
 言い訳だとわかっていた。どれほど忙しくても、電話の一本が出来ないわけがない。実際、火村は今日、ここにいたのだし。
 だが、連絡をいれなかったのは私も同罪だ。
「ええよ、もう。今日、知美さんを助けてくれたのでチャラにする」
 私はこの時、火村の触れてはいけない部分に触れてしまったことに気づかなかった。火村が私のこの感謝を一蹴してしまっても、そのことに気づかないでいた。
「俺は彼女を助けてなんかいないぜ」
「え?」
「彼女は何をおいても駆けつけようとしたか?」
 火村の指摘に、私はあっと小さく叫んでしまった。
『先生、申し訳ありません。ちょっとインタビューを急がせてもらってもよろしいですか』
 彼女はインタビューを続行しようとした。
「よく、わかったな……」
「お前が一緒にいたことでわかったのさ。お優しい有栖川先生でなけりゃ、インタビューを中止して、病院にまで駆けつけさせちゃくれないさ」
 火村は唇を歪めて笑う。その笑いに嫌な予感を抱く。
「俺は彼女にも呪いをかけたのさ。あの家族は家に縛られて、息子を後継ぎとしか考えちゃいない。彼女はそれが嫌で仕事に逃げていたのさ。本当に息子が大切なら、あの家から仕事に出たりなどしてはならなかった。息子を守りたいなら、家の中にいてでないと守れない。俺が言ったことで、彼女は自分がすべてを捨てて駆けつけなかった秘密を、これからずっと、守らなければならなくなる。その負い目を背負わなくてはならなくなる」
「やめてくれ!」
 私は火村の口を手で押さえ、人目も憚らず、彼に抱きついた。
 これ以上聞いてはいられなかった。これ以上、火村を喋らせてはいけない。
 どうして彼は、人を傷つけるようなふりをして、自分に刃を向けるのだろう。そこまでして、自分を傷つける理由がどこにあるのだろう。
「アリス、抱きついてくれるのは嬉しいんだけどな、さっきから注目の的だぜ?」
 ぽんぽんと頭を叩かれて、私は火村から離れた。そのまま憮然と歩き始める。ついと袖を引かれて睨みつけると、車があるからと、駐車場へ連れていかれた。
 おんぼろのベンツはそれでも機嫌良く、道路へ滑り出した。
「母親っていうのは、苦しいよな」
 高速に上がったところで、火村が唐突にそんなことを言う。
「子供のためにと言われちゃ、何もかも捨てなければならない。それでも何かを成し遂げようとすれば、母親失格のように言われ、鬼のように責められる。それを覚悟で引き換えなければならないほどのものなんて、母親以外、この世にあるか?」
 それは……、確かに存在しないだろう。まあ、男が仕事をしなければ、責められるだろうが、鬼とまでは言われない。
「リスクをすべて背負う覚悟でなけりゃ、子どもも迷惑さ」
「うん」
 それでも火村は、多分、母親に関して、何かを抱え込んでいる。彼の胸に残された遠い傷跡が、彼を今でも戒める。
「でも、あの子は母親に会いたいって」
「幻想だな」
 一言で片づけて、火村はタバコをくわえる。私は何も言えなくなって、窓を流れる風景を見つめた。大阪市内を抜けて、環状線を南に下り、動物園の脇で高速をおりる。そこから我が家までは、すぐだった。
 
 
 
 火村、僕は君のなんなのだろう。
 少しでも君の救いになっているだろうか。
 君をあの悪夢から呼び戻せているだろうか。
 火村、これから僕たちは、どこへたどり着くのだろう。
 
 
 
 道は続いていくが、私の心の中は不安で一杯で、横でハンドルを握る、端正な顔を見る勇気はなかった。
 

久しぶりのアリスです。やっぱり、あのまま未完ではまずいと思いながら、やっぱり未完ですよね、これじゃ。どうしたら終わるんだろう。わからない。またそのうち続きを書くと思いますので、長い目で見てください。長編が出たら一気に進むとは思うんですけどねー。早くー、アリス。

 

backgreen.gif (3913 バイト)