Regret
手を振り上げた時……目の前の恐怖に染まった顔が……記憶の底に封印したはずの顔と……重なった…… 「カーットッ!」 監督の怒鳴り声に周囲の空気が凍りついた。 「撮り直しっ! その前に休憩だっ!」 メガホンを振り回すようにして、監督は足音も荒く、控え室の方へと行ってしまった。 ヒデトは振り上げて、振り下ろせなかった自分の手をじっと見つめる。 「あの……大丈夫ですか?」 今はもう、ちゃんと女性に見える……少しも彼に似ていない、まだ若い女優が心配そうに声をかけてきた。 「すみません。何度も……」 ヒデトはぎゅっと手を握りしめて、頭を下げた。 「気にしないで下さい。ヒデトさんは優しいから、女優の顔を打てないと思われたんでしょう? でも、次は気にしないで本気で打ってくださいね。痛いほうが本気の演技、できますから」 このドラマの主演女優、見澤野夕実はにっこりと笑って本気で打てと言う。演技中も、今の笑顔も、どこにもシュウと似ているところなどない。 なのに手を振り上げた途端、彼女の顔がシュウに見えてしまうのだ。 「休憩して、気持ち、切り替えてくださいね」 もう一度にっこりと笑って、彼女もまた控え室へと戻っていった。 「英人さん……」 ポツリとセットの中に一人で取り残された英人の元に、マネージャーの大谷が遠慮がちに近づいてきた。 「休憩しましょう。あの……コーヒーを入れてあるんです」 いつも自分に甘い大谷に慰められるようにして、ヒデトも自分の控え室へ戻った。 秋から始まるドラマの主題歌を歌うことになり、その第一回目の放送に、ヒデトがゲスト出演することになった。 ヒデトの役どころは主演する夕実の、昔の男。ヒデトと別れたところから始まるドラマで、今はその別れのシーンを撮っていた。 別れ際のシーンで、ヒデトが彼女の頬を打つというところからドラマは始まるわけで、ただそれだけのワンカットだが、とても重要なシーンであることに変わりはなかった。 昔の男の登場シーンはそれだけで、特に重要なキャスティングでもないのだが、主題歌を歌う歌手が出れば、話題を集められるという理由だけでヒデトが選ばれた。 だが、ヒデトはそのシーンを撮れないでいた。 短い口論の後、ヒデトは手を振り上げる。そしてただそれを彼女の頬に当てればいいだけである。 何も本気で打たなくてもいい。あとは彼女が演技をしてくれるだろう。 そして手を振り下ろせないヒデトに、周囲は遠慮をしているととったらしく、本気で打ってもいいと言ってきた。 ……そうすると、ますます……できなくなったのだ。 目の前にいるのは女優で、彼じゃない。 わかっているのに、彼の顔がダブって見えるのだ。 ヒデトは控え室の椅子に座り、がくりと項垂れた。両手を組んで額に押し当てる。 駄目だとわかっていても……忘れようとしたはずの光景がまぶたに浮かび上がってくる。 あの時は……憎かった。 自分を閉じ込め、欲しい物を隠し、自分に怯えないシュウが……憎かった。 最初に打ったときの痛み……を、何故か覚えている。 そして、それを快感だと感じた自分も……。 後の暴力は覚えていない。いや、忘れたいと願っていた。 あの時の自分は普通じゃなかったんだと言い訳を繰り返した。 シュウと愛し合うようになり、彼があの時の話題を出さないので、それに甘えていた。 一度あの家に行ったとき、ヒデトの暴力の痕跡は綺麗に消されていた。そこで謝ろうとしたヒデトに、シュウは先回りして謝らせなかった。 『あなたが歌ってくれることが、俺への一番素敵な贈り物。それが一番嬉しい』 シュウのその言葉に許されたように感じ、忘れようとした。そして乗り越えたつもりになっていた。 そんな簡単なことで……許されるはずもなかったのに。 コトリと足音がして、ヒデトは大谷が戻ってきたと思っていた。 「大谷、撮り直し、いつからだって?」 俯いたまま、ヒデトは訊いた。大谷はヒデトの気持ちをわかってくれるという甘えがあった。 「やっぱり……他の俳優を使うとかに、ならないかな?」 もう自分の出番などなくていい、監督が呆れて別の俳優を使う気になってくれないだろうか。 「甘えるなよ」 ヒデトの目の前に立ち、冷たい言葉を振り下ろしたのは、大谷の声ではなかった。 「……海棠さん……」 はっとして顔を上げると、冷たい視線がヒデトを見下ろしていた。 「大谷が……呼んだの? 海棠さんが監督に交渉してくれる? 役の交代」 「バカを言うな。俺が取って来た仕事だ。何があってもやり遂げてもらうぞ」 「だけどっ。暴力シーンなんて、イメージ悪いだろう」 海棠ならうまく交渉してくれる。だからどんなに睨まれようと、今は海棠に縋りたかった。 「お前のイメージなんて今さらだろう。せっかく主題歌とタイアップして売り出せるんだ。やり通せ」 「嫌だ……できない……」 ヒデトは首を左右に激しく振って、できない、嫌だと繰り返した。 「甘えるなよ、ヒデト」 なのに海棠はヒデトの襟首を掴んで、無理矢理椅子から立たせた。 「お前にはできるだろう? 簡単なことだ。手を振り上げて、振り下ろすだけだ」 「でき……ない。目の前に……繍の顔が……繍の顔が浮かぶんだ……」 繍の名前を出せば許してもらえるのではないか、ヒデトは今、何とかしてこの場から逃げ出したかった。 「ふざけるなよ、ヒデト。繍を打てたんだろう? もう一度、同じことをすればいいだけだ」 海棠は掴んでいた手を離し、ヒデトの胸を押した。ぐらりと揺れて、ヒデトは床にどさりと座り込んだ。 「いいじゃないか。お前の目の前にいるのは繍だ。お前は憎いんだろう? お前から酒を奪い、自由を奪った繍が。打てばいいじゃないか。憎しみをぶつけろよ。憎んで憎んで、憎みきって、力をこめて振り下ろせ。そうすれば、お前は自由になれる」 憎い……。確かに憎かった。 だが、あれは、……何に対して? 「憎いんだろう? 繍が」 あの時、あの瞬間、目の前にいたのは、誰だった? 確かにシュウだった。 けれど、憎かったわけじゃない。憎しみはあった。 「なんなら、酒を持ってきてやろうか? 酔えば簡単なんだろう?」 酷い言葉。けれど……。 今ならわかる。今、自分に正しい憎しみをぶつけてくれる海棠がいるから。 あれは……あのとき憎かったのは、歌えない自分に対してだった。 酒を煽り、喉を潰して、自分を理解してもらえないと、努力を惜しんで周りに責任転嫁ばかりしていた自分を憎んだ。 自分が嫌いだった。歌を歌えない自分が嫌いだった。歌おうとしない自分が情けなかった。 自分を憎むことを恐れ、目の前にその対象を求めた。 シュウを憎むことで自分の罪を軽くしようとし、シュウを打つことで自分を憎むことから逃げていた。 握りしめていた手を開いて見つめる。 何度もシュウを打った手だ。それを忘れようとしていたなんて……。 「俺は……」 「できるな?」 海棠に言われ、ヒデトはしっかりと頷いた。 『うるさいっ! お前なんて、こっちから別れてやるよ!』 言葉と共に振り上げられた手が、彼女の頬を打つ。 彼女は涙をこぼして、自分を打った男を見つめた。 どこか哀れんだ瞳で。そうして未練を振り切り、背中を向ける。 男は去っていく彼女を見送る。 男は辛そうに唇を噛みしめる。 そして、泣きそうな目で微笑んだ。 そこから画面は彼女に移り、ヒデトの歌が始まった。 自分勝手な男を捨て、仕事に生きようとする彼女は、またも自分勝手な男たちに囲まれるが、過去の経験が彼女を強くし、反対に男たちを利用して出世していくという、コミカルでありながら、本物の男らしい男を探そうという女性の強さも見せるドラマになっていく。 海棠が現れたあと、ヒデトは監督と女優に一つの提案をした。 別れ話を持ち出されてかっとして打つのではなく、彼女を未来に押し出すために打ちたいと。 ただの冒頭シーンで、ほとんどドラマの今後に関わりも持たない。そんな拘りを持つことすら、生意気だと言われかねなかった。 けれど意を決して話をしたヒデトに、監督はすぐにOKしてくれた。 それからは一発でそのシーンを撮り終えることができた。 撮影のあとでヒデトはシュウがピアノの練習のために借りている部屋を訪れた。 「おかえり」 優しい笑顔で迎えられ、ヒデトは無言でシュウを抱きしめた。 「どうしたの?」 不思議そうに尋ねられて、シュウを抱きしめたまま首を振った。 「ピアノ、聴きたい」 ポツリと呟くと、シュウの笑う気配がした。声をたてずに、微かな笑みをもらしたのだろう。 「いいよ。何を聴きたい?」 「いつもの……」 シュウはぽんぽんとヒデトの背中を叩いて、ピアノまで導いた。 蓋を開けて、指を置く。 静かに、ゆっくりと、ピアノは甘いメロディーを歌い始めた。 その曲が何という曲なのかは知らない。繍のオリジナルであることはわかったが、曲名を教えてもらえない。曲の名前はないとシュウが言い、いつの間にか「いつもの」で済むようになってしまった。 優しく穏やかな旋律を目を閉じて聴いていると、ヒデトの気持ちが穏やかになっていく。流れ出すメロディーごとシュウに包まれているような気分になる。 いつもならその曲を聴いていると自然に身体が揺れるような心地好さなのだが、今もその空気に浸れるのだが、ヒデトは堪えきれずに涙を零した。 「英人?」 ピアノの音が消える。ふわりと両頬を暖かい手で包まれた。 「どうしたの? 今日はちょっと変だね」 「俺は……お前に酷いことをした。それを有耶無耶にして……勝手に許してもらった気になっていた」 「なんのこと?」 ヒデトはシュウを抱きしめた。 「たくさん打った。暴力で犯した。シュウを苦しめた……。すまない。悪かった。許して……くれ」 ヒデトは懺悔した。何度でも謝るつもりで、必死で言葉を繋げた。 「あなたのその後悔を、俺があなたを繋ぎ止めるために利用しているとしたら?」 「繍?」 「そうだとしたら、あなたは俺を憎む?」 ヒデトは首を振って否定した。 「どうして英人が俺に謝る必要があるの? 俺があなたを監禁して、あなたを苦しめたのに。悪いのは、俺なのに」 「シュウは俺のためにしてくれたんだ」 「違うよ。自分のためだった。もう一度、ヒデトの歌を聴きたかったから」 「だけどっ」 それでもなお言い募ろうとしたヒデトに、シュウは少し悲しそうに微笑んだ。 「堂々巡りだよ。俺はあれを暴力だとは思っていない。あなたも俺を恨んでいない。今はそれだけが真実じゃ……だめかな?」 何かに怯えるようなシュウの瞳は、本当にヒデトが閉じ込められたことで、いつか自分を憎むのではないかと恐れていることを告げていた。 「俺は……どうすればいい? どうすれば、繍は俺を許し、自分を許せるんだ?」 シュウはヒデトの言葉を聞き届けてにっこりと綺麗な笑みを浮かべた。 「いつも言ってるでしょ? 歌って。俺は、あなたの歌を聴きたい」 シュウが手を差し出す。その手をとって、ヒデトは立ち上がった。 しなやかな指が鍵盤の上に乗る。紡ぎ出すメロディーは繍自身が作ったヒデトの新曲で、今撮り終えてきたばかりのドラマの主題歌だった。 ヒデトは苦笑しながら、最初のフレーズを口にした。 |