PP−ピアニッシモ−

 







 コンサートが無事に終了して、英人は一週間の休みを貰った。
 その一週間をどう過ごすのか決めていなかった英人だったが、繍の控えめな誘いを喜んで受け入れて、二人で「あの家」へとやってきた。
 家はあの頃と変わらずに、ひっそりと建っていた。
 いや、大きく変わったところはある。
 窓から鉄格子が取り払われていた。英人が傷つけた玄関のドアや壁、床が綺麗なものに取り替えられていた。
 そしてピアノ室へのドアの電子錠がなくなっていた。
「俺の秘密のレッスン場なんだよ」
「秘密の?」
 不思議そうに尋ねた英人に、繍は寂しそうに笑う。
「家でいくら防音にしても、誰かに聞かれている、見張られているような気がして。そうすると、ピアノの前にも座るのが嫌になって。……そうしたら父がここを建ててくれたんだ。ここでピアノを弾くのが俺の休暇なんだ」
「そんな大切な場所を……俺は……」
 暴れた。壊した。穢した。
「僕の大切な場所だから、貴方のために使ったんだよ」
 荷物を置くと、窓を全て開け放す。
 緑色の空気が入ってくる。
「お茶、入れてくるね」
 キッチンへ行こうとする繍の腕を掴んだ。
 じっと見つめると、恥ずかしそうに逸らされる視線。
 英人は繍を抱き寄せた。
「……好きだ。……これからもずっと、俺の側にいて欲しい。今度からは、俺が、繍の支えになりたい」
 何もかもしてもらった。これからは繍に辛いことがあったときに、支えられる男になりたい。
 強く抱きしめると、繍は英人の背中に手を回して、「俺でいいの?」と囁いた。
「俺にできることって、ある?」
 具体的には思いつかない。してもらうばかりで、してもらうことが当たり前だったから、反対のことがわからない。
「歌って……。俺のために、歌ってくれるだけで、嬉しい」
 腕の中から見上げられ、潤んだ瞳で見つめられる。
 歌ってと請われた唇を、額に押しつけ、鼻の頭にキスをして、柔らかい唇に口接けた。
 くすっとお互いに笑ってしまう。
「歌ってって言ったのに」
「歌うさ。時間はたっぷりある……」
 再び重なる唇。
 ゆっくりとベッドへ座り、繍を抱き寄せる。
 身体を預けられ、その重みを受け止める。
 この重さを失いたくない。失ってはならない。そのためには何をどうすればいいのか、もう英人には判断できる。
 セーターを脱がせ、シャツのボタンを外しながら、シーツへと押し倒した。
 唇に、頬に、耳に。細く頼りなさそうな首を吸い上げて、紅い華を咲かせる。
「んっ……」
 繍は身体を捩じらせて、薄紅い痛みを逃そうとした。
「繍……、愛してる」
 優しい声の響き。大好きなその声で、耳元で囁かれる。自分の名前だけを繰り返す、英人のかすれた声。
「……っぁ。……んん」
 囁き、口接け、名前を呼ぶ。声と呼応するように、力強い手が細い肢体を辿り、撫でていく。
 唇が歌う代わりに、繍の身体を確かめるように撫でていく。
 身体の熱か上がっていく。
 静かな流れしか知らなかった血液は、熱い激流となって身体を駆け巡る。
 ヒデトの歌で生き方を知った。英人の唇で身体を創りかえられる。
「……ん……ひで…と……」
 鍵盤の上を自由に動く手が、ただ縋るものを求めて英人の肩を掴む。
「もっと、名前を呼んで、……欲しい」
 愛撫の手を止めて、英人は繍の胸に頬を寄せて囁いた。
「……英人……英人……」
「繍、愛してる」
 深い口接け。舌と絡まり、顎の内側を舐められる。
 乳首を指先で摘まれて、身体が思わず逃げようとする。
 足を絡めとられて、熱い昂ぶりが太腿に当たる。
「……英人……」
 苦く恥ずかしそうに笑って、ヒデトはその灼い固まりを更に押しつけてきた。
 ぞくりと背中に痺れが走る。
 ヒデトの手が伸びて、自分もまた濡れるほどに硬く熱くなっていることを感じた。
「繍……」
 太腿に感じる英人の熱と、自分を弾けさせようとする英人の手が、同じリズムを刻み始める。
「……んぁ……んんっ……っぅ」
 そのリズムに合うように、艶やかな声が零れてしまう。
「……っぁ……んん……英人……も……」
 背中が撓る。
 唇を強く吸うと、英人の手の中に繍が弾けた。
 大きく上下する胸が落ち着くのを、髪を撫でながら待っていると、繍は唇を噛んで英人を睨んできた。目尻に小さな涙の粒が浮かんでいる。
「嫌だったか?」
 心配になって尋ねると、繍は左右に首を振った。
「どうして泣くんだ? 怒ってるのか?」
 目尻の涙を唇ですくい取る。
「だって、俺だけ……なんて、嫌だ……」
 あまりに可愛い台詞に、英人はたまらずに抱きしめた。
「これから、もっとしたいんだけど、いいか?」
 くすっと繍の笑う気配。そして聞こえてきた台詞に、ヒデトもまた笑った。
「今更、聞かなくてもいいんじゃない?」


 ベッドに横たわり、小さな声でゆっくり歌う。
 ピアニッシモの響きは、抱き寄せられた胸から響いてくる。
 伴奏のない優しい愛の歌は、子守唄のようだ。
 自分だけが観客という贅沢なコンサート。
 会場は大好きな人の胸の中。
 眠ってしまうのはあまりにもったいないのに、まぶたが勝手に閉じようとする。
 もっともっと聴いていたい……。
 必死に目を開けようとする繍に、英人は微笑む。
「寝てもいいよ」
「駄目。もっと聴いていたい……」
「いつでも歌うよ。繍だけのために……。きっと目が覚めた時も歌ってるから、安心して眠れよ……」
 そう言われるとまぶたが下がってしまう。
「でも、起きたら、俺のためにピアノを弾いてくれよ。俺も、繍のピアノを聴きたいんだから」
 それなら何度でも……と、繍はこくりと頷いた……つもりだった。
 うんと言ったのが、返事だったのか、既に寝言だったのかはわからない。
 英人はしばらく眠れそうになかった。
 幸せな時間を過ごした後に、繍が消えていた経験が、英人の睡眠を遠ざけている。
 歌を止めると、繍の手が探すように英人を求めて動くので、英人はその手を捕らえて歌い出す。
 優しく、優しく。繍だけに聴こえる小さな声で。