ひとつのひかり −35−
歌声はホールを震わせて、波が引いていくように、静かに消えていく。 ピアノが最後の音を放ち、ホールは静まり返った。 一拍分の呼吸を置いて、拍手が押し寄せてきた。 全員が立ち上がり、一心に手を叩いていた。 ヒデトはその波を全身で受け止めた。 両手を広げ、身体を二つに折るようにお辞儀をする。 うしろを振り返るのが怖かった。 シュウが消えていたらどうしよう。 だから、なかなか頭を上げられなかった。 拍手は鳴り止まない。 ヒデトは頭を上げ、思い切って振り返った。 あの日と同じように……、シュウも立ち上がってヒデトに向かって拍手を贈ってくれていた。 ヒデトは一度舞台の袖に引っ込み、滝原の手を引いてきた。 途中でシュウにも手を差し出す。 シュウは微笑んで、手を重ねてきてくれた。 二人の手を引いて、中央まで戻ってくる。 「俺の、大切な、ピアニストです」 そう二人を紹介した。拍手はまた大きくなった。 「ありがとう……、ありがとう」 ヒデトはファンに手を振った。 拍手が鳴り止まぬまま、コンサートは終わりを告げた。 興奮が過ぎ去ったホールの中は、余韻を残しながらも、物寂しい空気が流れていた。 そんなステージの上で、ヒデトはシュウと向かい合って立っていた。 言葉が出てこない。 言いたいことはいっぱいあったはずなのに。 いざシュウを目の前にすると、何も言えなくなってしまった。 「今まで……ごめんなさい」 シュウが小さな声で謝る。 「どうしてお前が謝るんだよ。謝るのは、俺の方なのに」 怒ったように言ってしまってから、ヒデトは慌てた。逆切れしてどうするんだと、自分を叱る。 「ごめん。色々、全部、ごめん。謝って許してもらえることじゃないけれど、何でもする。お前に許してもらえるなら。本当にごめん」 ヒデトは頭を下げた。 シュウが何かを言ってくれるまで頭を上げるつもりはなかったが、下げた頭の視界の中に、シュウのつま先が入ってきた。 「もう、いっぱいしてもらったよ。それに、トップに立ってくれた。それだけで、俺は嬉しいんだ」 「何もしてないよ。トップに立ったのだって、お前に逢うためで、つまり、俺のためなんだから」 ヒデトは頭を上げる。シュウが微笑んでいた。 「違うんだ。貴方を電車で通わせたのも、色んなレッスンに行かせたのも、いっぱいあった仕事を断らせて、いい仕事しかさせなくて、CDを自費製作させたのも俺なんだ」 「え……?」 シュウの言葉の意味がわからず、ヒデトはきょとんとしてしまう。確かめるにはまず何から尋ねていいのかがわからない。 「シュウはエンブロイダリーの社長だからな」 驚くヒデトのうしろから、さらに驚かせる言葉が聞こえた。振り返ると、海棠が立っていた。 「兄さん」 シュウが苦そうな顔をして呼びかけた。 「……社長? ……兄さんだって?!」 もうこれ以上は驚けないとばかりに、ヒデトは頭の中が真っ白になる。疑問だらけの頭でシュウと海棠を見比べた。 「黙ってて、ごめんなさい。俺の名前は海棠繍です。貴方を立ち直らせたくて、エンブロイダリーを創りました」 シュウが本当の名前を明かし、俯くように頭を下げた。 「創りました……って、……そんな簡単なものじゃ……」 ヒデトは前の事務所のお荷物だったとはいえ、違約金だって生じただろう。それに加えて色んなレッスンの料金、稼いでいなかったヒデトの給料。CDの自費製作費。CDが売れ、仕事が入ってきたとはいえ、6都市を回るコンサート費用はとても出なかったはずだ。 「そんなお金……どこから……」 まだ十代に見えるシュウがそんなお金を出せるとは思えない。 海棠や、海棠の親が出したというなら、まだ頷ける。 「お前、だから新聞くらい読めって言っただろう。あの時の新聞には、こいつが載っていたんだぞ」 「兄さん」 シュウが咎めるように兄を睨んだ。 「新聞って……。高校生じゃないのか?」 「繍君はピアニストだよ。世界的にも有名で、英人よりもCDをたくさん出してて、売れている。リサイタルを開いても、どこの国でもいっぱいになる」 「滝原先生」 滝原までが加わって、シュウが隠していたことをばらしていく。シュウは困ったようにヒデトを見た。 「新聞には何が……」 「オーストリアのピアノコンクールで優勝という記事だ。今までどこのコンクールにも出なかったシュウ・カイドウの登場と優勝に、クラシック界が沸いた」 海棠の説明に、シュウは何故か恥じるように俯いた。 「そんなすごい奴が、どうして俺なんか」 ただの歌手だ。しかも、酒に溺れて、歌えなくなっていた最低の歌手だ。 「ピアノが弾けなくなった時があったんだ。ピアノを触るのも、見るのも嫌になって、ピアノから逃げていた時に、貴方の歌を聴いた。すごく素敵で、夢中になったんだ。貴方のCDを集めて、何度も聴いて、気がついたらそれをピアノで弾いてた。貴方が俺のピアノを取り戻してくれた。だから俺は貴方のこと、責められないんだよ。貴方は俺に謝らなくていいんだ。俺も、自分のために、貴方をあんなところに閉じ込めて、無理矢理に矯正したんだから。あんなことしなくても、貴方はきっと、立ち直ったのに」 シュウは寂しそうに笑う。その笑顔がはかなげで、ヒデトは胸が締め付けられる。 「ただの恩返しのためだった?」 そうじゃないと言って欲しい。そうでなければ、立っていられない。 「違う。恩返しなんかじゃない。ただの俺のわがままだ」 「だったら、同情した? だから、俺の世話をやいてくれた?」 シュウはそれにも首を振って否定した。 「俺は……歌手のヒデトに、自分の歌を取り戻して欲しかった。貴方の歌に相応しい場所を作りたかった。素晴らしい環境を作って、その中で歌わせてあげたいと思っていた。そのためには貴方を支えられる事務所を作るしかないと思った。そんなファンの究極のわがままなんだ。そのわがままで貴方を閉じ込めて、苦しめた……」 どうして今までシュウが顔を見せてくれなかったのか、その理由の一つがわかったような気がする。 この告白はシュウにとって、自分が被告人の裁判にも等しかったのだろう。 「俺は、あの時、犯罪者になるところだった。シュウに助けられてなければ、立ち直れなかった。ありがとう」 「お礼なんていわないで。あの通報をしたのも俺なんだ。貴方の電車で通う姿を週刊誌に撮らせたのも俺。全部、俺が仕組んだんだ」 苦しそうな告白をするシュウを、抱きしめたくてならなかった。 聞きたいことはただ一つなのに、それを聞くためには、シュウが恐れているものを取り除かなくてはならないような気がした。 「有馬さんの言ってた海棠君って、海棠さんのことじゃなくて、シュウのことだったんだ……」 そう考えて思い起こせば、ヘアーサロンの有馬は海棠のことをさん付けしたり、君付けしたりしたのだ。 「パルトネーレの口紅のCMに、俺の歌を使うように仕組んだのもシュウなのか?」 「それは貴方の実力だよ! 確かにあの発表会に出してもらうようにはしたけど、それから先は貴方の歌に感動した人が申し出てくれたんだ」 「それもシュウのコネだったらどうしようと思った。違うんだったらいいよ。少しは俺の歌も認められてるってことなら」 「貴方の歌はすごいよ。あの家から出たあと、俺は側にいないほうが貴方のためだと思った。だけど、どんな人でもいいからという頼み方はしたくなかった。龍兄さんや有馬さんや、滝原先生や、録音スタジオや色んなところに頼み込んだ。けれど、みんなの答えは同じだった。貴方を実際に見てから決めたいと。俺がいくら頼んでも、貴方の実力じゃなきゃ、誰も動いてなんかくれなかった。それに……いくらどんな力を使っても、金を積んでも、そんな小細工でトップに立てるわけないんだ。全部……貴方の力なんだ」 シュウの純粋な褒め方に、ヒデトは嬉しくてなる。 「どうしてすぐに出てきてくれなかった?」 「アメリカで……新しいCDを録音してて……。向こうの音楽学校の教授にレッスンも受けていたから」 「これからもアメリカに?」 「もうそれは終わったから……。あとは……個人的な音楽活動をするくらい」 「だったら、もう、隠れたりしない?」 シュウは小さく頷いてくれた。 「これからも、俺のために、ピアノを弾いて欲しいんだ」 「それは無理だな。何しろ、繍は一年のうち、半分は日本にいない」 突然海棠が横から、意地悪そうに会話に割り込んできた。 「え?」 「そんなには……行かないと思うけど……」 そんなには……ということは、どれくらいは行くのだろうか? それを聞こうかと思ったが、それよりも先に確かめなくてはならないことがあった。それに、伝えたいことも。 「日本にいる間だけでも、ずっと側にいて欲しいんだ。好きなんだ。離れたくないんだ」 「お前、兄の前で口説くな」 「煩いな、海棠さん。今、大切な場面なんだから、黙っててよ。ずっと俺に隠してたくせに」 「だから、俺の弟を、俺の目の前で口説くな。繍、絆されるなよ」 シュウは慌てたように首を振って、ヒデトを見た。 「俺、英人の傍にいたい」 「シュウ!!」 はじめて名前で呼ばれ、ヒデトはシュウを抱きしめた。 「俺、お前が仕方なしに俺の世話をやいてくれてたんじゃないかと不安だった。あんなとこに閉じ込められて、誰かに頼まれたから嫌々やってたんじゃないかって」 シュウの細い身体を抱きしめて、ヒデトは涙を隠すように急いで気になっていたことを話した。 「俺は……英人こそ、あんなところで、俺しか世話をする人がいないから、俺のことを見てくれるんだと思ってた。英人は俺にとっては遠い世界の人で、スポットライトの中の人で、手の届かない人だったから……。あそこから出れば、俺のことなんか、すぐに忘れてしまうと……」 「忘れるわけない!」 抱きしめていた手に力をこめる。海棠が見ていようと、滝原が見ていようと、気にならなかった。海棠がどれほど引き離そうとしても、絶対に離すものかと力をこめる。 「お前に逢うために……頑張ったんだ」 「あの時……電話で謝りたい、逢いたいって言われて、嬉しかった……」 テレビ局の控え室で、無言で切れてしまった電話。 「どうして何も言ってくれなかった?」 「コンサートが終わるまで、英人に余計な心配をかけたくなかったから……。俺がいたら、迷惑だと思ったから……。でも、逢いに来いって言われて……我慢できなくなった」 「好きだ……。愛してる。……ずっと傍にいてくれ……」 「俺なんかでいいの?」 「シュウこそ、こんな情けない歌手でもいいのか?」 その答えは聞けなかった。 しがみついてくる腕の力が強くなったことで、聞かなくてもわかった。 「ねぇ……歌って……」 小さくねだる声に、ヒデトは嬉しくて、楽しくて、自然と歌が口に出てきた。あの家で、シュウのピアノに合わせてはじめて歌った歌。 今は、シュウ一人のために歌いたい気持ちだった。 シュウも笑いながら、一緒に口ずさんだ。 「駄目だ……」 海棠は呆れたように、二人を見ている。けれど、その顔は嬉しそうだ。弟のスランプを救った歌手のことを、散々聞かされていた兄は、こうなることを予想していたのかもしれない。 「いいじゃないか。二人が幸せなら」 シュウはヒデトをピアノのところへ引っ張っていき、ピアノを弾き始めた。 「あーあー、鍵盤の天使と呼ばれたピアニストが安い曲を弾いて……」 「繍くんにとっちゃ、最高の曲なんだろうよ。一時期は、ずっとあれを弾いてたな」 嘆く海棠を滝原が宥める。 海棠と滝原はそっと舞台を去っていく。 ステージは二人きりになったが、二人がそれに気づいているのかどうかはわからない。 二人は幸せそうにピアノを弾き、そして歌っていた。 Fine. |