HIKARI  −12−



 テレビから消えたヒデト。
 彼が何をしているのか、全くわからない状態になってしまった。
 もちろん新曲も出ない。
 そして彼の名前が出るのは、音楽雑誌や情報雑誌ではなく、ゴシップばかりの週刊誌や写真雑誌だけになっていき、それからもまた次第に消えていった。
 繍自身はピアノの前に復帰し、小さいながらもリサイタルを開くようになっていた。
 CDを出さないかというオファーが持ち上がり、気乗りのしない繍だったが、CDデビューを持ちかけてきたレコード会社の名前を見て、藁をも掴むような気持ちになった。そこはヒデトがCDを出している会社だった。
 話を進めていく上で、ポップスとクラシックでは、部署も人もまるで違うことはわかったが、それでも一縷の望みを持って、ヒデトの名前を出してみた。
 繍の担当者は、ヒデトの名前を聞くと露骨に眉を顰めた。
「やはり、色んな噂は本当なんですか?」
 恐る恐る聞いてみると、担当者は苦笑しながらも簡潔に答えてくれた。
「彼がもう一度歌う事はないでしょう」
 ショックを受けながらも、繍の希望を繋いでいるのは、最後に聞いたヒデト自身の歌声だった。
 小さなホール、マイクを通さずとも届くほどの距離で聞いた、生の歌。
 彼は決して歌を捨てたいわけじゃないんだ……、きっと……。
 繍が出したCDは、クラシック分野としては飛躍的な売り上げをみせた。
 海外でのタイトルこそないが、繍のピアノは、滅多に人前で弾かないこともあり、クラシックファンの間では、待ち望まれていた音楽だったのだ。
 繍としては、もうCDを出す気持ちはなかった。
 CDを出したことにより、コンサートやコンクール出場の話が盛んに持ち込まれるようになったからだ。
 ヒデトという歌手を好きになって初めて、繍は自分のピアノを聴きたいと思ってくれる人がいるのなら、人前で弾いてもいいと思えるようになっていたが、自分のペースを守りたい。
 人前で弾くのはいいが、そう思えるようになったからこそ、ヒデトに復活してほしい。
 その思いは強くなる一方だった。
 ヒデトにもう一度歌ってほしい。どうすればいいのか……。
 そればかりを考えていた。
 CDを出したことで、繍の周りは騒がしくなっていく。聞こえてくるのは良い話ばかりではなかった。中にはあからさまに、無冠の繍を揶揄する声も大きくなっていった。
 その声を意識してか、海外のコンクールに出場するように強く勧められるようになった。
 人と争うことが嫌いな繍は、コンクールをとても嫌っていたが、それを無視することは難しくなってしまった。
 家族は繍がまたピアノを弾かなくなるのではと心配したが、繍は一つの決意を抱いていた。
「コンクールには出る。だから、その前に、半年の猶予を下さい。我が侭を一つだけ聞いて下さい」
 幼い頃からピアノだけを愛し、どんな我が侭も言わなかった彼のはじめてと言ってもいい要求に、両親も周りの大人も、ニコニコと頷いた。
 それがすぐに驚愕に変わるとも知らずに……。

「ヒデトの病気を治して、彼のレッスンをしたい。彼が復帰しないのなら、俺もピアノを弾く意義はない」

 ただ一つの光を取り戻すための闘いが、これからどれほどに苦しいのかもわからずに、繍は一歩を踏み出した……。



***** *** *** *****



「俺は誰にも丸め込まれてなんていない。俺は俺の意思でヒデトに歌を作り、貴方たちの依頼を断った」
 辛そうな声の繍を、ヒデトは心配そうに見つめる。
「どうして、こんな歌手に。こいつはね、歌なんてこれっぽっちも愛していないのよ」
 有澤華代は今は憎々しげに繍を睨みつけている。
「この世界の常識もないし、いい加減な気持ちでマイクを持っているのよ。顔だけで生きていけると自惚れているのよ。そんな歌手のどこがいいっていうの」
 興奮しているために、彼女の声は高く大きくなっていく。遠巻きにスタッフたちが集まり始め、何事かと息を潜めて眺めている。
 それを意識してか、有澤はヒデトを貶めようと、過去のスキャンダルをも持ち出した。
「薬物パーティーに乱交、酒に溺れてドタキャンばかり。歌だって、全部吹き替え。今も吹き替えなんじゃないの?」
 嘲笑いながらの非難だったが、ヒデトは目を逸らすことはしなかった。
 全部受け入れたはずだ。それだけのことをしてきた。
 今、ここに立っていられるように、這い登ってきたのだ。その自分を恥じることはないはずだ。
「ヒデトは制裁を受け、すべてを失くした。けれど彼は自分の歌を取り戻した。彼自身の声と、心に感動して、俺は歌を贈った。もしも、貴方の息子さんにヒデトと同じだけとは言わない、半分でも歌の気持ちがあったのなら、断ったりしなかった」
「大吾に歌の心がないとでも言うつもり! この子は生まれたときから私の歌を聴いて育ったのよ」
 いくら言葉を尽くしても彼女にはわからない……。そんな無力感を感じながらも、繍は静かに首を振った。
「その人は、ただ上手に歌うだけだ。とても上手だけれど、俺には何も浮かんでこない。だから曲は作れない」
「上手なら、それでいいじゃないの。こんな奴より、ずっと上手でしょうが」
 虚しさを感じながら、繍はもうこれ以上は無駄だとばかりに頭を下げた。
「ごめんなさい。どうしても俺には無理です。貴方の名声を利用すれば、もっといい曲を作ってもらえるはずです」
「バカにしないで。もうお前になんか頼むつもりはないわよ!」
「だったら、もうヒデトを出さないようにテレビ局に圧力をかけることなど、止めて下さい。お願いします」
 下げた頭を上げないまま、頼み込む繍に、ヒデトは胸が痛くなる。
「繍、俺が悪いんだ。繍が謝る必要なんてない。俺は、何をされても仕方ないことをしてきたんだから」
 なんとか繍の頭を上げさせようとするが、繍は硬く拳を握ったまま動こうとしない。
「こんな歌手のどこがいいのかしら。ここだって、どうせシュウ・カイドウのコネでしょう。本来ならヒデトなんてスキャンダルまみれの三流が出られるようなところじゃないわ」
「それは違いますよ」
 膠着状態の現場に、静かに割り込む声があった。
「誰よ、お前は」
「ヒデトが所属するエンブロイダリーの代表をしております。以後、お見知りおきを」
 張りのある声は、有澤を圧倒するほどの響きを持っていた。
「以前からヒデトに対して出演のオファーは受けていました。ヒデトのキャラには少し色合いが重過ぎるように感じて、お断りしていたくらいですよ。他の番組からキャンセルが相次ぎましたので、再度の出演はお願いしましたがね」
 海棠は立っているだけで圧迫感がある。しかも尊大な態度で話すので、どうしても威圧感を拭えないのである。ヒデトも最初はかなり反発を覚えたものである。
「そんなはずはないわ。この番組は半年も先まで予定を綿密に組んであるはずよ。突然割り込めるはずがないわ」
 有澤の指摘に海棠は可笑しそうに笑った。
「よくご存知だ。まるで自分が歌いたいと思っておられるようだ」
 海棠が言うと、有澤はかっと顔を赤くする。
「少しばかり無理はしましたよ。けれどずっとお断りしていたシュウ・カイドウの出演があるのならばと、むしろ快くプログラムの変更をして頂きました」
 本当はスポンサーの一つに海棠製薬が入っているのだが、それをわざわざ教えてやる必要もない。
「ここにヒデトがいるのは、こいつ自身の努力と実力です。私は誰にも、どんな奴にも、こいつの批判は二度とさせません。それだけの忍耐と努力をこいつは積んできましたから。例え、全面戦争になっても、私はこいつを守りますよ。そしてこいつは、どんな妨害があろうとも、二度と挫けません。やってみますか?」
 ヒデトは唖然として海棠を見つめ、大谷は感動に潤みながらも、うんうんと何度も頷いている。
 有澤は悔しげに唇を震わせていたが、くるりと背中を向けた。
「絶対にそいつの上にこの子を立たせてやるんだから!」
 騒ぎを眺めていたスタッフたちを押しのけるようにして、有澤は息子の手を引っぱって退場する。
「バカ親だな、あれは。親の威光を借りる限り、それ以上にはなれないのに」
「兄さん、ずるい」
 ヒデトが呆然と海棠を見ているので、繍は面白くなさそうに、兄を睨んだ。
「ま、名前だけとはいえ、社長としてこれくらいはな」
「感動しました! 海棠さんも英人さんの素晴らしさをようやくわかってくださったんですね!」
 感極まった大谷に、処置無しと海棠は顔を顰める。
「お前はバカ親より上を行くよ」
「はい、私は負けません!」
 海棠は疲れたように肩を落とした。


 番組の収録が終わり、英人は繍のマンションへとやってきた。
「また繍に迷惑をかけたんだな。繍に気の進まないテレビの仕事をさせてしまった」
 すまなそうに謝る英人に、必死で首を振った。
「違うよ。あの人も言ってたでしょ、俺があの人からの依頼を断ったからなんだよ」
「でも、昔の俺が原因なんだから」
「ううん……」
 互いに自分を責めながら、相手を宥めようとして、その応酬に虚しさを感じた。
「俺さ、自分を卑下し続けるのは、なるべく止めるよ」
 英人が決意を固めたように言うのに、繍はうんと頷いた。
「過去の俺は消せない。でも、毎日頑張ることを見ていてくれる人がいる。その人はきっと、明日の俺を信じてくれる。繍や、大谷や、ファンや、……海棠さんとかさ。あの人にやっぱりお前は駄目だったのかと言わせないためにも、頑張るよ」
 最初は憎くてたまらなかったはずの自分を、挫けないと断言してくれた人がいるというのは、何よりも心強かった。
「やっぱり兄さんはずるい」
 英人の決意に、海棠の影響が大きいことに、繍は少しばかり不満を抱いた。あんなに反対ばかりしていた兄が、いつの間にかヒデトを支えることに些かの躊躇いもないことを、繍も驚いてはいるのだが。
「でも、繍が側にいてくれるってことが、何よりも心強いんだよ」
 少し拗ねたような繍の様子を、可愛いなと感じながら、英人は繍を抱きしめた。
 今、ここにある幸せは、最上のものだと実感しながら……。


               ……………おわり。