Glory −6−



 ホテル住まいも三日目になり、少し不自由さも感じ始めていたヒデトだったが、住宅街よりも移動のしやすさを感じ、また一人暮らしもいいかもと思い始めていた。
 以前はただ勝手気ままにしたいために一人暮らしをしたのだが、今は母親がヒデトが家にいると安心するようなので、わざわざ一人暮らしの話を持ち出すことはないかと思っていた。
 だが、ファンが近辺をうろうろしていたり、突撃されたりという心配がないわけではない。
 家族もある程度は慣れているが、迷惑をかけたくないという気持ちもあった。
 …………本当ならシュウと一緒に暮らしたい。
 いつか切り出そうと思っていた話だが、今はとても言い出せそうにない。
 一緒に暮らすどころか、気持ちまで離れていくような不安が押し寄せる。
「ヒデトさん、一度会社に顔を出すように連絡が来たんですが」
 大谷が申し訳なさそうに言うのに、ヒデトは仕方ないと腰を上げたが、顔はどうしても強張ってしまう。
 明日はもうバラエティー番組の撮影日だ。
 それでなくても気持ちが重いのに、泉の顔を見たくはなかった。
「さっさと話を済ませてくれるかな。それともまた仕事入れられたのかな」
 考えればその分、また気持ちが沈むのに、前向きには事務所には向かえなかった。
「そろそろ繍さんも戻ってくる頃だし、そうすればきっと……」
 心の準備ができていない状態でシュウの名前を出され、ヒデトは胸を痛くした。
 会いたくない……のではなく、会うのが怖い。
 あんなに会いたいと思っていたのに、それを先延ばしにしたい気持ちでいっぱいだった。
 あれから連絡は入れていない。向こうからもかからない。
 ヒデトの携帯が切れていれば、大谷のところに問い合わせがあってもいいはずだが、それすらもないようだ。
 もう駄目なのかもと思うと、足が震え、手の先が冷たくなる。
 そうするとますます連絡を取れなくなったのだ。
 遠距離恋愛が破綻するのは、何も会えない時間のせいばかりではない……と思うようになった。
 遠いのは距離ではなく、心なのだ。どうしても埋められない不安なのだ。
 そうしてどんどん臆病になってしまう。
「失礼します。ヒデトさんをお連れしました」
 エンブロイダリーに到着して、いつもと同じように大谷がノックをする。
「は? 呼んでないよ」
 泉は不機嫌な声で二人を睨んできた。
「いえ、この時間にここに来るようにって言われたんですが」
「呼んでないよ。だいたい、今日はテレビ局に行く日だろう」
 苛立ちながら早口で話すので聞き取りにくい。
「テレビは明日でしょう?」
「今日だよ。2月末」
「明日もまだ2月ですから」
 子供のようなやり取りに、ヒデトは今年が29日まであることに今さらながら気がついた。
「なっ……じゃあ、撮影は……明日なのか?」
 泉はメモか何かを探しているようだった。
「会社のスケジュールに書いてあるんじゃないですか?」
 当たり前のことだが、社長の泉にも所属タレントのスケジュールは届けられている。
 そもそも本人がシュウのスケジュールを完璧に把握していると自慢していたのだ。
「それは最近受けた仕事だから……」
 机の引き出しをガチャガチャと始めた泉をどこか他人事のようにヒデトは眺めていた。
 明日の撮影が今日だったとしたら、穴を開けたことになるのだろうが、どこか実感が湧かなかった。行かなければ、それはそれでいいかもなどと思っていた。
「事務所を通さずに受けた仕事だから、社の書類には書けなかったんだろう」
 そんなヒデトの背後から厳しい声が響いた。
 ヒデトは驚いて振り返った。
 ドアを開けて龍が立っていた。
「海棠さん……」
 大谷も驚いて龍を見ているので、彼が来ることは知らなかったのだろう。
「ぶ、部長」
 海棠は険しい表情で泉を睨んでいた。
「繍からヒデトが予定にない仕事をしていると聞かされて調べてみたら、どういうことだ? 全てお前が勝手に取ってきた仕事だな?」
「え? 勝手に……?」
 ヒデトは驚いて泉を見た。問い詰められて泉は顔を歪ませている。どうやら龍の言ったことは本当のことらしい。
「全て調査済みだ、泉。独立して芸能事務所を立ち上げるつもりなんだって? その資金作りのために、ヒデトで荒稼ぎしようと思ったのか」
 泉は顔色を失くしている。そこまで既に調べられているとは思ってもみなかったようだ。
「会社の金にも一部手をつけていますね。上手く隠したつもりでしょうが、本社の鑑査の目までは誤魔化せませんでしたよ」
 龍の後から入ってきたのは、海棠製薬の秘書課の課長だった。
 秘書課をまとめてはいるが、それは海棠家の長男の天をサポートするためであり、実質は海棠製薬にとって心臓部だといわれる男である。
 エンブロイダリー設立に当たっても、陣頭で指揮を執った龍よりも、内情には詳しいとされる。大谷もヒデトが復帰するまで、秘書課でマネージャーとしての心構えを叩き直された。
「懲戒解雇か、横領罪で告訴か、どちらがいいでしょう?」
 眉一つ動かさず、優しい顔のままで言う台詞を、平然と聞いているのは龍だけだ。
「か…金は……返す」
 泉が言えたのはそれだけだった。
「ではどうぞ、お引き取り下さい」
 にっこりと優しい笑みで見送られ、泉は見る影もなく肩を落として出て行った。
「では、私はこれで」
 見本のようなお辞儀をして、彼は出て行った。
「だいたいな大谷、どうして報告してこなかった。電話をかけても出ないし。おかしいと思って調べるのにどれだけ手間取ったか。お前がちゃんと話していれば、泉の暴走ももっと早く止められたんだ」
「ちょっと待てよ、大谷が悪いって言うのか?」
 一方的に大谷が責められて、ヒデトは腹が立った。
「それを言うなら、そもそも海棠さんが連絡とれないところにいたんだろう。ニューヨークにいたんだろう? それを知らない俺たちに、どうしろって言うんだよ」
「ニューヨークに行ったのは仕事だ。向こうでも通じる携帯を持っていた。連絡してこないばかりではなく、こいつは俺からの呼び出しも無視した」
「あの時は……英人さんのお母さんから電話があって駆けつけて、その後も離れられなくて……」
 真夜中に駆けつけてくれた大谷を思い出して、ヒデトは俯いた。全ては弱い自分のせいだ。
「大谷は悪くないよ」
「いいえ、悪いのは私です。龍さんから電話がかかっていたのはわかってました。でも、龍さんと繍さんが嘘をついて英人さんを苦しめていると思うと……、信用できなくなってしまって……」
「嘘をついていたんじゃないんです」
 重苦しい空気の中に、悲しそうな声が割って入った。
「繍……」
 泉が、松下が消えた入り口に、シュウが立っていた。
「嘘はついてなかった。ただ……ちょっと、内緒にしたかっただけなんだ」
 シュウは泣き出しそうな目でヒデトを見た。
「内緒って……」
 駆け寄りたかった。
 駆け寄って抱きしめたいのか、それとも詰りたいのか、どちらともわからない。
 胸の中に渦巻いているのは、複雑な感情だった。
 それでもその中心にあるのは、愛しいという隠せない想いだったが。
「貴方の四年に一度の、本当の誕生日に、プレゼントをして喜んでもらいたかったんだ」
 その秘密の行動が、余計な誤解を生むなど、シュウも考えていなかったに違いない。
「それで……ニューヨークに?」
 確かにシュウは自分のいる場所の、地名はいわなかった。
 嘘はついていないことになる。
 誕生日のこともすっかり忘れていた。
 いつも存在しない日付に、適当に誕生日をやり過ごしていただけだ。
 四年に一度だから、まだ自分は6歳だと笑っていたりした。
 だから今年が大切などとは思ってもみなかったのだ。
「夏にはアメリカでデビューできる」
「え?」
「全米デビューの下地を作ってたんだ、俺とシュウの二人で」
 うまく言えないシュウに代わって、龍が助け舟を出した。
「デビュー?」
 あまりにも大きな話に、閏年の誕生日ではなくて、エイプリルフールなのかと疑ってしまう。
「そんなことしたら……赤字が増えるだけなんじゃ……」
「赤字?」
「赤字だと?」
 ヒデトの心配に、シュウと龍が驚いた声を出す。
「赤字がひどいんだろう? 俺のせいで。だから泉が経費がかからないで儲かる仕事をしろって。他のやつも俺はシュウの税金対策のためだって」
「どれだけ稼いでいるのかわからないの? 売り上げだっていつもトップじゃないか」
「いや、だから、売るためには経費だってかかるだろうし。俺は働けてない時期も長かったし、前の事務所の違約金だって大きかっただろうし」
「それらはもう清算して、回収済みだ。その上でまだお前は稼いでいる。最初は倒産も覚悟だったが、今は海棠グループの中では優秀な会社だ。そうでなければ自社ビルなど建てられないだろうに」
「それに、この会社はもともとヒデトのためだけに作った会社だよ。僕のためじゃない。税金対策って言うのなら、他の音楽家たちのほうがそう呼ばれるのに相応しいんだ」
 落ち着いて説明されれば、スケールの大きさに実感は湧かないものの、納得はできるのだ。
 やはり距離が二人を遠ざけてしまうのか。
「これ以上忙しくなったら、余計に会えないじゃないか」
 心配なのはそこだ。
 もう、こんなことで不安に陥りたくない。
「それは大丈夫。これからはヒデトにあわせて、僕も海外公演を組むようにするから」
「シュウも離れて寂しいって……思っててくれたのか?」
 祈るような想いで聞くと、シュウはとうとう涙を一粒零した。
「そんなのっ……当たり前……」
 涙が床に落ちる前にシュウを抱きしめていた。
 んんっとわざとらしい咳払いがしたが、それもすぐに消えた。
 大谷が龍を引っ張り出してくれたらしい。
「今度こそちゃんとした人選をする。新しい社長にも、所属している音楽家たちにも、ここはヒデトのための会社だって説明する。貴方を絶対にバカになんてさせないっ」
 ヒデトがバカにされたことがよほど悔しいらしく、シュウは本人よりも怒っている。
「誕生日プレゼントありがとう。でもさ、大きいプレゼントより、俺はシュウが傍にいてくれるほうが嬉しいんだ」
 腕の中でシュウがこくりと頷く。
「僕ももう内緒はこりごり」
 繋がらない電話に苦しい思いをしたのはシュウも一緒だったのだ。
「ごめんな、電話に出なくて」
「僕こそ……ごめんなさい」
 謝るよりしたいことがある。
 シュウの頬に手を添えて顔を上向かせる。
「ありがとう……シュウ」
 信じられないような大きなプレゼントよりも、シュウが一緒にいる時間を増やしてくれたことのほうが嬉しい。
「ばらすのが一日早くなっちゃった」
「明日は一日一緒に……って、あぁ、仕事か」
「あれは断ったから。泉さんが勝手に取ってきた仕事だから、書類的にも不備が多かったし、あっさり納得してくれたよ。他の雑誌も、なんとか止めた。ヒデトのクオリティーは絶対に下げさせないから」
 あぁでも……と一つだけ引っかかったことがあるのだとシュウが続けた。
「この前の雑誌の分、写真は悪かったけど、インタビューは良かったように思うんだ。その編集者が、ヒデトにエッセイを書いて欲しいって」
「あれか……。うーん、断ってくれないか?」
 あれこれ悩んでいたが、シュウの顔を見てもやもやが吹っ飛んだ。
「エッセイは書いてもいいんじゃないかな。ゆっくり書いてもいいんだし」
「俺が伝えたいことはさ、歌に込めるのが一番いいと思うんだ」
 シュウの目をまっすぐに見つめる
「俺は、歌手だから」
 力強く誓う。
 ヒデトの答えを聞いて、シュウは微笑んだ。
「そうだね。ヒデトは歌手……だもんね」
「明日は一日中、シュウの恋人だけでいるけどな」
 ヒデトは悪戯を思いついた子供のように笑い、シュウは嬉しそうに頷いた。
 だからもう言葉は要らない。
 欲しいのは互いの温もり……だけ。




おわり