言葉をとめて  −君の声に触れたい−

 

 

 書類を詰めた鞄が重い。持ち帰るつもりなどなかったけれど、そのままだと会社に泊まりこまなくてはならなくなりそうで、書類の束を鞄に押し込んだ。

 どうしても……、家に帰りたかった。

 家が好きだとか、家でないと寛げないとか、そんな繊細な神経の持ち主ではない事は、他人に指摘されなくても良くわかっている。

 それでも家に、たいして広くも、綺麗でもないアパートに帰りたかったのは、今頃は届いているだろう、一枚のファックスを見るためだ。

 ズボンのポケットから鍵を取り出すのももどかしく、ドアを開ける。

 ダイニングのテーブルに鞄を無造作に置くと、そのままファックス兼用電話に飛びついた。

「ただいま」

 やはり届いていた一枚の用紙に話しかける。もちろん、紙は返事はしてくれないが、紙面に綴られた少し右上がりの綺麗な文字が、僕の疲れた気持ちを吹き飛ばしてくれた。

 

 

  お帰りなさい、浩平さん。

  今日もお疲れ様でした。

  こちらはかなり寒くなりました。

  来週くらいには、

  初雪が降るかもしれないねって、

  父さん達と話をしました。

  早く、雪が降るといいなって思います。

  そちらももう寒いでしょうか。

  風邪などひかないようにして下さいね。

  お仕事も頑張って下さい。

 

    慎吾  

 

 

 ラストに小さく、イラストが入っている。

 慎吾が自分に似せて描いた少年が、植物の中でエプロンをつけて立っている。どうやら今日は、温室の世話に専念していたらしいとわかる。

 慎吾はそうやって、自分の毎日を春日に伝えてくる。優しい思いやりに溢れた文章と、可愛いイラストが、今の僕の毎日の楽しみだった。

 何度も何度も読み返し、僕はファックス用紙と、ペンを手に取った。

 いつもなら、ただ日記の様にその日にあったことを書くのだが、今夜は違う。真っ先に知らせてやりたくて、だから無理をしてでも帰ってきた。

 逸る気持ちを押さえ、僕は読みやすく読みやすくと、呪文の様に唱えながら文字を綴った。

 

 

 慎吾、ただいま。

 今日は仕事を持ち帰ってきてしまった。

 でも、どうしても今週中に

 終わらせたかったからね。

 今週中に終わらせないと、

 せっかく取った休みをとりけされちゃう。

 

 慎吾、来週、休みを取ったんだ。

 今週末の土日を含めて五日間、

 そちらへ行けそうだよ。

 ホテルの予約を頼んでもいいかな?

 会える日を楽しみにしている。

 

 慎吾、おやすみ。

 早く会いたいな。

   浩平  

 

 

 

 書いた紙をファックスにセットして、短縮ボタンを押す。

『ファックスを送信します』という女性の声がして、用紙は中に吸い取られ、手前から吐き出されてきた。

 喜んでくれるといいなと思いながら、ネクタイを解く。部屋着に着替えながら、冷蔵庫からビールを出す。

 プルトップを引くのと、電話が鳴ったのは、ほとんど同時だった。

 

 

 電車がホームに滑り込むと、僕はドアが開くのも待ちきれず、身体をぶつけるように電車から降りた。そして頭をゆっくり巡らす。

 階段の下、誰かを探しているだろう小さな姿に気がついた。

「慎吾!」

 僕の声が届く事はないとわかっていても、呼びかけられずにはいられなかった。そして、聞こえたわけではないだろうが、ちょうどタイミング良く、慎吾が僕の方を見た。

 僕は手を上げて合図する。途端に慎吾は満面の笑みを浮かべる。

 初雪が降りそうなそんな寒さも気にならない、可愛い笑顔に、僕の顔もきっと同じだろうなと思って、余計に笑みが深くなった。

「慎吾」

 今度は口元が見えるように、ゆっくり呼びかける。慎吾は泣き出しそうに顔を歪めて、走り寄ってきた。人目がなければ抱きしめられるのに。

 慎吾もそう思ってくれればいい。そう思いながら、細い肩に手を置く。それくらいなら不自然ではないだろう。

「元気そうで良かった」

 そう言うと、慎吾はにっこり笑って頷いた。笑いながら、涙を一粒零した。

 

 温室の中はほとんど変わりがない様に思えた。

 チェックインを済ませ、慎吾の両親に挨拶をしてお土産を渡し、僕たちはすぐに温室へやってきた。

≪会いたかった≫

 僕は覚えたばかりの手話で慎吾に話しかける。

≪僕も会いたかった≫

 慎吾は、ゆっくり、わかりやすいように僕に話しかけてくれる。

 僕の目を見ながら、語りかける手は、最初に感じたように、美しい1羽の蝶のようだと思う。にっこり笑うと、八重歯が覗く。

≪しんご≫

 僕は手話教室で習った、五十音を表わす言葉で、慎吾に呼びかけた。ちょっと喜んでもらえるのではないかという期待もあった。

 けれど慎吾は、その僕の手を彼の両手で止めて、首を振った。

「間違ってたか?」

 何度も練習したから、間違っていないと思っていたのに、慎吾は首を振る。そして、手を動かす。

「あ、あーと、口で? 口がどうかしたか?」

 まだほんの初心者の僕は、慎吾の言葉がなかなか読み取れない。慎吾は普通ならゆっくり話してくれるのだろうが、今は気持ちが昂ぶっているのか、早くて、わかりにくいのだ。

 慎吾は脇においていたスケッチブックを取り出して、書き始めた。

『僕の名前は、浩平さんに、口で言って欲しいんです。僕には聞こえないけれど、呼びかけてもらいたい』

 その言葉を読み終わらないうちに、僕は慎吾を抱きしめた。

 ぎゅっと抱きしめて、そして、少し身体を離して、額と額をくっつける。

「慎吾」

 呼びかけると、慎吾はにっこり笑う。八重歯が覗き、慎吾は唇を動かす。『は・い』と動いている様に見えた。

「慎吾」

 首を縦に動かす。それがきっと慎吾の返事で……。

「慎吾」

 そして僕は、彼の返事を待たず、柔らかい唇をそっと盗んだ……。

 植物が隠してくれる僕たちの楽園の中で、僕は慎吾を抱きしめる。

 遠距離恋愛が、こんなにも辛いとは思わなかった。毎日だって、慎吾に会いたいのに……。それはとうてい叶わない願いで……。休み毎に来れたらいいのにと思いながら、実はそれすらも出来ない。

 甘い舌を吸い、そして……。

「ん、んんっ!」

 わかっていたことだけれど、八重歯を舌で舐めようとすると、慎吾は抗議の声を上げる。可愛い声……。その声で名前を呼んでほしいと思いつつ、けれどその考えはいつもすぐに自然に消える。

 慎吾の瞳が、いつも僕を真っ直ぐに見詰めてくれるから。言葉より、ずっと信じられる。僕も、心を込めて慎吾を見詰める。彼を不安にさせたくない。

「可愛いのに」

 つい言ってしまうと、慎吾は恨めしそうに僕を見る。よほど八重歯がコンプレックスになっているらしい。

≪抜こうかと思って。子供っぽく見えるし≫

「ダメだよ!」

 きつい調子で言ってから、僕は両手で話し始める。

≪似合ってるよ。抜くことないよ。≫

 手で話せない、僕がまだ単語を覚えていないところは口で話した。

「運命、変わるとか言うよ」

 首を傾げて、慎吾は少し笑ってから頷いた。

≪じゃあ、残しておこうかな。浩平さんと出会えたのが運命なら、変えたくない≫

 目の前で舞う蝶を捕まえて……、僕は愛しい身体を柔らかい土の上に横たえた。

「愛してる、慎吾……」

 返事は聞かなくてもいい。今は、体温を感じたい……。

 

 

 五日間はあまりにも短く、あっけなく過ぎてしまった。

 プラットホームで、慎吾は悲しげに目を伏せて俯いたままだ。

≪また来るから。絶対来るから。すぐだよ≫

 必死で話しかけると、慎吾は力なく頷く。無理にも笑おうとしているのがわかる。

≪今度はスキーに来るよ。一緒に滑ろうな。今度は、遭難なんてしないからさ≫

 この五日間で、僕は手話がみるみる上達した。慎吾が丁寧に、実践で教えてくれたからだ。やはり、教室で習うより、話したい相手に教えてもらうほうが、覚えやすい。僕もたいがい現金だなと思うが。

≪遭難しても、慎吾が一緒だから、大丈夫かな≫

 僕の冗談に、慎吾は微笑んで頷いた。

≪すぐに来るよ≫

 発車のベルが鳴り、僕は電車に乗り込んだ。

≪また来るから≫

 僕の言葉に、慎吾は自分を指差し、僕を指差し、両手を下に向け、左手の甲を右手の掌で円く撫でる。

 僕も同じ言葉を慎吾に返す。

 電車がゆっくり走り始める。

 慎吾は数歩走って止まり、大きく手を振った。

 その時、ちらちらと、白いものが舞い降りてきた。

 初雪の白い花弁の中、慎吾の影が消えていくのを、僕はずっと、ずっと見つめていた。

 

 

 

 慎吾、

 スキーシーズンは、もうそこだよ。

 僕はまた、すぐに君に会いに来るから……。

 すぐに……。