朧
 月

 

 

『何故、そんなことを訊く?』
 陰陽師は眉一つ動かさずにそう訊いた。
 だから、言葉をそれ以上繋げることは出来なかった。
 何を聞いても無駄なような気がして。
 結局、自分は彼の心の中に、染み一つほどの存在感も無いのだという気がして。
 永泉は唇に笛を押し当てた。
 今、吹いてはいけない。
 そうは思っても、最初の一息を吹き込まずにはいられなかった。
 そして結局、苦しい音色が、さらに自分を苦しめる。

 響いてくる笛の音は聴いている者までも苦しくさせてしまうような、重苦しい色をしていた。
 自分が言った言葉が、何故それほどまで彼を苦しめているのか、泰明にはわからなかった。
 ただ、思ったことを口にしてはいけないのだろうか。
 自分は真実しか口にしない。
 口にした言葉には、言霊が宿るという。特に、陰陽を司るものは、不用意に不吉や不安を口にしてはならない。それに魂が宿り、現実の刃となって災厄を齎すのだと教えられた。
 だから自分は真実の言葉しか口にしない。それで傷つくのは、相手の心が弱いからだ。そうとしか思えない。
 何がいけないのか。
 そう思って、泰明は眉を寄せる。
 何故そんなに相手の事を考えてやらなければならないのだ。相手の心の弱さは、相手のせいで、自分に責任の負う所など、何もないはずではないのか。
 そう思いながら、自分の中に募る苛立ちに、戸惑いもしていた。
「何故……」
 思わず口にして、はっと息を呑む。
 考えるな。深く悩む必要など無い。右目の下に埋まる宝珠を撫で、泰明は目を閉じる。
 これが自分に課せられたただ一つの役割。考えるまでの事は無い。神子の道具として、在ればいい。
 それだけで……。

「誰だね、そこに居るのは」
 暗闇の向こうから声を掛けられ、泰明ははっとして振り返る。
 咄嗟に水鏡の首飾りに手をかける。
「やめてくれよ。私は怨霊ではない」
 さして怯えた風でもなく、それどころか笑いながら、その人は姿を現わした。相変わらず、直衣を着崩し、胸元を大きくはだけている。その胸の中央に宝珠が、月明かりを受けて煌いているのが見て取れた。
「友雅」
「これは、泰明殿。こんな所で何をしておられるのかな? 何やら物悲しい笛の音に釣られてきてみれば……、麗しくも美しい陰陽師殿がおられたというわけだ」
 横睨みに睨んで、泰明は背を向ける。
 クスクスと忍び笑いの声が聞こえるが、知らぬ振りをする。
「天真が面白いことを言っていたな」
 泰明の態度など意にも介さず、友雅は楽しそうに言葉を続ける。
「神子殿達のいた世界では、月が小さいそうだよ」
「月の大きさに、変化などあるはずが無い」
 あまりにバカらしいことを少将が言うので、泰明はつい言葉を返してしまった。
「それがね、必死で説明をしてくれるのだよ。泰明、どうして月が満ち欠けするのか、知っているかい?」
「くだらぬ」
「そうかい? では、太陽が大地の周りを回っているのではなくて、大地が太陽の周りを回っているのだとしたら?」
 言われた意味がわからず、泰明は友雅の顔を見た。また、からかわれているのだろうか?
「月が満ち欠けするのは、実は太陽と月の間に私達の住んでいる星が入って影になっているのだそうだ」
 言いながら友雅は、地面に小さな三つの円を描き、それぞれの位置を説明する。
「そしてね、月はだんだんと、我々のすんでいるこの星から遠ざかっていると言うんだよ。だから、天真達が見ている月は、今のこの月より小さいのだそうだ。侘しいねー」
「そんなはずは……」
 それが事実ならば、陰陽は、そもそも間違いになるのでは……?
「彼らのいた時代では、月まで人がいけるそうだよ」
「嘘だ、そんなこと」
「泰明、私は嘘は言わないよ。そして、天真達もね」
 長い髪を肩から払い、友雅は目の前にあった藤の花の一房に手を伸ばす。
「月は丸い。丸いからこそ、その裏がある。私達には一方しか見えない。君は、きっと日の当たる場所しか知らないのだよ」
「どういう意味なのだ?」
「人の言葉には裏側がある。永泉様は、その裏側ばかりを見せられてきたお人だ。そして君は、裏側を持たない。裏側の存在さえ知らないのだろうね。だからこそ知らなければいけないよ。月の裏側を……」
 泰明はただ黙って、空に浮かぶ半円の月を見上げた。半分しか見えない月。けれど、見えない部分にも、真実はある……。
「さて、珍しく真っ直ぐに物を言ったお陰で、疲れてしまったよ。それに、あの笛の音では、心も休まるものではないな。今宵は、どこの女御に泊めていただこうかー」
 ふざけ半分に言う人は、泰明が目を戻した時にはもう、後姿も消えていた。

 最後の音が静かに闇に吸い込まれていく。
 その音が消えて、永泉は深い溜息をついた。
 かさりと、草を踏む音に酷く驚いて振り返ると、相も変らぬ無表情の陰陽師が立っていた。
「泰明殿……。何か……」
『裏側ばかりを見せられてきた人だから……』
 友雅の言葉を思い出す。自分が来たことにさえ、何か裏があると思ってしまうのだろうか、この若き僧侶は……。泰明はじっと、情けなさそうな永泉の顔を見た。
 永泉はその視線に耐えられず俯く。
「永泉……。もう一度、笛を聞かせてくれ。意味はない。ただ、聴きたいだけだ」
 永泉は驚いて顔を上げた。そして偽りを言わぬ人の、澄んだ瞳を見る。
 左右で色の違う瞳は、陰陽師の力の強さを表しているのだと聞いたことがある。それは真っ直ぐで、濁りは無く、真実しか語らない。
「わかりました」
 永泉は笛を唇に運ぶ。
「朧月が聴きたい」
 思わぬ所望に永泉は一瞬躊躇い、けれどすぐに吹き始める。

 見えぬ部分があるのなら、隠された部分があるのなら、丸いと信じていればいい。迷うことは無い。
 私はいつも、…………真実しか見せないのだから。

 

 

 

 

遙かなる部屋へ