望月の…………

 

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「こちらにおいででしたか」

 永泉が宴の席を辞し、もう帰ろうかと車寄せの方へと歩いていた時だった。背後から親しげに声をかけられた。

 振り返ると、そこには永泉が一番会いたくない人物が、ニコニコと、いかにもな笑顔を浮かべて立っていた。

「芳野殿……」

 振り返ったからには無視をするわけにもいかず、永泉は軽く頭を下げた。

「いやあ、素晴らしい笛でしたな。永泉様のお人柄を表すような清らかな響きでした」

 上辺だけの賛辞だとわかってしまうような言葉に、それでも永泉はにこりと微笑んで礼を言わなくてはならない。

「ありがとうございます。本来なら、このような晴れやかな席になど、呼んでいただく身ではないのですが」

 笛をぎゅっと握り締める。このまま、「ではさようなら」と、逃げられればどれほどいいだろうう。

 月見の宴を催すからと、帝から『来い』と呼び出された。呼ばれれば断るわけにもいかず、笛を請われれば、吹かないわけにはいかなかった。

 管弦の伶人たちがいたにもかかわらず、永泉は笛を所望され、震える指を叱咤しながら数曲を奏でた。

 帝の弟。本来なら嫡子として望むままの地位を得られたのに。

 そんな、聞こえよがしな声が、永泉に聞こえないわけがなかった。

 それでも聞こえなかったふりをしなくてはならない。

 宴も中盤を過ぎ、永泉は早々に席を立った。誰もが、永泉がいなくなったことに、気づきもしないと思っていたのに……。

「永泉様、もしよろしければ、拙の館で休んで行かれませんか?」

 親切そうな声。労わるような、優しい響き。けれど……。

「申し訳ございません。明日も早くからつとめがございますので」

 丁寧に辞して自分の牛車に乗ろうとした時、相手が永泉の肩を掴んだ。

「な、なんでしょう」

「永泉様。この前にお願いしたこと、お上には話してくださったでしょうか」

 上目使いの下卑た目に、永泉は背筋が冷えるのを感じた。

「この前のこととは?」

 わかってはいるが、尋ねる。覚えていてはいけないのだ。たくさんの祈願があって、自分には処理しきれないのだという態度でいなければ。

「永泉様」

 何がおかしいのか、相手はにこにこと笑顔を崩さない。けれど、永泉が断れば、次には般若のような顔になる。長い経験で、永泉にはそれが良くわかっていた。

 だから、来たくなかったのに……。

 それでも兄の招きとあれば、断れなかった。そんな自分が情けない。

「ですから、私の娘をぜひとも、帝の側室に推薦して下さいます様にと……・」

「はあ……」

 永泉は言葉を濁す。いいですとも、嫌ですとも言ってはいけない。

「それでしたら、わたくしよりも他の方に推薦を願った方が宜しいかと」

 だから、その手を除けてくれ。

 言いかけた言葉を飲みこむ。

 本来なら、親王の立場のものになど、気安く触れるものではない。永泉自身、そうして育ってきた。だから、人に触られることが、実はとても苦手になっていた。

「永泉様より相応しい方などおられませんよ」

 なかなか引き下がってくれない相手に幽かな苛立ちを感じる。

「お願いします。当家の事情は、永泉様もご存知でしょう?」

 だからこそ、自分は関われない。

「永泉様!」

 ぐいと、より強く肩を掴まれ、「離してくれ」と言ってしまいそうになったまさにその時、永泉を呼ぶ声がした。

「永泉。何をしている。人を待たせておきながら」

 ぎくりと、永泉も相手も固まってしまった。

 闇の中に良く響く声。その人物は、月明かりを頼りに、しっかりとした足取りで近付いてきた。

「泰明殿……」

 闇の中にも薄く浮かび上がる、陰陽師の呪(まじな)いに、茫然としたのか、芳野が手を離した。

「余りに遅いので迎えに来た。異界に残った神子を慰める宴が始まらぬではないか」

 友だちの妹を探すため、自分たちの元に残っている神子は、時折永泉に笛を吹いてくれと、たしかに頼むことはあるけれど……。

「急げ」

 そう言いながら、泰明は自分も、永泉の牛車に乗りこもうとする。

「また、そなた。永泉様の御車に御同伴しようなどと」

「問題ない」

 流される冷たい視線に、男は冷や汗を流す。

「永泉」

 早くしろとばかりに、泰明は永泉を急かした。

「あ、はい。それでは失礼します」

 まだうろたえたままの男を残し、永泉は牛車に乗った。同時に牛車は静かに動き出す。

「お前は、……いや、いい」

「珍しいですね。泰明殿が言いかけてやめるなど」

「人が善過ぎるのだ」

 永泉は苦笑して、そうですねと呟いた。

「お前は変わらぬと言いたかったのだが、変わらぬのは周りだと気がついたのだ」

「そうですね。特に……、朝廷の中は、変化を嫌いますから……」

 それきり、永泉も泰明も黙り込む。

 ぎしぎしと響く車の音と、遠くから聞こえて来る、虫の音に、さすがの秋を感じる。

「藤姫の屋敷に行くのではなかったのですか?」

 車が着いた先は、泰明の私邸だった。

「あれは、お前を奪う為の口実だ」

「いつの間に私の使用人を買収したのでしょうねえ?」

 からかうように言いながら、永泉は嬉しそうに微笑んだ。

「今宵は、私のために笛を吹け」

「そうですね。今宵は……、満月ですから……」

 二人揃って空を見上げる。

 落ちてきそうな、丸い月は、柔らかい光を二人に注いでいる。

 秋の夜風が、泰明の長い髪を撫で、揺れた髪が永泉の肩をくすぐる。

 二人顔を見合わせて……。

 永泉はその艶のある髪を取り、そっと口接けた。

 

 

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