春鳴

 




 携帯電話が通じない。
 菅原透はいらいらしながら、何度目かのコールを切った。マンションまで帰りついているというのに、中に入れない。朝、一緒に暮らしている恋人と出かけるのが同じになり、つい、鍵を持って出るのを忘れてしまった。
 そして帰りが別になっては、先に帰ってきた透は、入れなくなるのは当たり前で。
 鍵のない事に気がついて、恋人に電話をかけても、電源を切っているのか、圏外にいるのかはわからないが、コール音すらなく、留守番電話に切り替わる。
 最初に入れたメッセージの他に吹きこむ必要も無い事なので、伝言すら入れずに切る。その虚しい繰り返しだった。


「どこへ行ったんだろ」

 朝は何も言わなかった。多分、普段通りに家に顔を出し、いつもの時間に帰ってくると思っていたのに。会社から真直ぐに帰っても、いつも彼のほうが早かったので、透は鍵の存在を気にした事がなかった。

「あー、スペアキーをどこかに隠しておけばよかったよなー」

 用心が悪いからと、その案を却下したのは自分だということも忘れ、透はぼやいた。既に時間は八時を過ぎ、春まだ浅い夜の冷え込みは、ただドアの前で立ち尽くす身には寒すぎた。

「仕方ねーよな」

 自分に言い訳をする。
 このままじゃ風邪を引く。彼の家に電話をかけるには、かなりの勇気が要ったが、そんなことは言ってられなかった。
 再び携帯を取り出し、短縮ダイアルを押す。何度目かのコール音の後、一番出て欲しくなかった人の声がした。

「はい、外村です」

 一瞬、声が出なくなってしまった。条件反射とでも言うのだろうか、首が竦む。

「もしもし?」

 こちらが何も言わないものだから、相手が不審に思い、訝しげな呼びかけをする。

「あ、あの。菅原です。ご無沙汰しています」
「何か?」

 案の定、挨拶も無く、用件のみを問われる。切られなくなっただけましというものだろうか。

「あの、正彦君、そちらに……」
「今日はこちらに顔を出していません」

 それだけを言うと、相手は黙り込む。重すぎる沈黙に堪えられなくなって、透は真偽を問う事も出来なかった。

「そうですか、失礼しました」

 無言のまま電話が切られる。
 長い溜め息が漏れる。

「畜生、正彦。帰ってきたら、ただじゃおかねーからなー」

 愚痴とも罵りともとれぬ言葉が飛び出す。

「だいたいなんだよ。一緒に暮らしている奴がいないって電話してんだよ? どうしたのかくらい、親だろ、心配しろよ。だったら、こっちだって、腹たたねーのに」

 心配されたらされたで、余計なお世話だと思うことに考えが及ばず、透は怒りの矛先をあちこちに向ける。

「家出してやる」

 家にも入れない身で、家出の決意をし、透はドアを蹴って、マンションを後にした。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

「そりゃお前、正彦にだって、いろいろあるんじゃねーの?」

 共通の友人である桑田の家に上がり込んだ透は、持参したビールを口に運ぶ。

「そんなに飲むなって」

 桑田が取り上げようとするのに、透は腕でそれを阻止する。

「いい加減にしとけよ」
「なんだよ、桑田。正彦の肩をもつわけ?」
「そんなんじゃねーよ、喧嘩のとばっちりは嫌なの。だいたい、鍵を持ってなかったのは自分が悪いんだろ。本当に正彦が何かしたって言うなら、お前の味方してやるよ。まだ何もしてねーのに、お前ったら家出だの、なんだの。大げさだって」
「隠し事してる時点で、正彦が悪い」

 それくらいが隠し事かと思いつつ、桑田は透のビールを取り上げようと必死になるが、透は上手くそれをかわしつつ、更にピッチを上げる。
 もともとそれほど飲めるわけでもない透に、こんなに飲ませたとあっては、後で誰やらに怒られるのは自分なのだ。

「もうやめとけって。それにお前、ここに来るって、書き置きしてきたか?」
「ばーか。家出するのに、どこへ行くかなんて、書き置きするわけないだろ」

 溜め息をついて、桑田は受話器を上げた。

「無駄だぜ。あいつ、電源切ってるもん」

 寂しそうに言った透の言葉通り、正彦の携帯はすぐに留守番電話に切り替わる。
 桑田が電話を切ったとたん、透の携帯が鳴った。
 だが、透はその電話に出ようとしなかった。

「おい、正彦じゃねーの?」

 ディスプレイを見た透は、通話ボタンではなく、電源ボタンを押してしまった。

「おい!」
「いいんだよ。家に帰りついた奴に心配される覚えはないんだから」

 どうやら正彦はマンションに帰りつき、透がいないので、携帯に掛けてきたということらしい。
 桑田が受話器を取ると、正彦に掛けさせまいと、透が受話器を取り上げる。

「なあ、ここに泊まってもいいからさ。一言くらい言っておいてやれよ」
「それじゃ家出にならないじゃん」
「透ってー」

 ふいと透が無視した所へ、桑田の家の電話が鳴り始めた。

「こら、出させろよ」
「だって、……」
「へえー、ここに掛けてきて欲しいわけだ。わざとわかるところに家出してきたのかー?」

 桑田のからかう口調に、頬を膨らませて、まだ鳴ったままの子機を透は差し出した。

「もしもーし、桑田です。…………ビンゴだぜ」

 電話の相手にそう言って、桑田は子機を透に差し出した。

「正彦」
「俺、出ないからなっ」

 頑としてそれを受け取らず、透は顔を逸らした。

「だと」

 苦笑しながら、桑田は正彦の相手をしている。

『何を怒っているのか訊いたか?』

 戸惑うような正彦の声に、桑田は苦笑する。帰ってみると恋人はいない、携帯は切られる、電話に出てもらえないでは、わけがわからないのは当たり前だろう。

「さあ、拗ねてるだけなんじゃないの?」
『だが……』
「まあ、迎えに来てやってくれよ」
「俺は帰らねーからなっ!」
「いい加減にしろよ、てめー。言いたい事があるなら直接言えよ。携帯が通じないくらいで、正彦を疑うのかよ!」

 思わぬ相手に怒なられて、透は言葉に詰まった。

「ほら、出ろよ」

 ぐいと電話を差し出され、しぶしぶ透は電話を受け取った。

「なんだよ」

 それでも素直には言えなくて、ついぶっきらぼうに言ってしまう。透が電話を切ってしまわないのを見届けて、桑田は部屋を出ていった。

『携帯は、故障してるんだ、だから』

 普段と変わらぬ優しい声が、今は戸惑いの色をしている。

「それだけじゃない」
『何?』
「今日、どこへ行ってたんだよ」


 これで嘘をつかれたら、絶対戻らないと決めて、透は訊いた。

「お前が心配するような事は何も無いから」
「何、それ。俺が何を心配するって言うんだよ。俺はどこに行ったのか、って訊いただけじゃん。なんで隠すわけ?」

 後半は不覚にも涙声になってしまった。

『ごめん。まだ言えないんだ。だから……』
「だったら、帰らないからな」
『透……』

 困り果てた声に苛立ちが募る。

「隠し事、しないって、言ったじゃないか。あれも、嘘なわけ?」

 結局、透が一番辛かったのは、何かを隠して正彦が動く事。置いて行かれるような不安に怯えていた。

『電話じゃ言えない。まだ、ちゃんと決まったわけじゃないし』
「だったら、帰らない」
『信じてくれないのか?』
「信じたい。信じたいのに、お前が言ってくれないから」
『迎えに行くよ。帰ってきてくれたら、話すから』

 誤魔化されるのではないだろうか。そう思いながらも、声を聴いてしまったら、傍にいたくて堪らなくなった。

「……迎えに来て」
『すぐに行くから』

 静かに電話が切られた。
 子機をもってキッチンに行くと、桑田が所在なげに煙草を吸っていた。

「仲直りしたか?」
「ううん、まだ。だけど、帰るよ」
「迎えに来るって?」

 それには無言で頷いて、透はごめんと謝った。

「まあいいさ。この貸しは正彦に利子をつけて返してもらうから」
「なんだよ、それ」

 ようやく笑顔の出た透の顔を見て、桑田は透の柔らかな髪を撫でまわした。

「やめろよ」
「だって、正彦のいねー時でないと、できねーもーん」

 ぐしゃぐしゃになった髪を手櫛で整えて、透は友人を睨んだ。
 桑田はそんな透を見て、透を大切にしすぎる友人に同情する。いちいち無邪気に反応する可愛い表情に、大切にするその気持ちはわからないではないが、これを飼い慣らすのは大変だろう。

「まあ、好きでやってるんだろうけど」
「何が?」

 一人ごちた言葉に、敏感に反応する。そんな透が可愛い。

「別にー、こっちの事でーす」

 そう言った所へインターホンが鳴った。

「ほらほら、王子様のお迎えでーす」
「誰が王子様だよ」
「いいから、いいから」

 桑田に背中を押され、透は玄関に辿りつく。ドアを開けると、恋しい人が立っていた。

「悪かったな」

 桑田に言うでも、透に言うでもなく、謝罪の言葉を口にする。

「ああ、今度、奢って」

 笑顔で肯定して、正彦は透の肩を抱くようにして帰っていった。

「ま、好きにして頂戴」

 そんな二人の背中に桑田が笑顔で告げた。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 携帯は本当に故障していた。
 その事に気がついたのは、マンションに帰りついてから、透がいないので電話を掛けようとした時らしい。

「俺、正彦の家に電話したんだ。そうしたら、今日は来てないって」

 二人で並んでソファに腰掛け、透は呟くように言った。

「言わなくて悪かった。ここの所、ほとんど家には帰ってなかった」
「だったら、どこ行ってるんだよ」

 正彦の実家は日本舞踊の家元で、正彦自身もそこで師範として働いている身分なのに。

「職を、捜してたんだ」
「え……?」
「家を完全に出ようと思う。俺は、家を継げないから、家とは関係のない所で職を捜して、独立しようと思ったんだ」

 透との事で、一時は勘当になり、また二人並んで罵詈雑言を浴びたこともあった。引き離されようとした事も一度や二度ではない。
 そしてようやく手に入れた、二人だけの空間。

「俺のせい?」

 自分のせいで、正彦は家を捨てようとしているのだろうか。それなら、今までの苦労はなんだったのだろう。認めてもらう為の、苦労だったのではないのか。それらはみんな無駄だったのだろうか。

「違うよ。家を継げないのに、いつまでも外村にいるつもりはなかった。それは、ずっと決めてきた事なんだ。弟に全てを渡してやりたいんだ。だから、遺産相続の放棄もするつもりだし、この身一つになる。それでも、透、ついてきてくれるか?」
「お父さんは、なんて?」
「承諾してもらったよ。職が見つかり次第、それらの手続きをするつもりだった。その時には、透にも打ち明けるつもりだったんだ。今はまだ何もない俺に、ついてきてくれって言えなくて」
「バカ」

 透の非難は小さな声で。

「ごめん」

 正彦の謝罪も小さな声。

「俺は、正彦が無職でも、食べさせてやるのに」

 互いに足りない所は補っていけばいい。だから二人でいる意味があるのに。

「そりゃ頼もしいな」

 肩を抱き寄せると、透が胸に顔を埋めてくる。

「なあ、その時がきたら、外村になってくれるか?」
「え?」

 透は驚いて顔を上げた。

「遺産放棄やなんかの手続きの時に、俺の籍を独立させるんだ。その時にお前に俺の籍に入って欲しい」

 真摯な瞳に見つめられ、透の目から涙が溢れ出す。

「だめか?」

 透は言葉を出せずに首を振る。

「いいに決まってるじゃないか」

 胸にしがみついてくる愛しい存在を、正彦はきつく抱きしめる。

「ずっと、二人で歩いて行こうな」

 何度も頷く透の背中を撫でる。

「顔を上げてくれよ。透。キスできないよ」

 涙で濡れた顔に、正彦はそっと、唇を落とした。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 春が来れば……。
 春が来れば……。
 そんな言葉を信じていた。
 春が来れば…………。
 運命の時は、足音もなく、忍び寄り……。
 春が……、来れば……。