花冷え

 


 窓を叩く風の音に、目が覚めてしまった。
 4月だというのに、冷え込んで、寝苦しい夜。
 暖かい温もりは、今日はない。
 一人きりの部屋……。
 カーテンの向こうでは風が唸りを上げている。
 ようやく咲き始めた桜が散ってしまうかもしれない……。
 桜の心配よりも……。
 透は布団を頭まで被り、寂しい夜をやり過ごそうとした。
 目なんか覚めなければ良かったのにと、情けなくなりながら。
 
 何とか目を閉じ、ようやくとろとろとした眠りに引き込まされそうになった時、遠くから響いてきたその音に、透は泣きたくなった。
 うつ伏せに寝て、耳を両手で塞ぐ。
 けれどその音は、透の記憶の中から近づいてきた。
「やめて……」
 来るな。
 来ないでくれ。
 夜の静寂を切り裂くその悲鳴に似た音は、やがて近くで止まった。
 透は知っている……。
 それは、また鳴り始めるのだ。
 透を乗せて。
 今度は遠ざかってはくれない。
「いやだ」
 その名前を叫びそうになって、透は喉に手を当てる。
 
 壁にかけた時計に目を移す。
 午前1時。
 彼はもう戻っているだろうか……。
 遅くなると言っていた。
 もしかしたら泊まりになるかもしれないと。
 だから透は自分の部屋に戻って来ていた。
 今では、昼にしか過ごすことがなくなっていた、この部屋に……。
 そのまま、夜も寝ようと思ったのは、小さな感傷だった。
 写真の中の彼がいつも寂しい夜を過ごしているような気がして……。
 
 夜は静かに訪れ、朝まで眠れそうだったのに……。
 風の音と、あのいやな音が聞こえなければ。
 
 今から行っては迷惑だろうか……。
 帰っていなければ、ただベッドに潜り込むだけで済む。
 けれどもし疲れて帰ったところに、自分が行けば、優しい彼は拒むことは出来ないだろう。優しく朝まで抱きしめてくれるに違いない。
 それを望んでいるのは間違いがないのだけれど、いくらなんでも人を訪ねるには非常識な時間で。
 このまま朝まで眠れぬ夜を過ごそうかと思った時、再び、それが響いてきた。
 透は合い鍵を握り締め、ガウンを羽織って、部屋を出た。
 

 
 風は春だというのに冷たく、容赦なく透の細いうなじに吹き込んできた。
 襟元をきつく合わせ、透は階段を使い、1階下へと降りた。
 階段から2つ目の部屋に鍵を差し込む。
 音をたてないようにゆっくり回すと、鍵の外れる音がした。
 チェーンがかかっているだろうか。
 その危惧は外れ、ドアは抵抗なく、外側へと開いてきた。
 まだ帰っていないのだろうか……。
 チェーンがかかっていないことで透はほっとして、ドアを閉じ、ロックをかけた。
 裸足になって、リビングのドアを無視して、奥のドアへと進む。
 ここでも音をたてないように透はドアを向こう側に押す。
 部屋の灯りは壁際に置かれたフットライトの薄暗い光だけだった。
 だが、ベッドには、その人が眠っていることがわかる。
 ……帰っていた。
 ほっとすると同時に、切なくなった。
 なんだか急に、自分の居場所がなくなってしまったような、彼が遠くの人になってしまったような気がして……。
「直道さん……」
 声には出さず、その名前を呼んでみる。
 もちろん、ぐっすり眠っている人が起き出す気配はない。
 どうしようか迷って、透は意を決して、布団の端を捲りあげた。
 気づかれないようにもぐりこんでしまおうと思ったのだ。
 このまま、あの部屋には戻りたくない。
 一人の夜は過ごしたくない。
 その想いの方が、透の躊躇いを消し去っていた。
 なるべく門田の身体に触れないように、透はその温もりに触れようとした。
「ん……」
 透が足を潜り込ませた時、その振動でか、門田が身動いだ。
 ぎくりとして、透は動きを止める。
 門田の目が薄く開く。
「………………透?」
 門田は完全に目を開けて、優しく微笑んだ。
「ごめんなさい、起こして」
「いいよ。もっと早くに起こせば良かったのに。どうした?」
「……なんでもない」
 門田は静かな目で透を見つめ、布団の端を持ち上げ、おいでと透を促した。
 透は今度は遠慮なく、その温かい胸に擦り寄った。
「身体が冷えているね。寒くないかい?」
「うん」
 掛け布団をかけられ、その中で強く抱きしめられる。
 温かくて、暖かくて、涙が出そうになった。
「門田さん、どうしてチェーンかけてないの? 俺、まだ帰ってないと思ったよ」
「なんとなくね、透が来るような気がしたんだ」
「本当に?」
 透が尋ねると、門田はくすっと笑う。
「うそなんだ……」
「嘘じゃないよ。来る気がしたのは、今思いついたことだけれど、透がいつ来てもいいように、透がこの部屋にいないときはチェーンをかけたりしないよ」
「だって、そんなの、危ないよ」
「そうだね」
 門田は微笑んで、透の髪を梳く。
「じゃあ、ちゃんとこれからは私を起こすんだよ?」
「ん……」
 迷いながらの返事を、門田は受けとめてくれる。
 優しい人。自分の過去も、想いも、深い傷も、全てを愛してくれた人。
 もう一度こんな暖かさに包まれることなど、思いもよらなかった。
 だから……、駆け上ってくるのは、喜びに似た痛みだった。
 怖いのだ。
 二度目をなくすのが。
 ほうと、安堵とも、不安ともつかぬ溜め息をついたとき、三度あの音が近づいて来た。
 今夜はなんという日だろう。
 透は身体を固くして、その音が遠ざかることだけを願った。
「透?」
 ぎゅっとしがみついてくる身体が震え出すのがわかって、門田は胸を締め付けられる。
 近くの幹線道路を走る救急車の音が透を苦しめていることはすぐにわかった。
「透……」
 愛しい頭をそっと胸に抱き込んでやる。その音から遮断してやるつもりで。
 やがて遠ざかる音が完全に聞こえなくなっても、透は門田にしがみついて離れようとはしなかった。
「もう大丈夫だよ?」
 背中をそっと撫でてやる。
 一つ撫で下ろすごとに、透の身体から強張りが解けていく。
「直道さん……、疲れてるんでしょう? ごめんなさい」
「明日は休みだから、大丈夫だよ。透こそ、寝なさい。透が眠れるまでこうしていてあげるから」
 透は首を横に振って、もの言いたげな瞳で門田を見上げてきた。
「愛してるよ。透。一人にして悪かったね」
 顎に手をかけ、唇を合わせる。
 さっきまで震えていた唇は少し乾いていて、けれど熱を帯びていて、甘く門田の舌を受け入れた。
 
 
 着ている物を全て剥ぎ取られ、夜の空気に肌が粟立つ。
 けれどすぐに、暖かで大きな手が、それを宥めてくれる。
 だが……。
 わかっている。
 その安心できる手は、すぐに透をもっと乱れさせていくのだと。
「ん……」
 舌と舌を絡ませ、熱い息の中から、透は快感を伝える。
 門田の手が下へ動いていくのに、透は膝を曲げて、その部分を隠そうとした。
「透……」
 その膝の間を、門田の手はするりと忍び込んでいく。
 柔らかな薄い叢の中で、起ち上がりかけていた愛しい分身をそっと包み込む。
 それはすぐに、門田の手の中で質量を増していく。
「あ……、直道さん……」
 自分の名を呼ぶ愛しい唇に唇を重ね、口接けも下へずらせていく。
 喉にキスをして、胸を吸う。
 舌先でこりっとそれは存在を示す。
 そして、門田の手の中にある分身も。
 少しずつ透の足から力が抜けていく。
「あっ、……んんっ」
 透の足首を掴み、門田は、その間へ身体を移動する。
 真下に恋人の身体を見下ろして、門田はジェルを取り出す。
「直道さん……」
 潤んだ瞳に、見上げられ、門田は微笑む。
 一方の手で茎を扱き、一方の手で、ジェルを塗り込む。
「あ、……んんっ!」
 透が門田の肩を掴む。
 冷たさと最初の痛みを堪えているだろう。
「透……」
 指を一本、ゆっくりと押し込む。
 熱い体内に飲み込まれ、蕾が開いていく。
「いい?」
 優しい声に、透は目を硬く閉じたまま、頷く。
 ゆっくり解すように回して、指を増やす。
「あっ! ……っ」
 収縮する襞が門田の指を締め付ける。
「もっと、感じて」
 ぐっと、押し込み、ゆっくり引きぬく。
「やっ……、直道さん、もう、頂戴っ」
「まだ無理だよ」
「いい、……早く、欲しい……」
 透がこんなことを言うときは……。
 過去の影を消そうとしている時。
 消さなくてもいいよと言ってあげたいが、その言葉は透を更に苦しめることになるのだと気がついてから、門田は何も言わずに、望むまま抱いてやることにした。
 透はちょうど今、過去の恋人のことを思い出に変えようとしているのだろう。
 だから……。
 門田はそんな透を抱きしめることしかできなかった。
「辛かったら言うんだよ?」
「ん……、直道さん……」
 潤んだ瞳に見上げられ、門田は己をあてがう。
 ジェルの滑りを助けに、侵入するが、やはり内部はきつく、門田を拒む。
「透……」
「あぁ……」
 熱い息を吐き出し、門田を飲み込もうとする透に、愛しさが募る。
 愛している。誰よりも強く。
 君を一番愛しているのは、私だよ。
 そう告げてあげられれば、どれほどこの子は楽になるだろう。
 だが、まだ透の心はそれを受け入れる透自身を許さない。
「透……」
「直道さん……」
 名前を呼び合い、深く繋がった時、透の目から、涙が一粒溢れ出た。
「大丈夫?」
「ん、……動いて……」
 門田は優しく口接けて………………。
 
 

 
 二人分
   愛してあげる……
  二人分
    愛してあげる…………
      君が望むだけ
 
 明日
  また二人で会いに行こう……
    彼の悔しそうな顔が目に浮かぶかい?
     それとも、喜んでくれるかな?