雪 聖 夜 ゆ き せ い よ
 
 
 雪だ……。
 何時の間に降り出していたのだろう。リビングの窓の向こうには、ちらちらと舞い落ちていく雪が見えている。
 梓弓の車は大丈夫だろうか。
 勤務先の病院に車で出勤した恋人が心配になる。
 一年を通して片手で足りるほどしか積雪のない地方では、その数回の積雪が都市交通網を簡単に麻痺させてしまう。
 結弦は窓辺に佇み、降り積もる雪を眺めていた。大粒の湿気を含んだ雪の切片は、見る見るうちに街を白で覆い尽くしていく。
 雪は嫌いではなかった。むしろ好きな方だと思う。
 見たくないものを総て隠してくれるようで……。
 
 飽きることなくひらひらと舞い散る雪を眺めていると、軽やかなベルの音が響いた。
 ……梓弓だ。
 ディスプレイには梓弓の病院の番号が表示されている。
『ちょっと帰るのが遅れそうなんだ』
「どうしたの?」
 梓弓の背後にあるのだろうざわめきが、結弦の心配を大きくした。
『雪が降ってるだろ? 怪我人が増えていて、交代の医者はどこかで足止めを食っているらしい』
 とりあえずは梓弓の身に何かがあったのではないとわかって、結弦は胸を撫で下ろす。
『交代が来たら帰れると思うから』
「車、大丈夫?」
『地下鉄で帰るさ』
「気をつけて」
 結弦の言葉に梓弓は簡単に了解の返事をして電話を切った。忙しい合間をみて掛けてきてくれたのだろう。その気持ちが嬉しかった。
 再び窓の外を見ると、辺りはすっかり暗くなり、そしてどこもかしこも、真っ白い絨毯を敷き詰めていた。
 
 
 リビングから聞こえる電話のベルの音に、結弦はまどろみから目覚めた。慌てて受話器を取ると、梓弓からだった。
『結弦? 悪い、起こしたか?』
「ううん。まだ遅くなりそう?」
 欠伸をかみ殺し、結弦は梓弓の身体を心配した。時計は既に十時に近い。
『今下にいるんだ。ちょっと下りて来ないか?』
「え?」
 一気に目が覚める。梓弓の楽しそうな声が続く。
『暖かくして下りて来いよ』
「あ、うん……」
 待ってるからと言って、梓弓は電話を切ってしまった。
 結弦は急いでコートに袖を通し、部屋に鍵を掛けてエレベーターに乗る。1階までの時間がもどかしかった。
 
 マンションのエントランスに立っていた梓弓は、エレベーターから下りた結弦を見つけて、片手を上げた。もう雪はやんでいた。
「そんなに慌てなくても良かったのに」
 優しい笑顔。端正な顔に、すらりと伸びた長身。黒のロングコートが良く似合っていて、結弦は一瞬、その姿に見惚れて足を止めた。
「結弦?」
 結弦が足を止めたわけなどわかるはずもなく、梓弓はどうしたんだと、歩み寄ってきて肩を抱いた。
「結弦は温かいな」
 梓弓こそが温かいのだと、結弦は思う。
 昔、雪の中を歩いた。一人で。誰もいなくなった街、総てを隠してくれた雪。
 何も見なくて済む一瞬に、結弦は寒さも忘れて歩き続けたことがある。そう、こんな夜だった。
「どうした?」
 あの夜の楽しさの中の孤独と、今自分が感じている幸せの、その大きな違いに、結弦は堪えきれなかったものを零した。
 こんなに幸せでいいのだろうか……。
「やっぱり今夜は、そんな気分になるのかなー」
「え?」
 一粒だけ零れた涙を隠し、結弦は意味のわからないことを言った恋人を見上げた。
「クリスマスイブだろ?」
「あ……」
 すっかり忘れていた結弦は、何も用意していなかった自分を恥じた。
「ごめん。何も用意してない」
 すると梓弓はクスクス笑う。
「いいよ、そんなの。お互い様だって。本当は、ケーキくらいは買って帰るつもりだったんだが、こんなアクシデントだろ。せめて雪の中を歩いてみようかなと思ったんだ。結弦が出てきてくれたことが、俺にはプレゼントみたいなものかな」
 梓弓は立ち止まっているのは寒いからと、結弦の肩を抱いたまま歩き出す。辺りに人影の見えないことをいいことに、結弦も梓弓の腰に手を回す。
「大変だったんだぜ。交通事故や怪我人が、次々に運ばれてきて」
「疲れた?」
「まあでも、あんまり重傷者はいなかったから」
 雪を踏む足音が、夜のしじまに響く。二人は無口になり、ただ雪を踏みしめる音だけがしばらく続いた。
 梓弓はどこへ行こうとしているのだろう。
 結弦は不安になり、梓弓の肩に頭をすりよせた。
「寒くないか?」
 いつもと変わらぬ声にほっとする。
「うん、大丈夫」
 ふと梓弓が立ち止まる。結弦はどうしたのだろうと、梓弓を見上げた。
「明日さ、一緒に行って欲しいところがあるんだ」
 唐突に、梓弓はそんなことを言う。
「いいけど、どこ?」
 何気なく尋ねた結弦だが、梓弓は前方を見据えたまま、いつになく険しい表情をしている。
「今夜は……、一人でいたくなかったんだ……」
 珍しく言い淀む梓弓に、結弦は不安でいたたまれなくなる。腰に回した手が、梓弓の上着を握り締める。
 梓弓の、結弦の肩を抱いた手も、きつく引き寄せる。
 と、ふと見えた風景に、結弦は息を飲む。梓弓の神経が過敏になり、それに引きずられるように、結弦は見たくないものを視てしまった。
 だが……、言ってもいいのだろうか。
「突然降り出した雪に……、誰も彼もがはしゃいでいた。そんな中、俺は……、俺は」
「梓弓……」
「間に合わなかった。車は動かないし、電車は遅れるし。何より、あいつはすぐに知らせてくれなかった。医者が知らせてくれて、でも、俺は……」
「梓弓!」
 たまらずに抱きつけば、梓弓を取り巻くビジョンがクリアになる。
 墓地の前に佇む二人。その墓碑銘までが見えてしまう。
「すまない……、結弦」
 結弦は梓弓の腕の中で首を振る。
「もう乗り越えたことなんだ。ただ、どうしても一人で行きたくない……」
「一緒に行くよ。どこへでも」
 視せてしまったことをわかりながら、梓弓は結弦を抱きしめずにはいられなかった。
「雪は……、嫌いだった」
 穏やかな声に、結弦の頭の中からビジョンが消える。
「あの夜、雪さえ降っていなければと、何度も思った」
 梓弓の腕は温かく、結弦を包んでくれる。
「けれど、結弦に会って、雪の楽しさを知った」
「僕?」
「ああ、結弦は雪が降ると楽しそうにしていた。何故なのかは……、なんとなくわかった。だから、そんなお前を見ているのが、俺の楽しみになったんだ」
 お互いに、話しきれないほどの過去を持っている。乗り越えようともがいて、けれど、一人ではどうしようもなくて、それでも一人でしかいられなくて。
 焼けるような孤独を抱えて、見つめた一人きりの夜の雪。
 諦めていた。諦めるのが一番楽な道だった。
 けれど、…………。
 諦めきれずにいた。どうしても、それを望まずにはいられなかった。
 いつかこの孤独を埋めてくれる人と出会えることを……。
「ちゃんと、兄さんに紹介したいんだ。お前を……。兄はいつでも、僕が一人でいるのを気にしていたから」
 うん……、と小さく呟く結弦を抱きしめ、梓弓は夜空を仰いだ。
 雪が、また降り始める。
 ひらひらと舞い落ちる夜空の向こうに、梓弓は優しい笑顔を見た。自分と良く似た、けれど、若いままの兄の、いつも自分を慈しむように見ていた笑顔を。