ジンクス
 
 
 満月の夜には気をつけろ。
 ○○先生の当直は荒れる。
 最初の急患が交通事故の時は要注意。
 病院には少しばかり笑えないジンクスがある。
 これが不思議とよく当たる……という看護師たちのもっぱらの噂だ。
 今夜の当直はその大問題の神田医師だった。
「俺、別に何もしてないぜ?」
 神田は苦笑いをしているが、どうやらいつも大変なのはなぜだろうという程度の自覚はあるらしい。
 そして、今夜は満月。
「最初の急患が交通事故じゃありませんように!」
 神田の祈りに、帰り支度をしていた梓弓が苦笑する。
「ジンクスを信じるんですか?」
「信じたくないけどさ、最初が交通事故の手当てをしてるでしょ? そうしたら、次から次へと、救急車が入ってくるんですよ。この前なんかね、大腿骨の骨折から始まって、虫垂炎やら、胃の穿孔やら、バリエーションも豊かでさ。看護師たちに俺のせいってにらまれてるところに、また救急車の音が聞こえてきて、派手な溜め息をつかれちゃって」
 まだ急患の連絡の一つもない時点では、神田も暢気なものだ。
「なぁ、二時間ほど残ってくれない? 今度奢るからさ」
「その二時間のために夜明けまで続く戦場に駆り出されるのは遠慮したいです」
 梓弓の皮肉な返しに、神田はぶっと吹き出す。
「常葉木先生、最近柔和になりましたよね。いい人ができたのかなー」
 梓弓は曖昧な笑いで誤魔化す。
「それじゃあ……」
 お先に失礼しますということばは、内線電話によって遮られてしまう。
 嫌な予感に顔を見合わせる。
「あー、本気でちょっと待って」
 神田に腕を捕まれて梓弓は逃げ出せなくなる。
「どうしたー?」
『神田先生、交通事故です。頭部損傷が酷いみたいだとのことです。五分で到着します』
 電話から聞こえてくる看護師の声に、梓弓は半ば諦めてスーツを脱いだ。
 神田が嬉しそうに笑ったのを見て、梓弓は空いている電話に手を伸ばした。


『遅くなるかもしれない』
 梓弓の申し訳なさそうな声に、結弦は気をつけてと言って電話を切った。
 こうして電話で連絡が来るのはまだ珍しいほうだ。
 本当に大変な時は、電話さえも来ないことがある。
 だからわざわざ梓弓が連絡をくれたことが嬉しく、同時に負担になっているのではないかと不安になる。
 結弦は一人で食事を済ませて、自分の部屋で仕事を再開する。
 異国の文字を追ってるときは、煩雑な悩みを忘れることができる。翻訳するなら小説がいい。しかもファンタジーなら楽しい。魔法の世界に身を投じると、自分の特殊性も全然おかしくない気がする。
 今翻訳をしているのも、ファンタジー小説だった。魔法は出てこないが、異世界に召喚された少年が、その国を守るために頑張っている。
 物語の佳境部分に差しかかっていたこともあり、結弦はすべてのことを忘れてのめりこんでいった。

「結弦? 何時間している?」
 肩に両手を置かれて飛び上がるほどにびっくりした。
「あぁ、梓弓。帰ってたの?」
 ずっとスペイン語とパソコンの画面を見ていたので、振り向いて顔を見ようとしても、うまく焦点が結べずに苦労する。
「どんなに頼まれても帰ってくるんだった。こんなに無理をしているなんて」
 梓弓は眉間に皺を寄せて、結弦を叱るように見つめる。
「え?」
「結弦、何時だかわかってるか?」
「あ、えーと……」
 結弦は視線を動かして、壁の時計を見た。
 時計の針が、長短逆になっているのかと思った。
「十時過ぎじゃないぞ。午前四時前だ」
「えぇ? あー……」
 時間を聞かされると、一気に疲れが押し寄せてくる。
「梓弓も遅くなってしまったんだね。お疲れ様」
 結弦が気遣うと、梓弓はふっと笑った。
「もう今夜は切り上げて寝よう。身体によくない」
「そう言われると、とても眠くなってきた」
 梓弓は結弦を抱きしめる。
「無理をして帰って来て良かった。結弦の無茶を止めることができたから」
 肩を抱きながら寝室へと連れて行く。
「無理に帰ってきたの?」
「あぁ。今夜の先生が当直の時は荒れるっていうジンクスがあるらしい。帰り際に急患が来て、帰るに帰れなくなったんだが、急患が途切れた時に逃げてきた」
 梓弓は苦笑いしながら説明する。
 元々当直ではないので、そこまで付き合う必要もなかったのだろうが、患者を助けたいという使命感の強い梓弓だから、こんなに遅くまで手伝ってきたのだろう。
「みんな梓弓がいなくなって困ったんじゃないのかな」
 ベッドに横たわり、ゆったり抱かれると、もう目蓋が重くなってくる。梓弓はまだ上着を脱いでネクタイを抜いただけなのに。
「また重症患者が来たら、待機の先生を呼ぶだろう。俺ももう限界」
 梓弓の笑うのに合わせて、頬を寄せた胸が振動する。その振動と、優しい声が心地好い。
「おやすみ、結弦」
 目蓋にキスをされる。
 おやすみを返したい。キスも返したい。
 そう思っているのに、どんどん眠りの中に引きずり込まれる。すうっと、意識が薄くなっていく。
「愛してるよ。夢も見ずに眠って」
 水の中で聞くような、少し遠くから響くような声。
 思いやりにあふれた呪文に、結弦は大切な大切な人の名前を呼ぼうとする。
「…………梓弓」
 声になったのかどうか、自分でも記憶が途切れるように、心地好い眠りに包まれていった。
 唇に優しい温もりを感じて、微笑んだことも、眠りの中の出来事になった。