Holiday ―休息―
 
 カーテンの隙間から射しこむ柔らかな朝の陽射しに、梓弓はゆっくりと覚醒した。左腕にかかる重さに、自然と口元が緩む。
 恋人の穏やかな寝顔に安心して、同時に愛しさが増す。
 結弦が厭な夢を見ないように。それは毎夜、梓弓が切実に願うことでもあったから。
 何度、結弦が夢で魘されることで、目覚めたことがあっただろう。その度思う、自分は少しも結弦の力になってやれないと。
 結弦は梓弓と出会った瞬間、自分だと感じてくれた。自分も、その瞬間に、結弦の心の声を聴いた。だが、結弦の精神的な負担を、自分は少しも軽くしてやることはできない。それが梓弓の心に深く沈む。
 薄く唇を開いて眠る結弦。彼を起こさないよう、梓弓は右手を伸ばし、カーテンをしっかり閉じた。できるだけ長く、結弦を寝かせてやりたい。
 梓弓はそっと結弦の肩を抱き寄せ、ふわりと揺れる髪に口づけると、再び目を閉じた。
 
 
   *** ***
 幼い結弦が一人で部屋の隅で泣いていた。
「黙ってなさいと言ったでしょ!」
 母親のヒステリックな声が、頭の中にわんわん響く。
 こうして、部屋の隅っこで膝を抱えていれば、誰も自分を責めたりしない。どこへも行かなければ、変なものを見なくて済む。それだけが結弦を護る術だった。
 
 ……助けて
 その声が届く人を待っていた。いつも……。
「君は悪い子じゃないよ」
 優しい声が聴こえる。
 その声に誘われて、膝に埋めていた顔を上げてみるが、誰もいなかった。誰もいないことが悲しくて、再び膝にうつ伏せる。
 すると、そっと髪を撫でられた。
 泣きたくなるほど優しい手、だった。
「君は悪くない」
 顔を上げるとまたその人が消えてしまいそうで、結弦は顔を上げられなかった。
 こんなに優しい手は知らない。自分を優しく撫でてくれる人など、今まで誰もいなかった。
 
 …………助けて
 声に出せばその人が消えてしまいそうで、心の中で叫んだ。
「きっと、会えるよ」
 うん、と頷く。その人はいつまでも、結弦の頭をなでてくれた。
 優しい手。
 
 …………いつか会えるんだ。
 …………だって、僕が見たことは、本当に起こることだから。
 …………いつかきっと、僕の前に来てくれる。
 
 そう思っていなければ、崩れそうになった。
 結弦はその夢を何度も視た。自分が崩れそうになる度、もう生きていくのが嫌になりそうな時、その人は必ず、幼い自分を優しく撫でてくれた。
 だから……。
 
    *** ***
 
 
 
 幸せな夢に、結弦は目を覚ました。
 昔なら、この夢から覚めることが恐かった。ずっとこの夢の中にいたいとさえ思った。目が覚めると、その人のいない現実を思い知ることになったから。だが……。
 梓弓に出会った。
 出会った瞬間、わかった。この人だと。
 その喜びは、単に嬉しいというようなものではなくて、衝撃に震えるほどだった。
 目を開けると、いきなり梓弓の顔があった。
 今はぐっすり眠っているのか、まぶたがぴくりとも動かない。
 切れ長の目、すっきり通った鼻筋。薄い唇は冷たい印象を与えがちだが、梓弓の場合は怜悧さを引き立たせていると思えた。
 端正な顔。だが、彼はこの顔さえ嫌っていた。自分の身体を少しも大切にしていなかった。
 梓弓の過去について、結弦はまだほんの少しのことしか聞かされていない。梓弓が語らないことを、結弦は知りたくなかった。
 今あること。それだけで結弦は満足していた。今の幸せだけは壊したくない。
 梓弓の寝顔に、悪戯心でキスをする。
 頬に、唇に。
 いきなり梓弓のまぶたが開けられて、結弦はびっくりした。
「結弦?」
 顔を赤らめて、梓弓の胸に飛びこむ様が可愛くて、結弦を抱き締める。
「素敵なモーニング・キスだな」
 寝起きの掠れた声。その声が好きな結弦は、ぴくりと肩を震わせた。
 結弦をしっかり抱き締めていた梓弓は、そのわずかな動きを見逃さなかった。
 クスリと笑って、髪を撫でてやる。結弦がそうされることが好きだと知っているから。
「夢を見たんだ」
「どんな?」
 結弦の声に不安の種を感じさせるものはなく、梓弓は髪を撫でながら聞いていた。
「幸せな夢」
「そうか……」
「こうしてもらってる。正夢だったな」
 結弦が苦もなく《正夢》だと言えること。そんな日が来ることは、結弦も予知できなかったこと。
 それこそが、梓弓が運命の人であるという事実に間違いはなかった。
「梓弓、今日は病院は?」
「日曜。当番日でもない」
「お休みなんだ」
 ああ、と返事をして、いい加減焦れた梓弓は、結弦の顎を取って、顔を上げさせた。
「休みだから、ゆっくり寝られる」
 寝るという意味が、睡眠ではないことを感じ取った結弦が逃げる間もなく、梓弓は口づけた。
 下が潜り込んできて、歯列の裏を辿っていく。背筋に痺れが走って、結弦は梓弓にしがみついた。
 唇を舐められ、息を継ぐ。
「梓弓、……やめ」
「ほら、スタンバイできてる」
 結弦の手を自分のそれに導く。
「朝だからだろっ」
「違うさ」
 医者でなくても、男の生理的な反応は知っている。同じ男なのだから。なのに梓弓は違うと言ってのける。信じられないとばかりに、結弦は恋人を睨みつけた。
 その目が潤んで、余計に情欲をそそるなんてことは知らないのだろなと、梓弓は苦笑を堪える。
「ダメか?」
「ずるい、梓弓」
 結弦の抗議が緩むのを見て取って、梓弓はパジャマのボタンを外していく。
 頬にキスをして、唇をずらしていく。耳朶を甘く噛むと、結弦がくぐもった声を漏らした。その声に気を善くして、耳にキスをする。舌で耳朶を濡らし、歯を立てる。
「や…………」
 結弦が首を振って逃げようとするのに、梓弓は顎を押さえてそれを阻止する。パジャマのボタンを外した手が、今度は下のゴムを潜っていく。
「ほら……」
 耳元で囁き、手で掴み取って、結弦の欲望を教えてやる。
 涙が一滴、目じりを伝う。それを唇で吸い取って、梓弓は身体を起こし、結弦にかぶさっていった。結弦が梓弓の背中に手を回す。
 
 休日は始まったばかり……。