Friends−友人−


 机の上に置いた写真に、西中守人は深い溜め息をついた。いずれこの日が来ることはわかっていたが、それでもできる限り、先延ばしにしてきた。だが……。
「前警視総監のお孫さんだ。父上は君も承知の通り、現在は警察庁の副長官をしておられる。一族の皆が警視庁のために尽くして来られている。その一門として迎えられるなら、君の将来も約束されたものだよ」
 本部長に呼ばれたから何事かと思えば、一枚の写真と、封筒を渡された。そして先の言葉。西中に断れるはずもなかった。
「まだ、もう少し……」
 だが、それをわかってくれとは、上司に言えない。あと一つだけ、気がかりなことがある。それを見届けるまで、自由でいたい。
 友と決めた人の名前を口にしてみる。
 彼は友達なのだ。
 友達なのだと言い聞かせる。
「梓弓……」
 孤独な目をした、冷たい鬼。彼は自分のことを鬼だと言った。心をなくしたのだと。
 彼の心に明かりを灯したい。灯したい。たとえそれが友情の灯だとしても……。
 
 
 バスジャック発生の一方は、楠葉(くずは)署からだった。警視庁に出動がかかり、西中達一行は、市内を暴走するバスを把握するため、楠葉署に詰めていたが、乗っ取られたバスがスーパーの大型駐車場に停まったのを期に、道路を封鎖し、自分も現場に向かった。
 犯人は二人組で、医者を要求していた。
 人質と犯人側双方に怪我人が出ているらしい。怪我人の解放を要求したが、手負いの犯人は荒れ狂うばかりで、それ以上の興奮によって人質が傷つけられることを恐れ、医者を呼ぶことが決まった。
 西中は暗澹とした気持ちで、彼の友人に電話をかけた。今は、彼を呼びたくなかった。昨日のお見合いの話を受けてから、西中は彼に対して、平静でいられる余裕がないからだ。だが、彼以外に、あのバスに入ってくれる医者がすぐに見つかるはずもない。
「常葉木です」
 梓弓の声は落ちついていた。
「バスジャックが発生した」
「ああ、知っている」
 おや?と思った。梓弓がニュースを知っているということが不思議だった。彼は今、病院にいるのだ。なのに、ニュースを知っているなんて、今までには考えられないことだった。
「行ってくれるか?」
 それだけで梓弓には通じる。
「わかった」
 梓弓も余計なことは一切言わない。
 西中は梓弓の迎えを部下に指示し、カーテンを閉ざしたバスを見た。
 あの中に、大切な人を行かせるのだ。それ相応の覚悟がなければできない。
 はじめて現場に行ってくれないかと梓弓に頼んだとき、彼はあっさりと承知した。それには頼んだ西中の方が驚いたくらいだ。
 だが梓弓は、医者という自分に何かの使命を負わせているらしく、「医者として死ねるなら、俺は本望なんだ」と言った。
 死なせるものかと思う。彼を死なせるくらいなら、人質と引き換えにしても、彼だけはこの手で救う覚悟はできている。例え職を追われ、世間に糾弾され、裁判にかけられ。罪を負わされても。
 それだけの覚悟で梓弓を呼ぶ。
 昨日渡された写真がちらつく。雑念を振り払った時、パトカーのサイレンが近づいてきた。
 
 梓弓が一人ではなかったことに西中は驚いた。白衣を着て、大きな医療ケースを手にした梓弓のうしろに、頼りなげな青年が立っていた。
「彼は?」
 西中の誰何に、梓弓は一瞬詰まり、それから知人だと答えた。てっきり医療関係者かと思っていた西中は、その言葉にも驚く。梓弓が知人だと人を紹介したことなど、今までに一度もなかったからだ。
「犯人と人質が怪我をしている。怪我の状態まではわからない」
「わかった」
 そう言ってバスに向かおうとした梓弓の手を、一緒に来た青年が掴んだ。
「行かないでください」
 梓弓は困ったような顔になり、西中を見た。
 西中は驚愕のため、言葉をなくしていた。常葉木梓弓という男の、見知らぬ顔ばかりが、今日は現われているのだ。驚きを通り越して、それは嫉妬にも近い。
「行っては駄目です」
 だが青年はそんな梓弓と西中におかまいなしに、梓弓を引きとめようと必死になっている。
「水原さん、私にとっては初めてのことではないんです。大丈夫ですから」
 梓弓の説得に、水原と呼ばれた青年は激しく首を振っている。
 優しい声……。西中でさえ聞いたことのないような、優しい声で、梓弓は水原に話しかけていた。心の中に渦巻くのはもはや、嫉妬以外の何物でもなかった。
「大丈夫じゃないです。いけません。今回だけはいけません」
「梓弓、急いでくれ」
 警察関係者がイライラとこちらを伺っているのがわかる。
「彼を安全な場所に」
 梓弓に言われ、西中は水原の肩を掴もうとした。
「触らないでください!」
 身体を固くして、西中は拒まれた。その言い方に腹が立つ。自分は梓弓の手を離さないというのに。
「行っては駄目です。お願いです。行かないで! 僕には見えるんです。バスの中で血塗れになって立っているあなたの姿が!」
 何をバカなことを、と思った。だが、水原は真剣そのもので、梓弓も何かを考え込むような顔つきになっている。
「立っているなら大丈夫だな」
 梓弓は笑った。その笑顔でさえ、西中にとってははじめてのものだ。
「必ず帰ってきます。あなたに聞きたいことがある。言いたいことがあるから」
 梓弓は水原の手をそっと外し、西中に目で合図をして、バスに向かった。
 
 梓弓がバスに入り、2時間が経過した。その間、あたりは不気味なほどに静まり返っていた。梓弓の説得がうまくいけばいいが……。
 梓弓は怪我の治療のためだけに現場に入ったのではなかった。犯人をできるならば拘束する。その使命も帯びていた。
 無理をしないでくれと、そればかりを願った。
 だが、梓弓のボールペンにしかけていたマイクは、彼がバスに入った時点で、犯人に壊されている。中の様子はまったく窺い知ることができなくなっている。
 バスに近づいた捜査員も、中の様子まではわからず、手をこまねいているしかない状態だった。
 その時、突然乾いた破裂音がして、バスの窓ガラスが割れた。発砲があったらしい。
 周囲が騒然とする。西中もバスを見やる。だが、踏み込ませることには躊躇いがあった。
 まだ早い。中の状況がまったく掴めない。
 続けて発砲が起こる。バスの中から悲鳴が上がった。
「来るなー!」
 犯人の声がする。前進していた機動隊が止まる。それ以上は近づけずにいる。
 一瞬、ざわめきが静まる。
「今です。踏みこんでください!」
 西中は腕を掴まれた。振り向くと、水原が必死の形相で西中に叫んでいる。
「お願いです。今踏みこんでください。常葉木さんが呼んでいるんです。早くっ!」
 バカなことを言うなと言いかけて、西中は迷う。先程の水原の台詞が甦る。それが彼の直感なら、信じても良いのではないだろうか。
 一瞬でもそう思った自分を、西中は罵る。だが、水原は引き下がらなかった。
「お願いです。踏みこんでください。お願いしますっ。彼が呼んでいるんです。僕は聞こえるんですっ。信じてくださいっ」
 水原の薄い色の目が、必死で西中を見た。
「踏み込め」
 西中は手にしたマイクで機動隊に指示を出した。
 目の前で、機動隊員達がバスに突入して行くのが見える。今更ながら、これでよかったのかと、自問する。こんな不確かな情報だけで、梓弓を危険に曝したのではないか。
 もし梓弓に何かあったら……。
『確保しました』
 スピーカーからその声が聞こえた時、西中は大きく息を吐いた。
 バスから取り押さえられた犯人が降りてくる。
 そして、梓弓が。
 彼は血塗れになっていた。白衣は真赤に染まり、端正な顔の所々にも、血で擦れたような跡がついている。
「先生!」
 水原が飛び出した。一直線に梓弓に向かって。
 梓弓は嬉しそうに笑って、自分の胸に飛びこんできた青年を抱き留めた。
 何事かを囁いて、また笑った。
 そのあとで梓弓は西中を見て、手を上げる。万事OKの、二人だけにわかるサイン。怪我はないということだ。
「警部」
 部下の声に我に返る。今、自分にはしなければならないことが山ほどある。
「小池、彼らを送ってくれ」
 配属されたばかりの部下にそれだけを指示して、西中は喧騒の中に戻っていく。
 背中を吹き抜けるのは、嫉妬と、寂寥の入り混じった、冷たい風だった。
 
 
 
 その日の夜遅く、西中は梓弓の部屋を訪れた。
 玄関に並んだ二つの靴に、西中は暗い気持ちを飲み込んだ。
「誰か来ているのか?」
 他に訪れる人のいるはずのない部屋だと知りながら、西中は尋ねた。
「ああ、現場で会っただろ。水原君が来ている。今は疲れて休んでいるんだが。起こそうか?」
「いや、いい」
 リビングに入り腰を落ちつけると、梓弓はワインを持って来た。
「今夜はよすよ。車で来たんだ」
 眉を上げて、梓弓は黙ってグラスを下げた。
「どうしたんだ。供述が取れないのか?」
 西中の暗い表情を、梓弓は仕事上のことと受け取ったらしい。
「いや、それはまだ本格的じゃない。ちょっと気になったことがあってな。彼のことなんだが……」
「ああ、なるべくなら、水原君の事情聴取は止めて欲しいんだが」
「それは任せてくれていい。ただ、どうも気になってな」
 西中が言いよどむのに、梓弓はクスリと笑って、とんでもないことを言った。
「未来が見えるんだそうだ」
 西中は眉を顰める。
「今日、俺がバスの中で血塗れになって立っている夢を見たんだそうだ。それで朝から病院に来ていた。現場にも強引についてきた」
 西中が黙っていると、梓弓は静かに言葉を続ける。
「バスの中で、犯人を取り押さえたんだけれど、マイクが壊れていただろ。人質達は誰も動こうとしなかったし、一人で二人押さえるのには限界があった。そうしたら、機動隊員が飛び込んできてくれた」
「彼が言ったんだ。今踏み込んでくれと」
「無意識のうちに呼んでいたらしい、結弦の名前を。それが聞こえたと言っていた」
 梓弓の言葉に、西中は彼の名前をはじめて知った。
「彼の能力については、かなり苦労してきたらしい。外部に漏れることのないように、して欲しいんだ」
 西中はきつく目を閉じて、ただ一つの想いを振り切った。
「必ず、それは守ってみせる」
「頼む」
 そう、自分には、これだけの言葉で足るだけの信頼がある。それこそが、本当に望んでいたものだ。
 梓弓のためにできること。
 自分の望んだものは、親友という名の、信頼関係だった。それでいい……。
 
 
 梓弓のマンションをあとにして、西中は歩いて駅に向かった。夜風が冷たくて、気持ちよかった。
 梓弓のためにできること。
 これからも、自分はそのために、努力を続けるだろう。
 そして梓弓にあの笑顔をもたらした人を同じように守るために。
 明日、断ろう。
 たとえそれで出世の道が閉ざされようと、悔いはない。
 空には高く、細い月がかかっていた。