RAPPORT U

 

その後……そして、日常

 


 
「どうだね、安藤さんの様子は」
 明日にはまた出張に出かけるという笠原を、洋也は訪ねていた。
「普通ですよ」
 簡潔な答えに、笠原は苦笑する。ここ数日の出来事のせいで、洋也の態度は硬化している。いや、もしかしたら、これが三池洋也という人物の本当の姿なのかもしれないが。
「今後のことは……」
「先生が帰ってこられるまで、どなたの診療も結構です」
 笠原が何かを言う前に、先制を喫された。
「わかっているよ……」
 頑なな人間だと思う、彼は。だが、それはある程度、仕方の無いことなのだろう。
 一人の人間を完璧に守ろうとすれば、自分を犠牲にしなければならないことは、予想以上に多いだろう。ましてや、あの人のように、人を疑うということを知らない相手では。
「なるべく早く帰ってくるよ」
 洋也はそれには答えずに出ていってしまった。
 自分も許してもらってはいないのだと、笠原はその時に気づいた。
 秋良を他人の手に委ね、結局はあのような事件を招いてしまった。
「お前、……せめて自分のことは許してやれよ」
 洋也自身、最も許せないのは自分自身なのだろう。
 共に生きる事を選んだため、それまで切り捨ててきたものが、洋也の選んだ人に刃を向ける。
 一人で生きているなら、それらは洋也にとっては苦痛でも何でもなかった。
 それが今になって、洋也を最も傷つける方法で迫ってくる。
 けれど……、今更離せないだろう。
 あの温もりを一度知ってしまえば、手放すことは生きる価値さえなくすに等しいだろう。
 一人で歩いてきた洋也には尚更……。
 
 
「おかえり」
 玄関を開けると、そこに秋良が立っていた。
「驚いたな……。どうしてわかったの?」
「車の音」
 行事の関係で短縮授業になっていた秋良は、洋也が思っていたよりも早く帰宅していた。
「ただいまは?」
 靴を脱いだ洋也を秋良が見上げる。
 洋也は微笑んで、言葉の代わりにキスをした。
「ただいま」
 何度も唇を合わせ、秋良の頬が薄く染まる頃、耳元で囁いた。
「おかえり」
 秋良はくすくすと笑い声をたてて、洋也の首に腕を回した。
「もうすぐ、ご飯ができるよ」
「何を作ってくれたの?」
 普段は洋也が家にいるので、食事はほとんど洋也が作っている。けれど今日のように、秋良の帰りが早い時は、秋良が作るようにしている。
「おでん。鍋が一つで済むから」
 ことことと時間をかけて煮込む料理は、何故か秋良が作ったほうが美味しい。きっと、料理にも性格が影響するのではないかと思う。
「楽しみだな」
「じゃあ、手を洗って、うがいをしてきなさい」
 秋良の言葉に洋也は笑い、廊下の奥へと進んでいった。
 
 洗面台の正面に掛けられた鏡に映る顔に、洋也はうんざりする。
 こんな顔をして秋良にキスをしたのかと思うと、自分が嫌になる。
 暗くて、厳しい表情。誰に対する怒りなのか、それを自分でも持て余している。ばしゃばしゃと音をたてて顔を洗っても、その暗さは消えるはずもなかった。
 秋良を手に入れるため、弟さえ傷つけても平気だった。
 そして手に入れたものを守るためなら、どんな事でもできた。
 けれど、そうして守っても、洋也が必死になるたびに、秋良をなくすという恐怖は増していく。その恐怖は少しも消えてくれない。
 だから閉じ込めたくなる。閉じ込めて、誰の目にも触れさせず……。
「遅いよ。何してるのさ」
 自分の底の暗さに眩暈がしそうになった時、明るい声がかけられた。
「秋良……」
「もう器に盛っちゃったんだから、冷めても知らないよ」
「ああ、ごめん。もう終わったから」
 洋也は無理にも微笑んで、秋良を促すように背中に手を添えた。その腕に秋良が額を寄せてくる。
「秋良?」
「そんな顔……、するなよ」
 自分の渇望を知られたのかと、洋也はどきりとした。
「僕……、どこへも行かないよ?」
 その言葉を聞いて、たまらずに抱きしめた。
「どこへも行かない。身体だけじゃなくて、心も。洋也を一人になんて、もうしないから」
 胸元で告げられる言葉が、洋也の心を暖めてくれる。
「秋良……」
「洋也もずっと……、傍にいろよ」
「離さないよ」
 洋也が誓うと、秋良は洋也の腕の中で顔を上げた。
「日本でもさ、同性の結婚が認められればいいのに」
 秋良の言葉に、洋也は驚いて目を見開いた。それを秋良が言うとは、全く考えの中になかった。
「そんな日が来るかもしれない……」
 世の中の常識は毎日変わっていく。だから、そんな日が来ないとも限らない。
「その日がきたらさ、僕たち、最初の夫婦になろうよ」
 秋良の言葉に、洋也は久しぶりに、本当に嬉しくて笑った。それまでは無理にも笑っていたように思う。
 わかっている。その日が来たとしても、秋良の職業を考えれば、最初の一組にはなれないだろう。
 けれど、そうして秋良が洋也のことを気遣ってくれる、その気持ちが嬉しかった。
「そうだね。約束だよ」
 優しい言葉遊び。二人でいるからこそ、実現できる。それが、約束。
「僕、これからも洋也を心配させるかもしれないけど、それでもいい?」
「もっと心配させてもいいよ。秋良がいるから、心配もできるんだしね」
 秋良はその言葉を聞いて、楽しそうに笑った。
「でも、洋也は僕に心配かけるなよ」
「…………わかりました」
 二人で笑った。やっと、笑えた。
 笑いながら抱きしめると、秋良が、料理が冷めると騒いだ。
 これが……、二人の日常。


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