ONLY ONE



『秋良ってさ、かなり甘やかされてるよな。でも、秋良の自主性も重んじてくれて。でさ、お前のところのネコ、まるで二人の子供みたいに愛情いっぱいに育てててさ。見てて思うんだけど、洋也さんって、子供ができたら理想のパパになってただろうなって思うんだよなぁ。働き者だし、申し分ないよなぁ』
 酔っ払いの一言だった。ただの酔っ払いの言葉だと、何度も思おうとした。
 けれど、その言葉は僕の心の中に、重く沈みこんだ。
 意識しないでおこうとすればするほど、それは意識するという事に繋がり、日毎、夜毎、その重さを増していった。
 
 
 目の前で洋也がミルクを抱いて、その長く柔らかい毛を乾かしていた。
 ミルクは僕にも洋也にも甘えてくるけれど、お風呂とドライヤーだけは、洋也でないと駄目なのだった。
 僕がドライヤーを持つと、それだけで逃げ出すのに、ミルクは今、洋也の膝の上でドライヤーの風を受けながらブラッシングされている。目を細めていてとても気持ちよさそうだ。
「秋良も乾かしてあげようか?」
 お風呂からでて、まだ髪を乾かしていない僕に、洋也が微笑みかける。じっと二人を見ていたので、僕もして欲しいと思っていると感じたのだろうか。
「…………いい」
 タオルで口を隠し、僕はくるりと背中を向けた。
 そのままパウダールームまで逃げ込んだ。
 ミルクが……、洋也の子供だったら……。
 優しくて美人の奥さんがいて、二人の子供がいて、洋也は二人にとても優しくて。
 自分に似た男の子を膝に抱き上げて、『じっとしろ』なんて言いながら、髪を乾かしてやるんだ、きっと。
 洋也の奥さんは……、それを微笑みながら見ているんだ。
 今の僕みたいに、後ろめたい気持ちなんか、全然感じる必要もなくて……。
 お風呂から出たばかりなのに、僕は冷たい水で顔を洗った。そうでもしないと、なんだか泣きたい気分で。
 こんなこと、悩んでも仕方ないのに。……と思うけれど、予想もしなかった友人の言葉に、傷つく自分がいた。
 洋也が父親になった姿なんて、全然それまでは考えた事がなかった。
 それは……、考える必要がなかったから。
 僕は洋也といる事を選んだし、洋也も僕達の家を作ってくれた。
 これが世間的にいう、夫婦としての生活なんだろうけれど、僕は洋也に子供を産んであげられない。
 そして……。僕自身、洋也があんなに世話好きだとは予想しなかった。
 子猫を育てるのは、拾ってきた僕の責任だと思っていたし、洋也に迷惑をかけないようにしなくてはと、とても気を遣っていたのだ。
 それが実際には、洋也はミルクの『ママ』とも呼べる存在になり、…………友人の言葉ではないが、子煩悩さを見せていた。
 友人に言われなければ、『洋也ってミルクのママみたい』で済ませていた日常が、いきなり僕に、『本当は子煩悩なパパになっただろう』と思わせることばかりが、僕の目の前で展開されていく。
「……やだな」
 洋也と離れるなんて僕にはできない。できないという事実が……後ろめたい。
 本当なら、……僕から身を引くべきなのに。
「何が嫌なの?」
「うわっ」
 突然声をかけられて、僕は大きな声を出してしまった。
「3日ほど前から何か考え込んでいるようだけど?」
 …………そう、家族の健康管理もバッチリですか。……って、それはやっぱりママの役目? なんて思うと、つい、嫌な笑いがこみあげてくる。
「秋良?」
「何もないよ」
 後ろめたさを隠すために口調が尖ったものになってしまう。
 洋也はじっと僕を見つめ、小さな溜め息を零した。
「僕の何が気に入らないわけ?」
「な、何もないってば」
 どうしてこう鋭いのだろうと焦りながら、僕は洋也の脇を通り抜け、リビングに戻ろうとした。
 けれどそれは、みすみす洋也に捕まえてくれといっているようなものだった。
 目の前に差し出された腕が肩を掴み、そのまま広い胸に抱きしめられた。
「離せよ」
 暖かく、それだけで安心できる腕が、今夜はとても辛い。
 その手に抱かれるのは、僕であってはいけないような気がして。
「この前、みんなと飲みに行ってから様子がおかしいよね? 何か言われた?」
「離せってば」
 とても鋭い洋也から逃れるために、僕はその腕を解こうと掴んだ。けれども、びくともしない。そんなに強く拘束されているわけでもないのに。
「何を言われたの? 僕に……関係していることだよね?」
「離せ……」
「離さないよ。秋良がちゃんと話すまではね」
 僕は諦めて暴れるのをやめた。
 ……こうして、抱きしめられ、慰められるのを待っていたのかもしれない。
「何でもない」
「それじゃ駄目だよ」
 抱きしめられる手の強さは変わらない。
 その強さが僕を守ってくれる。
 それだけでいい。
「駄目でもいい」
「僕はよくないよ。秋良のどんな心配の種も、残したくない」
 その言葉に泣きたくなるほどの重さが、軽くなっていくのがわかった。
 そうして甘やかされる事に、僕は慣れてしまっている。情けないけれど、この暖かさは、僕のものだと思いたい。
「このままでいい」
 このまま、二人でいたい。
「話して。話さないと、秋良はまたいつか、同じ事で悩むんだから」
 心配性の恋人に、僕は小さな笑みを零してしまった。
「あきらー」
 こつんと額に額をぶつけられる。
 僕はそのまま洋也にしがみついた。
「嬉しいんだけれど、……このままじゃ抱けないな」
 しっかりと背中に腕を回されて、洋也に包み込まれる。
「何があったの?」
 優しい腕の中で、僕は溜め息をつく。重い、重い、その罪を吐き出すように。
「洋也、……子供、欲しい?」
「子供?」
 驚いたような声が頭上から聞こえる。少しの間があって、洋也ははっきりとした口調で答えてくれた。
 少しの『間』は、僕の質問があまりに意外だったためだろうと思われた。
「自分の子供……、欲しくない?」
「欲しいと思った事は一度もない」
 きっぱりと言われてしまったため、僕はかえって信じられなくなった。
「本当に?」
「僕には秋良との生活しか考えられないから、その中へ、何も割り込ませるつもりなんてないよ」
「でも……、もし、僕と出会わなかったら?」
「…………。今ごろ行方不明かな?」
「ええっ?」
「行方不明は大袈裟だけれど、日本にはいなかったと思うよ。どこかの国で一人で生活しているだろうね。今頃は」
 落ち着いた声が、その途方もない話を信じさせる。
「だって……、結婚は?」
「一緒に暮らしたいと思ったのは、秋良だけだよ。秋良以外の人なんて、……どうでもいいんだ。僕には」
 こうして慰められることがわかっていて、僕は洋也の腕の中にいる。
 友人の言うように、僕は洋也に甘えているのだろう。とても。
「でも、ミルクのこと、大切にしてる」
「秋良が連れてきたからね」
「え?」
 ふっと笑う気配があり、僕はきつく抱きしめられた。
「僕には秋良だけなんだよ。秋良以外のものには……、自分の事さえ、……興味がない。秋良だけが、……僕の世界のすべてだから」
 僕にそんな価値があるだろうか。
 その問は口に出せなかった。
 あまりにも洋也の言葉が重くて。
 僕の心の中に沈んだ重い言葉は、この時、洋也の言葉の重さと入れ替わった。
 ただし、その重さは僕を苦しめない。
「だから、秋良には、……自分を大切にして欲しいんだよ。……どんな小さな悩みも打ち明けて欲しい。どんな些細な事も……、隠さずにいて欲しい」
 この重さを大切にしよう……、そのためには、洋也と、僕自身と、そしてこの家を大切にしようと、自分に誓った。
「洋也……、大好き」
 いつもは言えない言葉が自然と言えた。
 今は……それで許して。
 洋也の気持ちを疑った僕を……。