恋人は心配性

 

……食欲がないんだ
……そうなの
 こんな会話で済ませてくれないだろうかと、目の前に並んだ、美味しそうな食事と、それを作ってくれた人物を交互に見てみる。
 そんなわけにはいかないよなぁと、溜め息をつきかけて、慌てて飲みこむ。
 そんなことでさえ、胃の方からじわりと不快感がせりあがってくる。
「どうしたの?」
 優しい声がかかり、とりあえず、笑ってみせる。
「食欲がないの?」
 少し細められた目が、心配そうに僕を見る。
「…………ちょっとね」
 苦笑いで答えると、細められた目と目の間に縦に皺が寄っていく。
「何か食べたいものがあれば作り直すけど?」
「い、いいよ。後で食べるから。今はちょっとお腹が空いてないだけだから」
 僕は笑って、でも、せっかくのご馳走を無駄にするのももったいなくて、あとでなら本当に食べられそうだと思って、洋也にごめんと謝った。
「何か気がかりな事があるの?」
 洋也の問いに僕は少し笑ってしまう。
「あると言えばあるかな。でも、そんなにたいしたことじゃないし。それが原因だと思えないんだよな。本当にお腹が空いてないだけ。心配し過ぎだよ」
 なるべく元気に笑って見せるけれど、洋也は納得していないようだった。
「洋也の方が心配し過ぎで胃を悪くしないかって、それが僕にとって、今の一番の心配事かなぁ」
 洋也は眉根の皺を解いて、柔らかな微笑を浮かべた。
 僕の大好きな一番の笑顔。優しく微笑んで見詰められると、身体の中がほっこり暖かくなる。
 僕の身体の中は水がいっぱい詰まってて、洋也といると、ぽかぽかと暖かくなる。
 だから、心配する事なんてないんだ。
 洋也といると、僕は自然体でいられるから、とても気分が良くなる。
「やっぱり、ちょっと食べようかな」
 ほら、こんな風にね。
「食べても大丈夫なのか?」
 食べないと言えば心配で、食べると言えばそれも心配で。
 僕は洋也の心配性に、くすっと笑ってしまう。
 そして本当に、それだけで胃のあたりに何かが沈みこんだような重さを忘れてしまった。
 気がかりがあると言えばある。
 僕はこの春、5年生を受け持つことになった。
 5年生になって、新しいクラスメイトと一つの教室に入った時点で、派閥のようなものは出来あがっている。
 そこから新しい人間関係が混ざり始め、融合し、統和していく。
 これはもう、持ち上がりじゃないクラスを受け持つ時はごく普通の事で、大変だけれど、楽しいことでもある。
 たいていは奇数学年を持つと、次の年は持ち上がるので、その大変な事態は二年に一度やってくる。そして今年、僕は5年生の新しいクラスを受け持った。
 実はこの学年が、色々と問題のある学年だった。
 どういうわけか、とても受け持ちやすい子が集まる学年というのが、何年かに一度やってくる。そしてその反動のように、受け持ちにくい学年が1〜2年下にいる。
 今年がその当たり年だった。
 でも、僕はその「受け持ちにくい」学年というレッテルの貼り方が嫌いだった。
 何かが噛み合わないだけ。そう思う。
 それでも最初は大変だった。まぁ、いろいろなことがあって、ようやく落ちついてきたところ。
 ほっとしたと同時に、自分の胃のことを思い出したかなという感じ。
 もちろん、その大変な時期を、洋也は僕以上に僕の身体のことを気遣ってくれた。
 僕は自分のイライラを洋也にぶつけちゃいけないと思うし、一人で考え込んじゃう時が多いんだけど、洋也はどうしてなのか、うまく探り出してしまう。
 どうも、イライラをぶつけていないつもりでも、何かしらサインを出して甘えているのかもしれない。
 そして後になって気がついて、ちょっと反省するんだけど、そんな頃にはもう洋也は忘れちゃってるみたいな振りをする。
 自分でも反省するんだけど、治らない。それどころか、どんどんワガママになっているような気がして、ますます申し訳なく思う。
 そして堂々巡りの末、男として情けなくなって洋也と喧嘩しちゃう。
 最近は喧嘩の前に自分で気づくようにしてなったのだけど、それもちょっと情けないなと思っている。
 時折、自分の生徒たちより子供っぽいなと感じて、そんな時はどうしてか、洋也が悪いんだと思う。僕を甘やかすから……。
 そんな事を考えながらお風呂から出て、パジャマ姿でソファに寝転ぶと、ミルクが僕のお腹の上に乗ってきた。
「こーら、ミルク。重いだろう」
 まだ子猫のミルクがそんな重いわけはないけれど、にゃあと鳴く姿がかわいくて、仰向けのお腹の上に乗ったミルクの喉をくすぐってやる。
 いつもなら目を細めて喜ぶのに、何故だか今夜はパジャマの上着の中へ頭を突っ込もうとしている。
「ミルク、くすぐったいだろう?」
 僕の右のわき腹に頭を入れ、ペロッと舐めた。その舌のザラザラ感にぞわっと鳥肌が立つ。
「ミルク、やめろってば。もうー」
 最近、ミルクは僕のそこがお気に入りのようで、困ってしまう。
 上着をめくってミルクを両手で抱き上げる。
「こら。悪戯坊主だなぁ」
 ミルクの鼻に僕の鼻をこすりつけてやる。
「秋良、髪を乾かさないと。ほら」
 二人でじゃれ合っていると、ドライヤーを片手にしたママが、僕たちを呆れたように見ていた。
 僕がドライヤーを受け取った途端、ミルクが僕の手から逃げて行く。
 ミルクは僕にドライヤーをあてられるをすごく嫌がる。洋也だとおとなしく、気持ちよさそうにしているのに。
「自分の身体が濡れているわけでもないのに」
 僕が恨めしそうに呟くと、洋也はくすりと笑った。なんだかちょっとむかつく。
 ミルクは僕の子なのに……って。


 暖かくて大きな手が胸を滑っていく。安心できる、優しい手。
 抱きしめられ、キスされ、肌を撫でられる。
 セックスに対する恥ずかしさはどうしてもなくならないけれど、いやじゃないし、気持ちいい。
 抱かれたいと思うこともある。
 洋也が好きだから。その手で触れて欲しい。僕も触れたい。
「秋良……」
 名前を呼ばれて体温が上がる。触れ合った肌が熱くて、触れていない場所が寒いくらいに触れて欲しくなる。
「ん……」
 ぐっと分け入ってくる指はジェルの助けを借りていても、その瞬間は辛い。
 ゆっくりほぐすように愛撫する指に、いつもならその場所が身体中で一番熱くなるはずなのに、どうしてか、今夜はいつまでも洋也の指を異物として、侵入を拒む。
 気持ちは受け入れているのに、どうしても身体がいうことを聞かない。
 そんな事は今までに経験した事がなくて、自分でもちょっと驚いてしまう。
「……ぅふ」
 息を吐き、身体の力を抜こうとするけれど、気持ちとは反対に、どんどん身体は緊張する。
「秋良?」
「……ん……」
 洋也もおかしいと思ったようで、どうしたのかと耳元で僕の名前を呼ぶ。
「辛い?」
 優しい声で問われて、首を振る。
「大丈夫……」
 けれど、身体が洋也を受け入れてくれなくて、すごく焦った。
「秋良……無理しないで」
 ゆっくりと指が抜かれ、ほうっと息が漏れる。
「洋也……」
 キスをされ、洋也の手が僕自身を掴む。
「……大丈夫。……ほら」
 僕のものと洋也のが触れ合い、混ざり合うような快感が身体を満たす。
「あ……」
「秋良……」
 ちゅっ、ちゅっとキスをされ、洋也の手で追い立てられる。
 まるで洋也ので擦られているような感覚。
「あ……、んんっ」
 キスの間に堪えきれない喘ぎが零れる。
「やっ……」
 強く扱かれ、きつく抱きしめられ、密着した身体の間で、僕は弾けてしまった。
 その熱が身体の中に戻ってくるような気がして震えるままに、洋也にしがみついた。
「…秋良……」
 熱い息と一緒に名前を呼ばれると同時に、再び熱い流れが広がっていく。
「んっ……」
 洋也の肩に顔を埋め、額を擦り付ける。
 うなじを吸われ、ゆっくり身体が離れていく。
「……いいの?」
 それだけで離れていく洋也に、僕はちょっとだけ申し訳なくなる。
 洋也は苦笑して、僕の頬にキスをした。
「秋良、身体の調子、悪くないか?」
「ないと思うけど……」
 自分の身体の事なのに、自信がなさそうに答えると、洋也は心配だから、胃の検診に行かないかと誘う。
「うーん。夏休みになったらね」
 今はそれどころじゃないんだってば。
 それに、本当に胃は痛くない。一度急性の潰瘍をした事があるから、なんとなくわかる。胃が痛いんじゃない。どこも痛くない。
 だからちょっと疲れているだけなんだと思っていた。


「ただいまぁ」
 慌しく日が過ぎ、1週間後の金曜日。
 洋也が仕事で出かけたので、僕が食事の用意をする事にしていた。
 学校の帰りに買い物を済ませ、スーパーの袋をかしゃかしゃいわせて家に入ると、玄関の定位置でミルクが出迎えてくれた。
「ミルク、いい子にしてたか?」
 にゃーとまるで返事のように鳴くミルクを従えて、ダイニングに直行する。
 テーブルに買い物を乗せて、うがいと手洗いをする。
 ダイニングに戻って、買ってきたものをテーブルの上に取り出す。
「……?」
 右のわき腹にちくっと痛みを感じて、その場所を手で押さえた。
「みるくー、お前が舐めてる場所だぞー。なんか、痛いなー。ミルクが舐めすぎたから、擦り傷みたいになったかなー」
 猫が舐めたくらいでそんな事になるわけがないと思いながら、シャツを引っ張り出して、今痛みが走った場所を確かめた。
「やっぱり何ともないか」
 疑ってごめんなーとミルクに謝って、ミルク用の猫缶を取ろうと、リビングボードの上の棚に手を伸ばした。
「洋也、自分のことしか考えてないな」
 届きそうで届かない。背伸びして、やっと指先が缶に触れるくらいの高さ。
「もうちょっと。落ちてくるなよー」
 誰に言うともなく言いながらぐっと身体を伸ばした時だった。
「……っ!!」
 さっき痛かった場所に刺すような痛みが走った。
「いたた……」
 背伸びをやめて、伸ばしていたその手で、痛む場所を押さえる。
「……っ。何?」
 足元でミルクがにゃーにゃーとうるさく鳴いていた。その鳴き声が、耳から頭の中を掻き回す様にうるさく感じてしまう。
「……痛っ……くぅ」
 最初、刺されたような痛みは、じわりと、けれど確実にお腹全体に広がっていくように思った。なのに、元の場所は和らぐどころか、どんどん痛みを増す。
 これ以上の痛みはないと思うのに、それ以上の痛みが襲ってくる。
「…………っっ!!」
 もう声も出せなくて、膝をつく。そうすると、座る事も出来ずに、お腹を押さえてうずくまる姿勢になった。
 倒れる時に肩がテーブルに当たってしまい、端っこに置いていたプチトマトのパックが床に落ちた。
 コロコロと目の前に転がり広がっていく赤い小さな玉。
 床に沈み込むほど額を押し付けても、身体の痛みは緩む事がない。
 ミルクが鋭い声を出して鳴いている。その合間に思い出しては僕の頬や顎を舐める。
「ミルク……電話、とって……」
 はぁはぁと漏れる息の中で頼んでも、ミルクがそれを理解してくれるはずはなくて、痛みに視界が歪んでいるのに、犬ならそれくらいはできるのになと思ってしまった。
 洋也が帰るといっていた時間まではまだ一時間以上あるし、電話のところまで這っていくだけの気力もなかった。
 このまま痛みが増していけば、気を失えるかもと期待する。そうすれば、きっと、こんなに痛くないと思ったりして。
 バカなことをと思って、なんとか電話の場所まで這っていこうと身体をそろりと動かすと、それだけで裂けるような痛みが襲った。
「くっ……!!」
 霞む視界の向こうを白い塊が横切って行った。
 ミルクが逃げて行っちゃったと悲しくなった。
 傍にミルクがいるだけでも、頑張らなくてはと思っていた気力が一気に萎む。
「ミルク、どうした? お腹が空いたのか? 秋良は?」
 ショックのあまり、一番聞きたいと思う声が聞こえてきた。
 本当に洋也が帰ってきたらいいのになと思って。
 でも、その時には立ちあがって何もないよと言ってあげなくちゃ、また心配させてしまうと思った。
「どうしたんだ? ミルク、うるさいぞ」
 洋也の叱るような声の後に、慌てたような足跡が聞こえた。走ってる。近づいてくる。
 ……洋也。
 呼んだけれど、それは声にならなかった。代わりに漏れたのは、うめき声だけ。
 ばたんと大きな音を立てて、ドアが開いた。
「秋良っ!」
 叫び声を聞いた途端、ようやく痛みから解放された。
 …………そのまますべての感覚が消えた。
 
 ざわざわという音に、ゆっくり意識が戻る。
 聴覚が戻ると同時に、瞼が開いた。
「あ、気づかれましたよ」
 ひょいと目の前に、優しい微笑んだ女性が顔を覗かせた。
「安藤さん、わかりますか?」
「あ……はい」
 返事をすると、お腹に力が入ったのか、ぴしっと痛む。
 その途端、あの痛みが戻ってきた。
「痛みますか?」
「……はい」
 そっと撫でられているだけなのに、まるでたくさんの針で刺されているような痛みを感じた。
「虫垂炎ですね」
 あっさりとお医者さんは言った。
「ただし、かなり我慢をしたでしょう。かなり酷い炎症を起こしていて、腹膜炎の疑いもあります。手術するしかないですよ」
 そう言われて頷く以外に何ができるだろうか。
 看護婦さんが額に浮かんだ脂汗を拭ってくれる。
「それじゃあ、このまま手術しますから。一緒に来た人に同意書書いてもらってもいいかな。ご家族の方はちょっと遠くに住んでらっしゃるとかで」
「はい」
 声を出したつもりだけれど、酷く擦れていた。
「ちょっと腹膜の方が心配なんで、全身麻酔かけますよ」
 はーと息をして、頷いた。
 何をしても痛くて、これを取り除いてくれるなら、なんでもしてくれと思った。
 救急車で運ばれてきたらしい僕は、ストレッチャーで手術室に運ばれる事になった。
 その扉一つ分の距離を移動する時に洋也に会えた。
 なんだか、洋也の方が病人みたいに真っ青で、僕は罪悪感に苛まれた。
「ごめん……」
 洋也は憂いを含んだ顔で頷くだけだった。
 身体が沈んでいくような感覚に、身体が竦む。
 降下感に震えてぎゅっと手を握り締めると、お腹に熱いような痛みが広がる。
「秋良?」
 僕を呼び戻す声に、ほっと息をつく。
 落ちて行くと思っていた背中が柔らかい布に包まれている。
 ゆっくり目を開けると、白い電灯がまず目に映った。
「秋良……」
 声のする方に顔を動かすと、洋也が僕を見ていた。
「あ……」
 声を出そうとすると、酷く喉が乾いていた。
「痛む?」
 洋也に問われ、まだぼんやりした思考の中、首を左右に振った。
 すると洋也はようやく弱々しくながらも微笑んだ。
「手術は済んだから、安心してもう少し寝て。今、真夜中だから」
 だったら洋也も寝なくちゃ……。
 そう思ったけれど声には出せずに、そのまままた僕は眠ってしまった。
 朝、いつもの通りに目が覚めて、隣にある筈の温もりに伸ばした手は、まっすぐに伸びて、冷たい金属に当たる。
 なんだろう?と思って、ベッドの柵だと気がついた。
 ……そうか、入院したんだ。
 起き上がろうとすると、腹筋に力が入ったのか、ピリッとした痛みが走った。
「……っ」
 まだ痛いやと、枕に頭を預ける。そのまま首をめぐらせると、ここが個室である事がわかった。
 他にベッドはなくて、壁際のソファでクッションを背に、洋也が眠っていた。
 呼ぼうかと思ったけれど、それはやめた。
 ぐっすり眠っているらしい洋也を起こすのは躊躇われた。
 きっとまた心配をかけて、一晩中ついてくれてたんだとわかって、胸がちくりと痛む。
 喉がひどく渇いていたけれど、それくらいは我慢しようと思って、シーツの中でそっと手で腹部を触れてみた。
 あれほど痛かったお腹はもう、じわりとした痛みに変わり、それさえも意識すればここが痛いという感じだった。
 ガーゼで膨らんだその場所を圧迫しないようにたどってみる。それでも痛みはほとんど感じられなかった。
 ふうと息をつくと、ドアがノックされ、看護婦さんが入ってきた。
 ノックの音に洋也がピクリと肩を揺らして起き上がった。
「いかがですか? 痛みます?」
 看護婦さんが笑顔で尋ねてくれると、洋也は驚いたように僕を見た。
「起こしてくれれば良かったのに」
「だって、よく寝てたし」
 洋也はきまり悪そうに笑って、僕の額に手を置いた。
 看護婦さんの前でされるその仕草に、慌てて僕は洋也の手をつかんで離してしまった。
「今、体温計で計ってるから」
 軽く睨むと、洋也は肩を竦めて、ベッドから離れた。
「まだ少しお熱がありますね。でも、手術したあとはどうしてもそうなりますから。氷枕を持ってきましょうか?」
 看護婦さんの心遣いにお礼を言って、僕はそれを辞退した。頭の後ろで水の揺れる感じが好きじゃなかったから。
「あとでガーゼの交換にきますから」
「あの、もう起き上がってもいいですか?」
「いいですよ。どんどん動いた方がいいんです。もしお腹が痛むようでしたら、すぐに呼んでくださいね」
 笑顔で看護婦さんが病室を出て行くと、僕はこわごわ起き上がろうとした。
 洋也が慌てて背中を支えてくれる。
「大丈夫だよ」
「秋良の大丈夫は信用できないからね」
 きっぱり言われ、ちょっと腹が立ったけれど、何も言い返せなかった。
「ごめん、びっくりさせたよね」
「今度からちゃんと病院に行くことを約束してくれるなら、全然たいしたことじゃない」
 しっかり釘を刺され、僕は苦笑しながらそれを受け入れた。
 午前中に母さんが洋也のお母さんと一緒に来てくれて、入院の手続きをしてくれた。
 救急車で運ばれるまで我慢をするなと叱られ、心配させるなと泣かれ、ちょっと戸惑った。
 母さんは一晩、家の方に泊まってもらう事になって、手術日以外は泊まれないとのことで、洋也も帰って行った。
 次の日の昼には柔らかめの食事が出るようになり、ほっとしたところへ、洋也が的場先生を連れてやってきた。
「おっ、元気そうじゃないか」
 医者には見えない豪快さで、的場先生は笑う。洋也は元気じゃなければ困るし、今は病人だとむっとしている。
「今日中にCTとエコーの検査をしたいんだ。明日には胃カメラを飲んでもらうつもりだけど、いいかな?」
「え?」
 的場先生の唐突な説明に、僕は驚いた。
「どこか、他にも悪いところがあるんでしょうか?」
 ちょっと恐くなって、僕は洋也と的場先生を交互に見た。
「お前、説明しなかったのか?」
 的場先生は批難混じりに洋也にきいた。
「この際だからきちんと検査をしようといいましたよ」
「あれって、今すぐだって事? 僕はまた今度落ち着いたらってことだと思ってた……」
 今朝、洋也はちゃんと健康診断もした方がいいと言ったんだけれど、まさか今すぐだとは思わなかった。
「落ちついたらなんて言ってたら、秋良の場合、倒れた時にってなりかねない」
 きっぱりと言われ、多少後ろめたい気持ちがある僕は、むすっと押し黙るしかなくて。
「どうせ入院しなくちゃならないんだし、ここの病院なら医療設備も整っている。してもらった方がいいよ」
「……でも、そんな事をしていたら、入院が長引くよ」
「二日ほどのことだよ」
「でも、今は学校をそんなに休めない」
「何を言ってるの。退院したからって、翌日から出勤なんて、出来ないし、させないよ」
「なんだよ、それ。もう大丈夫だよ。盲腸くらいでそんなに休めないし、今は本当に大変なときだから、休みたくないんだ。本当にもう大丈夫だから。夏休みになったらすぐに、ちゃんと検査を受ける。それでいいだろ?」
「…………僕は反対だね」
「でも、検査を受けるのは僕だから、拒否もできるよね」
 せっかくうまく運び始めたクラスなんだ。今僕が休んだりしたら、どうなるのかわからないという不安が押し寄せる。
 抜糸さえ済めば退院できると思っていたし、その翌日には教壇に立てると考えていた。だからそれができないと言われて、かなりショックだった。
「………………。わかったよ。悪かった」
 とても悲しそうに洋也は言うと、ふいと病室を出て行く。ドアの所で遅れてやってきた母さんとぶつかりそうになり、すみませんと謝って、ドアの向こうに消えた。
「どうしたの?」
 母さんの後から洋也のお母さんもやってきて、病室内に流れた不穏な空気に、曖昧な笑みを浮かべる。
「なんでもない。……検査の事でちょっと」
「検査? 何の? まだどこか悪いの?」
 ほらね。母さんだってそう思うじゃないか。
「安藤さんの場合、炎症さえ収まれば、すぐにも退院していただけますが、この機会に人間ドックのような検査をした方がいいと、洋也君が言ったもので」
 的場先生が苦笑混じりに説明してくれた。
「あら。して貰えるなら、して貰った方がいいわよ」
 説明を聞くと、母さんまでが検査をしろと言い出して、僕は焦った。
「駄目だよ。そんなに学校を休めない」
「退院したからって、すぐには働けないわよ。一週間は安静にしないと」
 一週間も家で静養しろと言われ、僕の方が驚いてしまった。
「そんな。盲腸くらいで」
「その盲腸くらいで死にかけた人が、偉そうな事を言うんじゃありません」
 母さんに言われて僕はちょっと呆れてしまった。
「大袈裟過ぎるよ」
 どうしてそこまで言われてしまうのか、ちょっと腹立たしささえ感じてしまう。
「少しも大袈裟じゃないわ。洋也さんは優しいから言わなかっただけで、大変な事だったのよ」
「房子さん」
 洋也のお母さんが止めてくれたけれど、それでも母さんは僕を叱った。
「言わなきゃわかりませんよ。甘えているんです、この子は」
 きっぱりと言って、僕を睨む。
「秋良、あなたがここへ運ばれてきた時、洋也さんがお医者さんに何を言われたのか教えてあげましょうか? あと一時間遅れていたら、危なかったかもしれませんよ。そう言われたそうよ。たかが、盲腸。それをつまらない我慢で、病院にも行かずに、悪化させたのは秋良でしょう? 昨日、あなた言ってたわよね。洋也さんが一時間早く帰ってきてくれて助かったって。あなたが軽く言ったその言葉の重みをもっと知りなさい」
 僕はぎゅっとシーツを握り締めた。
 一時間、あの痛みに耐えるんだと思っていたところへ、洋也が帰ってきてくれた。
 あの時は本当に嬉しかった。
 僕が昨日言った言葉はただそれだけの意味だったけれど、洋也にとっては冗談じゃない言葉だったのだ。
『虫の知らせ、かな?』
 とうして早く帰ってこれたの? と尋ねたら、洋也は笑っていた。
「昨日、みんなで食事をしたけれど、洋也さんはプチトマトを食べられなかったのよ」
「プチトマト?」
 突然飛んだ話に、僕の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいになる。
「リビングで倒れているあなたの周りに、赤いものが散っていて、まるで血の様に見えたのですって」
 目の前を転がっていったプチトマトを思い出すと、あの日の痛みまでがよみがえる様に思えた。
「意外と繊細で、私も驚きましたけど」
 洋也のお母さんが、場を取り成すように言ってくれるけど、母さんはとことん洋也の味方らしかった。もう、僕にも洋也に対して、不満を言えないと思っているのに。
「それほど人を驚かせておいて、自分勝手な事ばかり主張しないの。あなたが勝手にした我慢なのに、洋也さんは私や父さんに謝ってくれたのよ。傍にいたのにこんな事になってすみませんでした、って。それほど心配してくれる人に、それ以上甘えるのは、我が侭でしかないわ。洋也さんを大切にしないと、バチが当たるわよ。私も逆縁だけはごめんですからね」
 何も言えずに俯く。
「気にしないで、秋良さん。あの子も、秋良さんの同意を得ずに勝手に話を進めたんだから、秋良さんが戸惑うのも無理はないわ。ただね、私もこの機会だから、検査した方がいいかなとは思うの。秋良さんも洋也もそれで安心できるでしょ?」
 少し考えて、でも、考える余地なんて本当は無かった。
「お願いします」
 僕は的場先生に頭を下げた。
「任せておけって」
 的場先生は笑って、病室を出て行った。
 そして母親二人が部屋に取り残された。
「ちゃんと謝るのよ」
「謝らなくてもいいわよ」
 それぞれに180度違う事を言いながら、それでも親しげに花瓶の水を替えてくれる。
「私は今日、帰りますからね。退院の日にも来ないわよ。お父さんを一人にもしておけないし。あなたももう少し自分の身体を心配なさい。心配してくれる人がいてくれる事がどんなに幸せな事かも、もう一度よく考えない」
 母さんはそう言って僕を諭し、帰っていった。洋也のお母さんが駅まで送ってくれるというので、僕は病室に一人になる。
 一人になった途端、そわそわと落ちつかなくなる。
 謝るなら早いほうがいいのだとわかっているけれど、どう言えばいいのかなと色々考えてしまう。
 けれど、夕闇が窓からも侵入してくる頃になると、このまま夜を迎えて、一人夜の病室で悶々と考え込むのは憂鬱だと思い直して、部屋に設置されている電話を取った。
 0番を押して外線に繋ぎ、家の電話番号を続けて押す。
 3回のコールのあと、洋也の声がした。
「あ……、僕」
『秋良? どうかした?』
 すぐに僕の身体を気遣ってくれる声に、もっと早く電話をかければ良かったのにと後悔する。
「検査、受ける事にしたから」
『……いいの?』
「うん……。もう……、今日は来れない? 明日、何時頃来てくれる?」
『今から行くよ』
「仕事は? 大丈夫?」
『待ってて』
 短い会話のあと、電話は切れた。
「謝るの、忘れちゃったよ……」
 電話を置いてから、その事実に気がついた。
 顔を見たら言えそうになくて電話をしたのに、駄目だなぁと反省する。
 パジャマの上にカーディガンを羽織り、ブラインドを上げて窓の外を見る。
 景色はもう夜の中に溶け込もうとしていて、明るい病室がかえって空しく思えた。
 広い病室に実は不満さえ言ったのだ。贅沢だから、大部屋に移ると言ったら、洋也は見舞いに来るのに落ちつかないからこちらにして欲しいと言った。
「ほんと、駄目だよなぁ」
 心配かけているのに、わがままばかり言って、困らせて。最終的には洋也に気を遣わせるだけで。
 20分ほどして、ノックが聞こえた。
 歩いて行ってドアを開けると、洋也が立っていた。
 僕の肩を抱くように病室へ入り、ドアを閉める。
 そのままぎゅっと抱きしめられた。
「洋也……、ごめんね」
 抱きしめられると、想像していた以上に素直に謝罪の言葉を言えた。
 洋也の背中に手を回し、自分からも抱きしめると、洋也の鼓動や吐息が聞こえるようで、心の中がどんどん暖かくなる。
「秋良……」
 僕の名前を呼ぶ声が弱々しく聞こえて、心臓がきゅっと縮む気がした。
「どこへも行かないで……」
「洋也?」
 囁くような洋也の告白に、僕は戸惑いを覚える。
 洋也は時折、情緒不安定になる。恐いくらいに、僕のことを気遣う。
「本当は秋良を病院に残したくない。病室に入った時に、秋良が何の反応も示さなかったらどうしようと、そんな事ばかり考える」
「洋也……」
 それは多分、あのときのことを言っているのだとわかった。
 僕にとっては記憶のない事で、それが今もこうして洋也を苦しめている事を再認識して、それは少なからず、僕にとっても衝撃的だった。
「僕が安心したいんだ。検査を受けるのは秋良なのに。痛い思いをするのも秋良なのに。それでも、どこも悪くはないと、安心したいんだ。秋良がずっと傍にいてくれると、信じたいんだ」
「どこにも行かないよ」
 回した腕に力を込める。
「どんどん我が侭になっちゃってさ、こんな僕、洋也でないと誰も甘えさせてくれないよ。全部洋也のせいだからな。責任とってくれよ」
「……秋良」
 痛いほどに抱きしめられて、ちょっと息苦しくなったけれど、文句は言えなかった。僕もそうしていて欲しかったし。
 けれど、廊下を行き過ぎる誰かのスリッパの音に、はっとして身体を固くする。
「やっぱり、このまま連れて帰ろうかな」
 落ちつかないから。そう言って洋也は笑って、名残惜しそうに僕を解放した。
 それだけでちょっと寒く感じる。
「でも、検査が3日かかるって」
「2日じゃなかったのか?」
 肩を抱かれ、ベッドまで導かれる。
「的場先生が僕のカルテを見て、胃の検査の項目を増やしたから」
 ベッドに並んで座ると、肩に腕が回される。引かれるままに、頭を預けて目を閉じた。
「まぁ……、して貰ったほうがいいだろうけどね。でも、どうも的場先生の場合、好奇心という言葉が思い浮かぶな……」
「ああ、それ言ってたかな。神経性胃炎になりやすい人の胃壁には興味があるって」
 洋也の唸り声が聞こえて、僕は笑う。
「早く帰りたいな。ミルクも心配だし」
 洋也がぐっと詰まったので、僕は目を開けて頭を起こした。
「どうかした?」
 洋也は困ったように笑って首を振る。
「まぁ、覚悟しておいて」
「何を?」
「…………。秋良のパジャマでも持って帰ろうかな? そうすれば少しはミルクも寂しくないかも」
「帰ったらミルクに謝らなきゃ。ミルクは教えてくれていたんだ。ここが病気だよって。なのに、悪戯を叱っちゃった」
「ほんとだね。まぁ、しばらくは離れそうにないな、アレは」
 本当は連れてきてやりたいんだけれどねと、洋也は再び僕を抱きしめる。
「ほんと、家が一番いいな」
「だったら、もうこんなところへ来なくていいようにして欲しいな」
 洋也の願いは、もちろん僕の願いでもある。
「うん……、ごめんね」
 僕の謝罪への返事は、そのまま唇に重ねられた。
 傍にいられることの幸せを、あまりにも僕は当たり前の事と受け止めすぎていた。
 洋也は一度はそれをなくしていたし、手に入れたものを懸命に守ろうとしていてくれた。
 僕の傲慢さを、こんなに簡単に許していいの?と思いながら、僕はまたこうして甘えている。
 でも、洋也の手が僕のパジャマのボタンを一つ、また一つと外していくのに、僕は慌てた。
「ま、待って。何、してるの」
「ミルクへのお土産」
「ええっ?」
 それはさっきも言ってたけど。でも。
「じゃ、じゃあ、代わりのパジャマ」
「もちろん、着せてあげるよ」
「まだ抜糸もしてない」
「わかってるよ」
 嘘だ。いや、わかっててやられてるっていう気もするし。
「洋也」
 困りきって名前を呼ぶと、洋也はくすっと笑って、手を止め、そのまま僕を抱きしめた。
「冗談でも、止まらなくなりそうだから、この辺にしておくよ」
「理性に感謝します」
 ほっと息をつく。
 うなじに洋也のクスクス笑いが響いて、それだけで体温が上がる気がする。
 明日熱が上がってたり、血圧が高かったりしたらどうしよう?
 とりあえず、僕の心配は、人生最大の後悔から、取るに足らない小さな困惑に変わったのだった。