誓約









 洋也の誕生日前にある祝日に、秋良は一人で実家へと向かった。
 休みの日に一人で出かける秋良に、洋也は一緒に行くと言ったが、妙に頑固な秋良はそれを断った。大切な用事があるからと言えば、洋也も強く反論できないことを利用して、秋良はその「大切な用事」を済ませた。
 両親に頼むことは恥ずかしかったが、洋也と二人、仲良く暮らして、秋良の幸せを願う両親は、喜んで引き受けてくれた。
 それがつい先日のこと。けれど、それだけでは洋也の誕生日プレゼントにはならない。何しろ、一円もお金はかけていないのだ。
 左手の薬指に輝く指輪を見つめて、秋良は物憂げな溜め息をついた。
 愛猫が足元に寄ってきて、丸い目で天使を見上げる。
 まるで秋良を心配しているような鳴き声をあげるので、秋良はにっこり笑って抱き上げた。
「ママのね、誕生日に何をプレゼントすればいいのかなーってさ」
 抱き上げたミルクに話しかける。
 もちろん猫は返事などしてくれないが、それでも一人で考えるのに疲れていた秋良は、ミルクを相手に話を続ける。
「先月は指輪を貰ったんだよ。だからね、僕も記念になるものをあげたいんだけど……、いいものが思いつかないんだよ」
 夫婦として形あるもの。確かな繋がりとなる指輪は、学校以外ではずっとつけるようにしている。
 最初は指輪に慣れなかったが、今では秋良の指に馴染んでいる。ずっとここに在ったかのように。
 だから自分も洋也に何か形として残るものをプレゼントしたい。そう考えているのだが、「これだ!」というぴったりの物を思いつかない。
 そして一ヶ月はあっという間にやってきているのだ。洋也の誕生日はすぐそこに来ている。
「なんだと喜ぶかなー」
「一緒にお風呂」
「えっ!?」
 もちろんミルクが提案してくれたわけではない。だが、タイミングよすぎる答えに、秋良は驚いて振り返った。
「…………洋也」
「悩まなくていいよ。一緒にお風呂に入ってくれれば」
「え……ええーと」
 困った顔の秋良に、洋也はニコニコ顔で近づいて、ロッキングチェアーに座る秋良を背中から抱きしめた。
「一年に一度くらい、いいんじゃない?」
 断れない口実をくっつけられて、秋良は渋面を作る。
「どうして一緒に入りたいんだよ。二人だと狭いじゃないか」
「でも、入れないほどじゃない」
「ただ身体を洗うだけなのに、つまんないだろ?」
「それは入ってみないとわからないよ」
 何とか逃れようとする秋良を、洋也はあっさりと退路を断つ。
 反対に「どうして一緒だと嫌なの?」と聞かれ、「恥ずかしいから」と決まりきった答えを言うが、「男同士なのに、恥ずかしくないよ」とこれもまた当たり前のことを言われる。
 友人同士で「男同士だから」と言われれば納得できるが、自分と洋也の間がはたして単純に「男同士だから」で済むのかと、秋良は首を傾げる。
「楽しみにしているよ」
 色々反論を試みようとするが、言葉を捜しているうちに、洋也はさっさと会話を切り上げてしまう。
「あ! ちょっと! …………もう」
 唇を尖らせて、秋良はミルクに不満を聞いてもらおうとする……が、ミルクはママにご飯をもらえると思ってか、とことことついていってしまう。
「ミルクの裏切りものー!」
 秋良の叫び声は、虚しくサンルームに響くだけだった。


「……で、一緒に入って、何が楽しいの?」
 洋也の誕生日の夜。湯船に二人向かい合わせに座って、秋良は不思議そうに洋也に尋ねた。
 お湯は入浴剤を溶かした乳白色。それでなければ絶対嫌だと秋良が最後の抵抗をしたので、仕方なくそうなってしまった。
 狭いだけだという顔の秋良に、洋也は苦笑して手を伸ばした。
「こうして座りたいんだよ」
 腕を掴まれて、引き寄せられた。
 背中から洋也に抱きしめられる体勢に、秋良は顔を赤らめる。
「これだと、さっきよりは広いだろう?」
「こういうのがしたかったとか?」
 くすっと笑う洋也の抱きしめる手に、自分の手を重ねる。濁り湯で見えないが、指輪を確かめるように手を繋ぐ。
「別にお風呂でしなくってもいいのに」
 秋良はそれでも少し不満そうに、ポツリと呟いた。
「こんなの、部屋でもできるじゃないか」
「肌と肌で触れ合いたいんだよ。そういう行為の時にではなくて触れ合うのは、お風呂が一番だよね?」
「肌と肌……」
 抱きしめる腕の力が強くなる。鼓動さえ直接伝わる距離とお湯ではない人肌の温もりに包まれて、秋良は目を閉じた。
「気持ちいいだろう?」
 優しい問いかけに、秋良は頷いた。
 耳の後ろにキスされる。くすぐったいような、気持ちいいような感覚に、肌が粟立ち、秋良は首を竦めた。
「こっちを向いて」
 顎を持たれて、横を向けられる。そこに洋也の唇があった。
 優しいキス。触れ合うだけのキスは、何度も啄ばむうちに、次第に深くなっていく。
「このまま洗ってあげるよ」
 洋也は囁くように告げて、浴槽の栓を抜いた。お湯が抜けていく。
 秋良の目をキスで閉じさせて、洋也は少なくなったお湯の中へ、液体のソープを垂らした。
 片手で秋良を抱きしめ、もう片手でソープを撹拌して泡立てる。その泡をすくって、秋良の胸に手で広げるように伸ばした。
「ん……」
 キスをしながら、秋良は洋也の手を押し戻そうとするが、するりとその手も泡で滑っていく。
 胸から肩へ、腕から背中へ、腰から足へと、洋也は秋良の唇を奪ったまま、全身を洗っていく。
 すっかり泡に包まれた秋良へ、最後の仕上げと、硬くなり始めた秋良自身を手で丁寧に洗う。
「んんっ……」
 秋良は洋也の胸を押し返そうとするが、泡で手が滑ってしまう。
「僕も洗って」
 秋良の熱を高めながら、洋也は甘く囁く。
「僕の誕生日だから、秋良に洗って欲しいんだ」
「……でも…」
 そう告げられる間も、洋也の手は休むことなく、秋良の中心を優しく愛撫し続けている。
「ほら、これで……」
 洋也は秋良にボディパフを握らせた。
 秋良は瞳を涙で濡らせて、洋也へと身体を向けた。
 向かい合う形で、秋良は洋也の胸を洗う。
「やめ……洋也」
 なのに、洋也は再び秋良へと愛撫の手を伸ばす。
 洋也の身体を愛撫しているような錯覚と、自分の熱を擦られる快感に、秋良は洋也の肩へとしがみつく。
「もっと……秋良」
「だめ……やめろ…よ」
 浴槽は泡で溢れそうになっている。
 その滑らかさを借りて、洋也の愛撫の手は止まらない。
 見えていないことだけが秋良の、せめてもの救いになっている。
「や……も、もう……洋也……」
 秋良の手が止まる。
 洋也の胸に抱きつくように飛び込んだ。と、洋也は手の中に、熱い迸りを受けた。
「……洋也の……バカ」
 恥ずかしさのあまり、秋良は顔を上げようとしない。
「大丈夫、泡で見えないよ」
 それでも秋良は首を振って、洋也の肩を叩いた。
「愛してるよ、……秋良」
 耳へ、頬へとキスを繰り返して、洋也は愛しい人を抱きしめた。


「もう絶対一緒には入らない」
 恥ずかしいことをされたと感じている秋良は、のぼせているのではない赤い顔で、洋也を睨みつけた。
「慣れれば恥ずかしいことじゃないよ」
「慣れたくない!」
 バスタオルで包み込もうとする洋也の手を振り切って、秋良はバスローブを羽織って出て行ってしまう。
 最初からやりすぎただろうか、いや、自分がしたいことの半分もしていないのにと、洋也は肩を竦めて、自分も簡単に身体を拭いて、バスローブを着た。
 キッチンやリビング、サンルームにも秋良の姿はなく、洋也はグラスとビールを手に寝室へと向かった。
「秋良? のど渇いてない? ……秋良?」
 ベッドの傍に立って、秋良は洋也に手招きをした。
 とりあえず、ご機嫌は治ったのだろうとほっとして、洋也は歩み寄る。
 秋良は洋也の持っているグラスとビールをサイドテーブルに置いて、白い封筒を手に持った。その封筒には濃いブルーのリボンがかけられている。
「誕生日おめでとう、洋也。指輪のお返しがこれで……申し訳ないんだけど、これしか思いつかなかったんだ」
「誕生日のプレゼントなら、もう貰ったのに。でも、ありがとう。開けてもいい?」
「まだ完成品じゃないんだけどね」
 完成品じゃないという秋良の言葉に首を傾げながら、洋也はリボンを解き、封筒を開けた。
 中には薄い紙が一枚、丁寧に折りたたまれて入っていた。
 洋也ははじめて見るその用紙を広げて、目を見張った。
「これ……!」

 婚姻届。

 そう書かれた用紙には、夫の欄のところに秋良の署名がしてあり、捺印もされていた。
 住所、本籍、両親の名前などが、秋良らしい丁寧な楷書で記入がされている。
 そして右半面の証人の欄には、秋良の父親と、洋也の父親の署名と捺印。

「まだ未完成だろ? 洋也が署名して捺印してくれないと、完成しない。……書いてくれる?」
 洋也は涙が溢れそうになって、それを隠すために秋良を抱きしめた。
 自分の想いだけで秋良を繋ぎ止めている。
 秋良の愛情を疑うわけではないけれど、それでも自分の想いの強さと深さが怖かった。
 いつかこの業が秋良を潰してしまう。その前に秋良を離さなくてはならない。
 そんなことを考える時もあった。
 指輪だって、自己満足だった。洋也だけの想いで、秋良を縛るために贈った。
 秋良は自分の想いに流されているだけだ。それに気づかれないように、ずっとずっと強い流れで押し流し続けるしかないと思っていた。
 けれど……。
「洋也? やっぱり、これじゃ気に入らない?」
 心配そうな秋良に、洋也は首を振った。
「嬉しいよ……秋良。ありがとう」
 秋良が自分の両親や、洋也の両親にこの証人の署名を頼むことは、どれだけ恥ずかしかっただろうか。それを思うと、申し訳ないような気がする。
「この前実家に帰ったのは、このためだったんだね」
「うん……。父と兄に証人を頼もうと思ったら、母さんが洋也のお母さんに電話しちゃって。こういうのは双方の親が署名しないとって、張り切っちゃってさ。どこに出すものでもないのに……」
 その場面が容易に想像できて、洋也は少し笑ってしまう。
「秋良、愛してる」
「だったら、洋也も署名して。そうしないと、これ、完成品じゃないんだよ」
「そうだね」
 洋也は秋良を抱きしめる手を外して、それでも身体を離すことができずに、秋良に口接けた。
 秋良がバスローブのポケットに入れていたペンを借りて、洋也は妻の欄を埋めていく。
 手が震えそうになり、それを隠すのに苦労した。
「どうして僕が妻なの?」
「それ、母さんにも言われたんだよなぁ。世帯主はどう考えても洋也さんでしょうって。そりゃ、収入は洋也の方が多いけど、洋也はミルクのママだから、妻の方。文句ある?」
 つんと澄ました秋良に、洋也は「ありません」と笑って印鑑を押した。
「区役所に出せたらいいのにね」
「出したら手元に残らないじゃない」
 提出したいという秋良の気持ちが嬉しかった。それだけで、洋也は幸福になれる。だから、これは手元に残しておきたい。
 二人の名前が書かれた婚姻届。
 その薄い紙が世界で一番重く感じられる。
「幸せにしてあげる」
 夫らしく、秋良が宣言する。
「もう、じゅうぶん幸せだよ」
「駄目、もっともっと、洋也が二度と不安にならないくらいにね」
「ありがとう」
 秋良を抱きしめて、洋也は人生最良の日の幸せを噛みしめた。