DEAD LINE



 洋也は秋良の頭の下から、自分の腕をそっと抜いた。秋良が眠っているのを確かめて、ベッドを抜け出し、ドアの音をたてずに部屋を出る。
 朝の4時。2月の凍てつくこの時間。まだ外は帳をひいたままだ。
 秋良は…………、もう昨日のことになるが、病院から退院してきた。
 精神的なショックによる、自己の閉鎖。秋良がその永い眠りから目覚めるのに、2週間を要した。
 自分のせいだと、洋也は思った。いくら自分を責めても、秋良は目覚めない。その辛い日々の中、復讐心だけは消えなかった。消えないどころか、むしろ大きくなっていった。
 あれだけ、秋良には一切の手出しはしないと、誓わせたのに……。
 コンピューターのウィルスを取り除くことを強要され、断れば、家族にまで危害を加えると言われた。挙げ句の果てには、YESと言わなければ、秋良を拉致すると脅され、行かざるをえなかった。
 洋也が出した条件はただ一つ。秋良には一切の手出しはしないこと。
 約束は守られなかった。
 秋良の前にその姿を晒し、彼を不安に陥れた。鍵とパスワードを渡して取りにいかせたのに、痕跡を残した馬鹿な遣い。
 約束は守られなかった。だから、自分も守る必要はない。
 洋也は、コンピューターを立ち上がらせ、アクセスを開始する。
 現地時間は昼の3時。会社の終業時間までもう少し・・・
 1週間も自分にコンピューターを託したあいつらが悪い。ティモシーにさえ仕掛けられたウィルスだ。自分にできない訳がないと、なぜそう思わないのだろう。洋也は薄く、口元だけで笑う。
 自分なら気づかせない。いくら監視がついていようと、それを仕掛けてくるのは簡単だった。
 画面を見つめる洋也の目が、光る。
 そうだ、秋良に何もなければ、作動などさせなかった。このスイッチを押すこともなかっただろう。
 だが、奴らは失敗した。
 自ら、洋也を怒らせた。
 失敗など許せない人間。自分であろうと……、ましてそれが他人なら尚更。それが以前の三池洋也という人間だ。
 そう、失敗は許さない。そんな自分だから完璧な罠を残してこれた。
 あんなウィルスを自社で取り除けずに、人に頼るから悪いのだ。秋良を苦しめた罪は大きい。許さない。
 キーボードをたたく、リズミカルな音が響く。アクセスを開始し、相手の会社のコンピューターとつながる。
 洋也の顔に自信に満ちた笑みが浮かんだ。秋良を知る前、洋也はそうして笑ってきた。他人を寄せ付けようとしない笑顔。笑っているのに冷たいと言われた。冷たくていいと思っていた。
 何もかもを自分で解決してきた。それが当然だと思っていた。恋愛など、本気でしたことがなかった。
 何故だろう。秋良のことを生意気な弟から聞かされた時は、教師がそんなことで勤まるのかと、思っていたくらいだった。愚図な先生もいるものだとその程度の感想しか持てなかった。
 写真を見せてられても、やはり頼りなさそうだと思っていた。
 それが、行きつけのパブで、酔いにまかせて、愚痴を言い続けるその人の口から、弟の名前が出て、興味を引かれて顔を見て…………、目が離せなくなった。
 サラッとした髪、歳よりずいぶん若く見える顔。大きな目が印象的だった。
 その彼の性格を知って、益々惹かれた。
 秋良は自分を隠そうとしない。自分のすべてを見せて接してくれる。それが恐いくらいだった。洋也は自分を見せない。見せては負けだという意識もあった。家族の中に居ても自分を失わないよう、自分だけの世界を保とうとする。
 まったく違う性格。本来なら、相容れないものの筈なのに、手に入れたくて仕方なくなってしまった。
 長くは続かないと思っていた。今までの自分の性格からすれば続くとは思えなかった。
 いつだって、人が自分の傍にいることが、煩わしくなってしまうのだから。 
 まして相手は自分と同じ男だ。けれど、秋良といる時には性別を忘れてしまう。そんなこと、どうでも良くなっていく。秋良というただ一人の人が欲しくなった。
 そして秋良は洋也を癒してくれた。秋良の前では飾る必要はなく、本来の自分でいられる。何も構えなくていい自分を見つけて、ほっとすることができて……。
 不思議だった。洋也が笑うと、秋良は恥ずかしそうに笑みを返してくる。悩んでいる時でさえ、笑うことを忘れない。
 一度、秋良からもう会わないと言われ、自分がどれだけ大切なものを失ったか、愕然とした。
 会いたい…………。そう思うことが洋也の気持ちの全てだった。
 あれ程、人を欲したことは初めてだった。傍にいて欲しい。他のものを捨ててもいいとさえ思った。自分の欲で秋良を欲しいと思いながら、自分の欲で洋也から秋良を引き離した弟を許せなかった。我慢してきたのに……、何もかもを我慢してきた。初めて、エゴで欲しいと思ったものさえ、奪うというのか……。
 会いたい…………。軟禁状態の洋也を支えたのは、秋良が待っていてくれるということだけだった。帰れば秋良がいる。それだけを信じて、それだけを心に念じてきた……。
 アクセスが終了し、相手側のコンピューターがオンラインでつながる。
 見ているがいい、自分は絶対許さない。
 自分のことを知らずに、あんなことを堂々とさせた、あいつらが愚かなのだ。
 それがそもそもの失敗だ。
 ティモシーが仕掛けたウィルスは可愛いものだった。ちょっと複雑な時限装置が入っていて、そのために手間取ってしまったが、そんなことは本来、社外秘なのだから、外部の者を脅しただけで言いなりにできたと思うのが、浅はかだ。
 だから、可愛いウィルスよりも、大きなものを仕掛けられても気づかない。
 アメリカの大きな企業が一つ潰れようと、洋也の知ったことではない。人が大切にしているものを踏み躙ることの恐ろしさを思い知るがいい。
 秋良は常に、洋也にとって、大切な存在だった。全てでもって守ろうとしたもの。だから本来なら屈しない屈辱に耐えて、渡米したというのに……。
 病室で秋良を見た時のショック……。
 洋也を写さない目、名前を呼ばない口、抱きかえさない腕。
 心を失くして、存在するというだけの、愛しい人。居てくれさえすればいい……。そう思おうともした。けれど、あのはにかむような笑顔が見れない。
「ひろや……」
 自分を呼ぶ声が聞こえない。今にもそう呼んでくれそうなのに……。
「あきら……」
 何度その名前を呼んだのだろう?
 返事は返ってこなかった。
 挫けそうになる心を血を吐く思いでたてなおして、もう一度、もう一度だけ、自分の名前を呼んでほしくて、耐えぬいた。
 自分の声にだけ反応を示すようになった秋良を見て、罪の大きさを思い知らされた。秋良を一生背負って生きていく。そう決心したとき、秋良は目覚めた。
 洋也がいないときの恐慌状態を忘れてしまっている秋良を見て、罪の意識は更に深くなった。結局、自分の責任なのだ。洋也は自分を責めた。詫びた。
 なのに、秋良は謝るなと言う。体を重ね合って、痛みにさえ耐えながら、謝るな、愛を囁いてほしいと言う。
 もう離れられない。秋良を離すことなどできない。もう秋良の存在に変わるものなど、ない……。
 夜が白み始める。6時を迎えようとしている。ニューヨークはもうすぐ5時。コンピューターがダウンする時間。痕跡を残さず、内容を全て消去する。明日の朝まで気づかれない。そうすれば、逆探知も不可能だ。
 洋也は操作を続け、相手方のホストコンピューターが、ダウンをしたと同時に、作動するようプログラムを組んだ。
 パスワードを打ち込んだ。
 ふと、洋也を呼ぶ声が聞こえる。秋良が起きてしまったようだ……。

 秋良は、明け方の冷込みに、手近にあるはずの温もりを手繰り寄せようと、手を伸ばした。
 けれど、目的のものを得られず、手は冷たいシーツに触れただけ。
「洋也?」
 シーツは冷たく、その人がかなり前からそこにいないことを教えている。
 薄く目を開けて、いつも温もりをくれた人の名を呼んだ。答えはない。
「洋也」
 もう一度呼ぶ。呼び声が、闇に吸い込まれた。いやな記憶が呼び起こされそうになる。
「洋也」
 秋良はガウンを羽織り、寝室を出た。
「洋也」
 リビングにもいない。
「洋也」
 心細そうな声ががらんとした空間に虚しく消える。
「洋也!」
 不安になって、大きな声でその人の名を叫んだ。
 カチャリと、ドアが開いて、洋也がいた。
「ひろや……」
 秋良はその腕の中に飛び込んだ。
 洋也はその身体を受けとめた。
 洋也の腕の中で、秋良の身体が微かに震えている。あの時の不安が甦っているのだろうか?
「秋良、ごめん」
 そっと声をかける。腕の中の人は、首を振っている。愛しくて、可愛くて、ゆっくりと髪を撫でる。小刻みに震えていた身体の力が抜けていくのがわかる。
「秋良、おいで」
 洋也は秋良の手を引いて、コンピュータールームへ連れてきた。
「仕事?」
 秋良が悲しそうな目で洋也を見た。
「違うよ。でも、ゲームかな? 秋良、このボタンを押してごらん」
「嫌だよ。変なことになったら、困るもの」
 秋良は身体を退いた。洋也がクスッと笑って椅子に座った。
「大丈夫。ボタンを押すだけだから」
「押したら、どうなる?」
 ふっと、洋也が笑った。今まで秋良が見たことがない、冷たい笑いに、秋良は洋也の肩に顔を埋めた。
「秋良?」
 前田教授に聞かされた、三池洋也という人間。違うと思っていた。自分の知っている三池洋也とは違う人の話だと思っていた。
 けれど、今見せられた洋也は、氷の心臓と呼ばれた人に相応しい笑顔だった。
「秋良、どうしたの?」
 優しい声に、恐る恐る顔をあげると、そこにはいつも自分を見つめてくれる、柔らかい茶色の瞳があった。
「洋也、なんて書いてあるの?」
 画面に映った英字を指差して、秋良が尋ねた。
「ただの記号だよ。さあ、このボタンを押して。ほら、もう6時になる」
 洋也は秋良の手を取って、手を重ねるようにして、そのキーを押した。
 軽い金属音が、断続的に続いた。秋良は不安になって、洋也を見上げた。
「大丈夫。成功だよ」
 洋也は秋良を横に立たせて、キーボードを操作する。画面を見つめる真剣な目に、邪魔をしてはまずいと思って、秋良は部屋を出ようとした。
「ここにいて、秋良」
「うん」
 画面が次々に映り変わっていく。金属音が途切れて、部屋にはキーボードを操作するリズミカルな音だけが聞こえる。
 もう一度だけ、ピーッと音がして、画面から文字が消えた。
 洋也はコンピューターのパワーを落とした。
「おわり」
 洋也は横に立つ秋良を抱き締めた。
 秋良の心臓の音が聞こえる。トクトクと打つ心臓の音に、秋良の存在を感じる。
「愛している。秋良」
「洋也……」
 秋良の声が直接耳に響く。優しい声。昔、望んで得られなかったものに似ている気がする。あれは……、何だったのだろう。一人で耐えてきた褒美がこの秋良の存在なら、耐えてきて良かったと思う。
「もう一眠りしよう」
 目覚めてからの秋良は、必要以上に洋也の傍にいようとする。そうしていなければ、不安であるというように。
 心に残った深い傷を、秋良に気づかせてはならない。思い出せてはいけない。
 優しく抱きしめ、こめかみにキスを落とす。
 胸に抱いた身体は、まだ恐ろしいほどに軽い。
「ずっと傍にいるから」
 この約束を二度とは破らない……。あらたに誓って……。