冷たい手



日記より抜粋。
秋良、
この4月に新しい助手が入ってきた。まだ若い女性で、何か高慢な感じのする女だった。僕は意識すらしていなかったけれど、何かと話しかけてくるので煩わしさを感じていた。
自意識に溢れた女で、名前すらろくに覚えていなかったけれど、その話し方とかが鼻について、いい加減疲れていたんだ。家に帰るのが、今までも楽しみだったけれど、秋良を抱きしめることで、精神の安定を測っていたような気がする。
そんな時、一枚の紙切れを渡された。羅列した数字が携帯の番号を表していることは明白で、けれど僕はすぐに捨ててしまったんだ。
あの女が何故秋良の電話番号を知っていたのか、不思議で仕方なかったけれど、昨日、問い詰めたら、あっさり白状した。
僕の携帯の発信記録を調べたのだと。滅多にしないことだけれど、研究室の机に置いて部屋を出た隙に調べられてしまったらしい。僕の携帯から頻繁に掛けられる番号を不審に思い、誰だか調べようと思ったんだろう。
秋良が電話に出たことで、あいつはさも自分が僕と関係があるように言っていたらしいね。毎日、僕が帰る頃を狙ってかけていたことも聞いた。
『今洋也を帰してあげたわ』と言ったんだって?
秋良がそれを信じていないことは、秋良の言葉でわかった。けれど、言って欲しかった。何を怖がっているの? 僕はどこへも行かない。何を壊したとしても、秋良との関係や生活だけは壊さない。たとえ、他の何を犠牲にしたとしても。
昨日、帰ったフリをして、あの女が電話をしているところを押さえた。どうやら電話には、勝也が出ていたらしいね。僕と勝也の声の区別もつかず、あんまり僕が帰るのが早かったので慌てたらしい。そしてすぐに僕が現われたものだから、少しパニックを起こしていた。
二度と電話をかけないことを約束してもらった。悪いんだけど、秋良の電話をパソコンを通させて欲しいんだ。一応、あの女の携帯からはかからないように設定したいから。
僕の携帯も解約して、新しいものを買ってきた。秋良の分もね。持つのは嫌だといっていたけれど、すぐに慣れるよ。これからは何かあったときは、すぐにかけてきて。
秋良、信じて。何があっても、僕は秋良のためにいる。愛しているんだ。
愛してる。





 秋良はその後のことは何も訊かなかった。もともと、洋也を信じていなかったわけではなく、自分の知らない洋也の学校生活に対して、不安を感じていただけに過ぎない。
 つまり……、洋也は女性に人気があって、今回のことは相手の女性が特別変わった行動をとったから発覚したからで、普段からきっと、同じような申し込みやアプローチがあるのではないだろうかと……。
 秋良はもちろん、洋也を信じている。けれど、信じているからこそ、不安は消せなかった。
 きっと、洋也がこの後にとった報復を知れば、そんな不安など霧散したことだろう。けれど洋也にしてみれば、自分のしたことは秋良にだけは知られたくなかった。
 そうでないと、神経の細やかな秋良は、自分の所為で相手の女性が……、と落ち込み、洋也にそんなことをさせてしまったと自分の所為にするのは明白だったから。
 そして何より洋也は、自分の内面の非情さを、秋良に知られ、嫌われるのが、……怖かった。

 その女は研究室から出て来ると、廊下を進み、人通りの少ない場所まで来ると携帯を取り出し、どこかへ電話を掛け始めた。手元が身体の陰になっているので見えないが、どこへ掛けているのかは見当がついた。
 わずかな沈黙のあと、女は呟いた。
「え?」
 そして慌てて電話を切る。どうやら、洋也の狙い通り、勝也が電話に出たようだ。とても認められることではないけれど、周りの人はたいてい、洋也と勝也の電話の声を間違える。
「どこへかけていた」
 予告も無しに背後から声をかけてやる。女は驚愕に飛びあがり、持っていた携帯電話を落とした。
 その電話を拾い、自局番号の表示を選択する。予想通りの番号が出て来る。そしてリダイヤルを。
「よくもやってくれたな」
「三池君、あの……、あのね」
 鋭い視線に女は息を飲む。
「三日以内に消えろ。その後の保証はしないからな」
 それだけを言うと、洋也は背を向けた。
「な、何よ。私は辞めたりしないわよ。あなたが辞めろって言うなら、反対に言いふらしてやるわ。あなたが、ほ……」
 振り向いた洋也の表情に女は言葉をなくした。
「三日が限界だと思ったけれど、駄目だな。二度とその面を見せるな」
 視線で人が殺せるなら、間違いなく殺されていただろうと、女は思った。遠ざかる背中に、自分のしたことの意味を知らされる。
 それほど酷い事をしているとは思わなかった。ただの、恋の駆け引きではなかったのか。どれだけこなをかけても振り向いてくれない人が、どんな相手と一緒にいるのか、知りたかっただけだ。
 けれど、辞めさせられるほどのこととは思えないし、彼にそんな権限があるとも思えなかった。それに自分にはコネがある。いくら彼でも対抗できないほどの。

 次の日、女は大学に行った。
 教室に行くと、既に三池は来ていた。
「おはようございます」
 精一杯の虚勢を張って、挨拶をしてやる。真っ直ぐに女性を見てみろという意地もあった。小さい頃から容姿で誉められなかったことはないと言う誇りもあった。この研究室に来た時だって、男性陣は色めき立ち、誰もがあからさまな目を向けてきたのだ。
 けれど、洋也は完全にそれを無視した。
 ただの無視なら、それも自分のことを意識しているからだと思えるのだが、彼はまるでそこに人すら存在しないような態度だった。挨拶さえ聞こえていないような……。
「三池君、おはよう」
 だから彼女は名指しで挨拶をした。そしてそれが無駄な努力であると知る。
 部屋の中が凍りついたようになった。助け舟が出されることを望んだが、誰の手も差し出されはしなかった。
 一日中、そんな空気の中を過ごした。
 そして腹立ちまぎれに、研究室の教授に訴えた。あまりに大人気ないのではないかと。
「君は、彼に個人的な何かをしたのだろう? そうとしか思えないのだがね。君は助手で入ったのだから、配置換えを希望してはどうかね? 個人的な相談を教授に解決させるような助手を欲しがる教室があるとは思えないがね。まあ、父上のコネを使うなら別だろうが」
「どうして私の言い分を信じずに、彼の話も聞かずに、決め付けるんですか」
 教授は落ち着いた声で女の抗議を一蹴した。
「人と人との関係は、信頼の上に成り立っている。彼があんな風に人と接するのははじめて見たな。よほど君は人としてあるまじき行為をしたと、それだけでわかるんだ」
 女は、黙って立ちあがった。



秋良、静かに眠る君の唇にそっと口接けよう。
秋良、愛しているんだ。
君をなくすあの恐怖だけは、二度と味わいたくない。君を守るためなら、何でもする。
それがたとえ、法に問われる方法だとしても。
秋良……。
閉じ込めて、どこへも出したくない。何も見ず、何も訊かず、僕だけを見つめる生活をして欲しい。
けれど、それは駄目なんだと知ってる。あんな秋良、見たくない。
わかっているのに、僕は尚も思ってしまう。
秋良、どうすれば君を……、僕だけのものに出来るんだろう。