誓い




 秋良が学校から帰ると、いつも出迎えてくれる可愛い姿がなかった。代わりに、ミルクを呼ぶ声がリビングの奥から聞こえてくる。
「ただいまー」
 少し大きな声で呼びかけてみる。
「おかえり」
 洋也がひょいと顔を出す。珍しく玄関まで出てこない。どころか、手招きされる。
「どうしたの?」
 秋良は不思議そうに、靴を脱いで足を進める。
「ミルク、下りてきなさい」
 洋也はリビングボードの上に向かって呼びかけている。
「ミルクがどうしたの?」
 秋良は洋也の視線につられて、天井間際まで迫ったリビングボードの上を見た。
「下りてこないんだよ。察知されてしまったらしい」
 洋也が指差した方向には、ミルクの外出用のキャリーがあった。
「どこか行くの?」
「予防注射。秋良、ミルクを呼んでくれないかな」
「いいけど……」
 秋良は少し顔を曇らせて、姿の見えないミルクに呼びかけた。
「ミルクー。おいでー」
 奥の方から小さな鳴き声がして、ミルクが顔だけを出した。
「おいで。ほら」
 秋良が両手を差し出すと、ミルクはもう一度鳴いて、すとんとその手の中へ下りてきた。
「こっち」
 洋也がキャリーの入り口を開けると、ミルクは秋良の服に爪を引っ掛けて、文字通りしがみついた。
「可哀想だよ。ミルクはずっと家の中から出ないんだし、予防注射はしなくても……」
 しっぽを膨らませて、自分にしがみつくミルクを守るように抱きしめる。その姿が可哀想で、洋也に頼み込むような視線を向ける。
「秋良、今受け持っているのは、6年生だよね」
「……うん」
 突然話題を変えられて、秋良は首をかしげる。
「6年生は夏の前に日本脳炎の予防注射をして、秋にはジフテリアと破傷風の二種混合をするんじゃなかったかな?」
「…………よく、知ってるね」
 全然話題が逸れていなかったのと、洋也が秋良の受け持っている学年の予防接種のことまで知っていたのに、驚いてしまう。
 洋也はもちろん、秋良の通年の予定は、たぶん本人よりも把握している。更に、秋良の代わりに授業をしろと言われれば、ほぼ完璧にできるくらい、その指導要領やカリキュラムも知っている。
 もちろん、秋良のように、優しく、わかりやすい授業は不可能である。洋也が教えれば、型どおりの、生徒の理解度を無視した流れの授業となるだろうが。
「生徒が注射を嫌がって泣けば、受けなくていいよって言うわけ?」
「……それは言わないけど」
「破傷風なんて、ずっと家にいるから、受けなくてもいいんだって言われれば?」
「………………わかったよ」
 悔しいけれど、洋也の言うように、生徒が嫌がれば説得するだろう。
「でも……、今は任意接種なんだけどな……」
 親が受けさせないと言えば、学校側からは強制できない。副作用が全くないとは言えないからだ。
「何か言った?」
「なーんにも」
 キャリーに入れることは諦めたのか、洋也は秋良ごとミルクを連れていくことに決めたようだ。
 しがみつくミルクを撫でながら、秋良はアウディに乗りこんだ。
 
 みささぎ動物病院は診察終了間際の時間で、他に患者となる動物はいなかった。
「安藤ミルクちゃん、どうぞー」
 ミルクの名前を呼ばれ、二人そろって診察室に入る。
 人間の病院と大きく違うところは、部屋の中央に大きな診察台があるところだろう。その上に、秋良はミルクを乗せようと頑張るが、ミルクは秋良の服に強く爪をたてて、離れようとしない。
「あらら、わかっているんだねー。仕方ないなー。そのまま打っちゃいましょうかー」
 優しい声をしているが、先生は洋也と変わらぬ長身で、だが体重は洋也の倍はあるかも?と思わせる、いわば巨体だ。
 大きな犬などを連れてくれば頼りになるだろうが、ミルクのような小さな猫だと、つぶされないか心配になる。
「えっ、ええーとー」
 自分の手の中で注射を打たれるのはいかにも可哀想なので、秋良は服が裂けてもいいという勢いで、ミルクを洋也に手渡した。
「…………秋良」
 少し呆れ気味に、洋也はミルクを受け取った。
 秋良に裏切られ、ミルクは最後の望みとばかりに洋也にしがみついた。
「打って下さい。このまま」
 洋也はミルクの背中を医者に向けるようにして、打ちやすい姿勢をとってやる。
「すぐに終わるんだけどねー」
 苦笑しながら、大きな手に収まっているため小さく見える注射を、さっさと済ませようとばかりに、ミルクの背中から少しお尻よりの場所に打った。
「うっ」
 悲鳴を上げたのはミルクではなくて、秋良だった。
 
「もう痛くないかなぁ」
 秋良は帰りの車で、何度もミルクを確かめるように持ち上げる。
 ミルクは注射さえ済めばあっけらかんとしたもので、そんな秋良にちゃっかり甘えている。頬にすりより、愛らしい鳴き声で、しきりに秋良の顔を舐めている。
 その様子に肩を竦め、洋也は家へとハンドルを操った。
 
 
「ミルク、籠」
 寝室の前で洋也が言うと、秋良が抗議の声を上げる。その手の中には、今日は床にも下ろさない待遇のミルクがいる。
「今夜は可哀想だよ。一緒に寝かせてやろうよ。…………だって、……昨日も……」
 語尾はうやむやに言葉を口の中に隠したが、昨日もミルクを籠に追いやったのだしと、秋良はミルクを守るように、というよりはミルクを盾にして、洋也から逃れようとしているように見えた。
 並んでベッドに入りながら、洋也はぼそりと呟いた。
「一度聞きたいものだと思っていたんだけど」
「何?」
 二人の間にミルクを寝かせ、秋良は声だけを洋也に向ける。目はミルクを見つめている。
「ミルクと僕と、どっちが大事?」
 ミルクを撫でていた手を止め、秋良は不思議そうに洋也を見た。
「決まってるよ」
 決まっていると言われ、少し期待した時……、
「ミルク」
 洋也の全身から力が抜けるような答えが返ってきた。
「…………だろうね」
 聞かなければ良かったと思いながら、洋也は手を伸ばして、秋良の髪に触れた。
「だって、ミルクは洋也と僕がいなければ生きていけないよ?」
 秋良の言い分に、洋也は口元に笑みを浮かべながら、ミルクこそ、野生に戻れば一人ででも生きて行けるのにと思ったが、それは言わずに飲み込んだ。
「僕も秋良がいないと、生きていけないけれどな」
 洋也が冗談紛れに本音を混ぜると、秋良は不満そうに洋也をじっと見つめてくる。
「だからー、洋也がいなければ、困るんだってば」
「ミルクは秋良がいれば生きていけるよ」
 少々嫌味が過ぎるだろうかと思いながら、拗ねたように呟いてしまった。
「ダメだよ。洋也と僕がいなければダメなんだよ。どうしてわかんないのかな」
 どうしてか、秋良の方が怒ったように、ぷいと横を向く。
「二人がいないとダメなの?」
 秋良の言う意味を量りかねて、洋也は確かめるように尋ねた。
「だから……、そう言ってるだろ。僕だけじゃ、……洋也が一緒じゃなきゃ…………生きていけない……」
 どうしてわかんないのかなと呟いて、秋良は背中を向ける。
「……秋良、ごめんね」
 二人の空気を察してか、ミルクは背中を向ける秋良の前に移動した。しきりに鳴いて、秋良を慰めているように見えた。
 背中から秋良を抱きしめる。
「洋也なんか嫌い」
 声が潤んで聞こえて、洋也は胸がしめつけられる。
「僕は秋良が大好きだよ」
 ミルクを抱きしめる秋良を包み込む。
「愛してる……」
 囁くと、秋良の身体の強張りが解けていく。
「秋良だけ……」
 溜め息のように秋良から小さな答えが返ってきた。
「ミルクも……」
 促され、洋也は自分の「家族」を守ると誓ったのだった。