このまま病院へ戻るから。と鬼塚とは駅で別れた。
 見舞いに行くと言ったのだけれど、絶対に来ないでくれと断られた。
 諦めた気持ちを引きずったまま、アメリカには行きたくないといわれて。
 その代わり、手術が無事に終わって元気になったら、会いに来るからと笑顔で告げられた。
 だから電車のドアの向こうで、小さく手を振る友人を見送った。
 あの暗い教室。
 一人取り残された自分。
 あの時に言えなかった言葉を、走り始めた電車を追いかけながら言った。

 ……またな。
 …………また会おうな。

 友人は泣き出しそうな顔で、うんと頷いてくれた。
 電車が見えなくなってから、ホームの端っこで、こぼれた涙を拭いた。



 とぼとぼと力なく辿り着いた家の前で、秋良は大きく深呼吸をした。
 洋也に心配をかけたくない。
 鬼塚のことを説明するにしても、落ち着いて、冷静に話をしたかった。
「よしっ。大丈夫」
 自分に言い聞かせ、玄関を開く。
「ただいま」
「遅いぞ、秋良」
 玄関にはいつもの通りの白い子猫がいた。出迎えた声はもちろんミルクのものではない。
「どうして鳥羽がいるのさ」
 ミルクが秋良に向かって抱けと鳴いているのに、鳥羽はそれを阻止するようにホールドして、自分の家であるかのような態度で座っていた。
「わざわざ遊びに来てやった親友に対して、そんなことを言うのかぁ?」
 鳥羽はミルクを降ろして、伸ばした手で秋良の口の横を軽く摘む。
「痛いって、鳥羽」
 ほとんど痛みは感じなかったが、抗議の声を上げておく。
「嘘つけ、この野郎」
「おかえり、秋良」
 鳥羽の声にかぶさるように、洋也がやってきた。
 二人の様子を見て苦笑いをしている。
「お前、今、俺のことちょーっと邪魔だと思っただろ」
「ううん」
 鳥羽が冷やかすように言うので、秋良はそれを否定してやった。
「お、嬉しい事言ってくれるね」
「ちょっとじゃないから。すごく邪魔」
「お前は〜〜〜!」
 鳥羽が背中から腕を回して顎を捕らえるのに、秋良はギブアップを宣言する。
 が、そんな程度で鳥羽が許してくれるはずもない。
「洋也〜笑ってないで、助けろっよ」
「あっ、ずりぃぞ、秋良」
 鳥羽は笑いながら腕を解いた。もともと冗談だとわかりきっている。
 洋也も二人の様子を楽しげに見ている。
 秋良も怒ったふりをしながらも、いつの間にか声を出して笑っていた。

 結局、何故か鳥羽も夕食に参加した。
 昨日までのメンバーと一人が入れ替わっただけなのだが、その雰囲気はがらりと変わった。
 洋也は言葉少なで、友人同士の会話を聞いていることが主だったが、昨日までとは違い、微笑ましく見守っていられるようだ。
 結局、秋良は帰ってくるまでの憂鬱な気分はどこかへ吹き飛んで、いつになくテンションの高い鳥羽に、とうとう「もう帰れば?」とまで言う始末だ。
「ひでぇよな、秋良君は」
 洋也に泣き付くようにぼやきながらも、楽しそうに帰っていった。
 もう煩いとうんざりしていたはずなのに、鳥羽がいなくなっただけで、いつものリビングが寒々しく感じるから不思議だ。
「なんだかなぁ」
 秋良が呟くと、ふっと隣で笑う気配がして、頬に優しくキスをされる。
「あれは可愛い嫉妬だよね」
「嫉妬?」
 洋也の言う意味がわからずに首を傾げる。
「秋良の親友だって、何度も言ってたじゃないか」
「あ……あー」
 秋良は呆れたように笑い、そしてじんと胸を熱くした。
 洋也も鳥羽もわかっていたのだ、きっと。今夜、秋良が落ち込んで帰ってくることを。
 だからあんなに騒がしく迎えてくれて、物を思う暇もないようにしてくれた。
「ありがとうって言わなくちゃならないのに、追い返しちゃったよ」
「言わなくても通じてるよ」
 親友だから。
 洋也の慰めに、秋良はしんみりと頷いた。
 その唇に、洋也はそっと唇を重ねた。
「洋也に返さなきゃ」
 唇が離れると、秋良は目の前の胸にもたれた。
「何を?」
「洋也に分けてもらった勇気」
「ずっと持っててもいいのに」
 ぎゅっとしがみつくと、包み込まれるように抱きしめてくれる。
「必要な時には、また分けてもらうから、返す」
 子供のような言い訳に、洋也は微笑む。
「いつでも言って」
 うんと一つ頷いて、秋良は腕の中で目を閉じた。
「病気なんだって。アメリカで心臓移植の手術を受けるって。見舞いも見送りも、断られちゃった」
 事実だけの羅列。それでも洋也はわかっているのだろうなと確信があった。
「一緒に住もうって言われて、でも断ったんだ」
「秋良が行きたい言っても、行かせないよ」
 思わず強く否定されて、秋良は洋也を見上げた。
 洋也は穏やかな笑みで秋良を見つめていた。
「秋良の親友の位置なら、誰が立とうとかまわない。でもね、僕から引き離そうとするなら、僕は誰を傷つけても、それを許さないよ。たとえ傷つける相手が秋良だとしても」
 自分の痛みを引き受けようとしているのだ。それがわかって、嬉しさと同時に辛さも感じた。
「洋也は優しすぎるよ。僕は……酷いことをしたのに」
 どんな結論であったとしても、秋良は誰かに対して自分を責めるのだろう。その思いやりが痛々しく感じられる。
「秋良が困った時、助けてくれるだろうって思う人を思い浮かべてみて」
「…………?」
 急な問いかけに、秋良は困ってしまい、眉を寄せる。
「たくさんの人を思い浮かべるだろう?」
 最初に思ったのはもちろん洋也。そして次に鳥羽。両親と兄、姉。大学時代の友人。洋也の家族。職場の仲間。
 次々に浮かぶ人たち。
「そして秋良は、その人たちが困っていたとしたら、真っ先に駆け出していってしまいそうだね」
 自分にできることがあるのなら、もちろん助けたい。
「秋良だけが思っているってことじゃない。相手もそう思ってくれているんだろうね。それは今まで、秋良が大切に築いてきた財産だろう? 秋良が一度でも、秋良の言うような酷いことをしていたのなら、その人たちの顔は思い浮かべられなかったと思うよ」
 やっぱり洋也は甘やかすのが上手だと、秋良は更に強く抱きついた。
 洋也は秋良の望みどおり、もっと強く抱きしめ返してくれる。
「彼は一度秋良の前から姿を消した。けれどまた会いにきた。今度もきっと、何もなかったように、会いに来るよ」
 洋也が保証してくれるなら、きっと大丈夫。そんな気がした。
「ありがとう……洋也」
 今ここに洋也と一緒にいられる幸せ。
 自分を失くしていた時、洋也が諦めなかったから、この時間を過ごすことができるのだ。
「感謝してくれるのならね……」
 洋也が珍しく、交換条件を出してくる。
「何?」
「ここ五日間の僕の我慢に対して報酬をくれるかな?」
 最初は何のことだと不思議に思い、意味ありげに背中を撫でられてかっと頬が熱くなった。
「なっ……だっ……て、前払いっ……」
 抗議の言葉は洋也の唇で塞がれる。
 あんなに感謝して、感動したのに!
 秋良は恨みがましく感じながらも、深い口接けと腰を抱き寄せられる強さに、両腕を洋也の背中に回していたのだった。






               ……おわり。