ベイビー★ベイビー



 ピンポーンと鳴ったインターホンに、三池家の主婦、香那子は「はい」とモニターのボタンを押した。
「あら、秋良さん。入ってらっしゃいよ。開いてるわよ」
「すみません、開けてください」
「?? ええ、いいわよ」
 香那子は首を捻りながら玄関に向かう。
「どうし…………」
 『たの』と続く言葉は口を『あ』の形に開いたまま固まった。
 秋良は目を真っ赤にしながら、疲れ果てた顔をなんとか笑おうとした。とその時、秋良の両手に抱えたものが大きな泣き声をあげた。
「え、あら。どうしたの、その赤ちゃん……」
 秋良は泣き出しそうになりながら、両手を軽く揺する。だが、赤ん坊はまた癇癪を起こしたように泣き叫ぶ。
「貸してちょうだい、秋良さん」
 香那子は慌てて秋良の腕から赤ん坊を受け取った。
「ほーら、どうしたのかしらぁ? ミルクかな? おしめかなぁ?」
「どっちももう満足してるはずなんですけどね……」
 ぺたんと玄関先に座り込む秋良のうしろに、長男の姿が見えた。両手に大きな荷物を抱えている。聞かなくてもわかった。この赤ん坊の荷物だろう。
「とりあえず中に入って。まずは、赤ちゃんのご機嫌を直さなくちゃ」
 はあ、と溜め息をつく秋良を洋也が腕を取って立ち上がらせた。

「秋良さんが生んだんじゃないわよねぇ」
「僕は男です」
 抗議する声にも今は元気がない。
「洋也が誰かに生ませたにしても、計算が合わないか……」
「変な誤解を招く言い方はやめてほしいな」
 ちらりと秋良に睨まれ、洋也はやんわりと母親に抗議する。
 母親の心当たりにある洋也の過去について、一度『本人』に聞いてみたいと思いながら、秋良は横目で洋也を睨む。
「どうしたの? この赤ちゃん」
「僕の姪っ子です」
「というと、お姉さんのところの? あ、そうか、この前生まれたって言ってたわねぇ。で、どうして秋良さんが?」
 赤ん坊は香那子に抱かれ、ゆらゆらと揺すられたのが気持ち良かったのか、すやすやと眠り始めていた。
「旦那が海外で怪我をしたとかで、現地に。で、僕の母親が預かっていたんですが、父親が盲腸になって入院しなくちゃならなくて。それで父親の様態が落ちつくまで三日間でいいから預かってくれと頼まれて……」
「まぁ、それは大変だったわねぇ。お父様のお見舞いに行かなくちゃ。どうなの?」
「赤ん坊が来て、腹痛くらいは我慢と思ってたらしくて、腹膜炎起こしかけてて、でも手術して今は落ちついているんですけど、あと二日は枕から頭を離せないっていうので……」
「そう、でも、とりあえずは大丈夫なのね?」
「はい……」
 と、気を抜いたのがいけなかったのか、秋良の口からあくびが漏れる。
「昨夜、寝れなかったの?」
「……あ、すみません。どうも、環境がころころ変わって、興奮しているらしくて……。もう、何をしても泣いて、どうすればいいのかわからなくなって……」
「すぐにうちに連れてくればいいのに」
「でも……」
 いいながら秋良は何度もあくびを繰り返す。
「洋也、あなたの部屋で秋良さんに眠ってもらいなさいな。赤ちゃんは私が見ているから」
「頼むね。僕は秋良があんまり言うから3時間ほど寝たんだけど、秋良は眠れなかったみたいで」
「ええ、大丈夫よ。秋良さん、本当に寝たほうがいいわ」
「すみません、お願いします」
「あ、赤ちゃんの名前、なんて言うのかしら?」
「順子です。ジュンちゃん」
「ジュンちゃんって呼ぶのねー。かわいいわねー」
 香那子はすやすやと良く眠る赤ん坊に微笑みかけた。その優しい笑顔にほっとして、秋良は洋也に促されるまま、2階へと向かう。
「空気が悪いな」
 洋也は部屋に入ると、クーラーを動かした。
 今はもうほとんど物の置かれていない洋也の部屋は、がらんと寂しい感じがする。
 けれど、カーテンや残っている家具などに、洋也の好みが反映されていて、ほっとする。
「ごめん、2時間経ったら起こして」
「わかったよ」
 洋也がクローゼットから取り出したパジャマに着替え、秋良はベッドに潜り込んだ。
「空調だけにしておくから」
 クーラーの低いモーター音を聞きながら、秋良は「うん」と返事をした。
 唇に優しくお休みのキスをされ、目を閉じる。
 髪を撫でられたことは、ほとんど覚えていない……。

「何、この赤ちゃん。どうしたの?」
 勝也は帰ってくると、一人がけ用のソファーを向かい合わせて作った簡易ベビーベッドを覗き込んで、驚きの声をあげた。
「お邪魔します」
 勝也に続いて陽が入ってくる。
「いらっしゃい」
 香那子はニッコリ笑って、まだ慣れない様子の陽を迎える。
 赤ん坊は勝也の声に驚いたのか、びくっと握り締めた両手を震わせ、ひく、ひくっと泣き始めた。
「もう、だめねぇ、勝也は」
 香那子はよーしよーしと、赤ん坊の胸元を軽くトントンと叩く。
 うぶうぶと赤ん坊は小さな唇から舌を除かせ、唇を吸い、またすぐに眠ってしまった。
「誰の赤ちゃん?」
「秋良さんの」
「え、アキちゃんが生んだの?」
「そんなわけないだろう」
 うしろから洋也に軽く頭を小突かれ、勝也は振り返る。
「じゃあ、ヒロちゃんの失敗作」
「ばか」
 どうして母も弟も考えがそこに行くのかと洋也は苦笑する。
「アキちゃんは?」
「上で寝てる。昨夜一晩、頑張られたんだ。このお嬢さんに」
「へー、女の子なんだー」
 勝也はぷにぷにと順子の頬を突ついた。
 赤ん坊はぎゅっと顔を顰める。
「こら、勝也」
「やわらけー」
 もう仕方のない子ねぇと呆れて、香那子は赤ん坊の荷物を解いた。
 起きたらお風呂に入れられるようにと、着替えの用意をする。
「ただいまぁ」
 と、そこへ拓也が帰って来た。
「あれ、この赤ちゃんどうしたの?」
 拓也と、拓也と一緒にやって来た京が揃って、赤ん坊を覗き込む。
「秋良さんのところの」
「秋良が生んだわけでも、僕の子供でもないぞ」
「何それ、当たり前じゃん、ね?」
 拓也は笑って隣の京に同意を求める。
 京はうんと頷く。その視線はずっと、赤ん坊におかれたままだ。
「触ってみる? 柔らかいぞ」
 勝也が唆すのに、京はそっと指を伸ばす。
 と、京の指が触れる前に、順子はパチッと目を開けた。
「俺、まだ触ってない……」
 覗き込む面々を見て、順子はふぇーと顔を歪ませる。
「おっ、泣くかも」
「泣かせるな」
「え、別にいいじゃん。泣くくらい。赤ちゃんなんだし」
 勝也が不思議そうに洋也を見る。
「秋良が起きる」
 言って洋也はそっと順子を抱き上げた。
 だが、赤ん坊は更に渋面を作る。
「貸しなさい」
 香那子が洋也から赤ん坊を受け取ると、背中をトントンと叩く。
「もうミルクの時間かなぁ。順子ちゃん、お腹空いたかな? 洋也、ミルク作ってあげて。わかる?」
「ああ、だいたい」
 洋也がキッチンでミルクを作り、隣で香那子がその様子を見ている。時折、ミルクの造り方のアドバイスなどをしながら。
「一生見られないと思ってた光景だけどなぁ」
 ぼそりと呟いたのは誰の言葉だったのか。
 四人で顔を見合わせ、誰からともなく顔を逸らす。
「秋良さんの前でそれ、言うなよ」
「わかってるよ」
 気まずい空気の中、香那子が赤ん坊を抱いて戻ってきた。
 膝に抱き、ミルクを飲ませ始める。
「あ、すみません、もうミルクの時間だと思って」
 秋良が目を擦り擦り起きてきた。
「まだ眠ってて良かったのに」
「ん、でも。僕が預かった子だから」
 秋良はいつの間にかリビングに集まった面々に少し驚き、会釈する。パジャマを着て入ることが恥ずかしくなるが、そんなことは言ってられない。
「ただいまぁ。母さん、崇志と二人、ご飯あるかなぁ」
 バタバタと二人分の足音がして、正也と崇志が顔を出した。
「うわー、みんな揃ってる。あれ、その赤ちゃん、どうしたの?」
 みんなにしーと、人差し指を立てられ、正也と崇志はそっと母親の背後から一心にミルクを飲む赤ちゃんを覗き込んだ。
「あ、僕の……」
「え、安藤が生んだのか?」
「なんでだよ」
 憮然とする秋良に、崇志の横から正也がふふんと笑った。
「じゃあ、ヒロちゃんが失敗して。って、ならもっと大きい子供のはずだよねぇ」
「おい」
 じろりと兄に睨まれ、正也は冗談だよと首を竦ませる。
 賑やかな二人が座ると、赤ん坊が一生懸命にミルクを飲む音だけが聞こえてくる。
 誰も口を開けないでいた。みんなに見守られ、赤ん坊はミルクを飲み干した。
 香那子は順子を抱いて、トントンと背中を叩く。
「母さん、女の子、欲しかった?」
 勝也がそっと尋ねた。
「そうね。やっぱり女の子は何してても可愛いわねぇ」
 やはり女性に抱かれると安心するのか、順子はげっぷをすると、昨日までの不機嫌が嘘のように、きゃっきゃっと声を上げる。
「もう一人生んだら?」
「バカねぇ」
 香那子はクスクス笑い、自分を取り巻くように座る8人の顔を見た。
「子供を持つのも幸せ、持たないのも幸せ。それは自分たちで選ぶことよ。もちろん、あなたたちには、「持つ」という選択は最初からないかもしれないけど、だからって、不幸だとは思ってないのでしょう? 他人の持ち物を見て羨ましいとか思う子に育てた覚えはないし、そんな相手を選ぶように育てた覚えもないわ。それに、私にこんな機会を与えられないことでうしろめたいとも思わないでね。そう思わせているとしたら、私の方が悲しいわ。自分の幸せは自分で築くものよ。自分の母親と言えども他人がどう思っているかは、その基準の中に入れちゃ駄目。わかるわよね」
 四人の兄弟はそれぞれがお互いの相手と見つめあった。
 それぞれに愛する相手に出会えて、その手を取り合うことができた。
 ニッコリ笑うと、笑い返してくれる相手が目の前にいる。それだけで幸せだった。
「じゃあ、順子ちゃんをお風呂に入れなくちゃー。誰に頼もうかなー?」
「えっ!」
 そりゃ預かった人が入れるんじゃないの?
 ここに連れてきた限りは、母さんが入れればいいんじゃないの?
 赤ん坊なんて抱いたこともないよぉ。
 だいたいその子、女の子なんだろう?
 それぞれに思ったことが顔に出ていて、香那子はたまらずに吹き出してしまう。
「いいわよ、パパが帰ってきたら二人で入れるから。楽しみねぇ」
 ほっと溜め息をつく8人を眺め、香那子はクスクス笑う。
 と、順子も嬉しそうに声をたてて笑った。
「ジュンちゃーん、かっこいいお兄ちゃん達が8人もいるわよぉ。誰からだっこしてもらおうかー」
 香那子は順子に話しかけ、順子は昨日一晩自分を抱いてくれていた天使に手を伸ばした。