リビングのドアが開いて、帰ってきたのは勝也だった。
「おかえり」
 僕が声をかけると勝也は不思議そうな顔をして聞いてくる。
「ヒロちゃん? 何で来たの?」
 いつも乗ってくる僕の車が表になかったので不思議だと思って聞いているの
だろう。
「今日は秋良が車で出かけたから、歩いてきた」
「アキちゃん、まだなの?」
 勝也が心配そうに尋ねる。
 普段ならとっくに着いている時間だったので、僕自身、勝也が帰ってきたのを秋良が帰ってきたと思っていた。
「もうすぐ来るだろ」
 僕は読みかけの雑誌に再び目を落とした。 近くでサイレンが響いている。
「火事かしら」
 母さんが眉をひそめている。
 勝也が着替えてリビングにやってくる。
「ねえ、遅すぎない?」
 勝也はまるで我が子を気遣う母親のように秋良を心配している。
「そうだな。でも、会議とかがあればもう少し遅くなることもある」
 勝也が余計なことを言うから、僕も心配になってくる。
 けれど、なるべく気付かれないように時計に目をやったとき、双子の一人、拓也が帰ってきた。
「すごいんだよ。さっきそこの表通りで車の事故があって、燃え上がったんだ」
 興奮気味に言っている。
「それで消防自動車が来たのね」
 母さんは納得がいったように食事の用意の続きに取り掛かる。
「赤のMR2がもうメチャクチャ」
「赤のMR2?」
 勝也と僕の声が微妙にだぶる。
「うん、MR2だったよ、あれは」
「ナンバーは?」
 僕は不安を打ち消そうとしたためか低い声になっている。
「ナンバーなんて見てない…いや…末尾が71だったかな?」
「ヒロちゃん!」
 勝也の声が震えているのがわかる。
 僕はそうじゃないことを確かめるために立ち上がって玄関へ走る。
 勝也もついてくる。
「ヒロちゃんどうしたの! まさか…!」
 拓也の問いに答える余裕などない。

 現場はまだ騒然としていた。
 焦げ付く匂い、水浸しの道路、野次馬の人だかり。
 赤いライトが回って辺りを照らしだす。
 僕と勝也は人をかきわけて進む。
 その車は…間違いなく…赤のMR2で…ナンバーは…認めたくないけれど…僕が待っていた車だ……。
「ヒロちゃん」
 勝也は声にならない声を出す。
 擦れてしまって、震えてしまって、喉の奥で声を出すのを拒否しているような声。
「違うよね? 違うよね?」
 僕の右腕を揺さ振って聞いてくる。
 自分の方が僕よりその車に乗った回数は多いはずなのに…。
「運転手は若い男性だな。検視をしてみなければわからないが、170センチくらいの中肉中背だな」
 警察官がそんなことを言っていながら、車に青いシートを被せていく。
「陸運局に問い合せているか?」
「はい。もうすぐ回答がくると思います」
 きびきびと働く警官たち。
 勝也がフラフラと進み出たかと思うと、道端に転がったぬいぐるみを拾った。
 勝也が秋良に贈った、子猫のぬいぐるみだった。白くてふわふわで、ミルクに似ているからと……。
「わあぁぁー」
 勝也がそのぬいぐるみを抱きしめて大声で泣きだす。
「嫌だぁぁぁー」
 警官が駆け寄ってきて、君の知っている車かと聞いている。
 勝也はそれには答えず泣き続けている。
 僕は全身の血がサラサラと砂になったように力の抜けた身体で立ち尽くす。
 足がそこに固められたように動かない。
 目にしたことを信じられない。これを事実だと認めたくない。
 赤いライトが目の前を過ぎっていく。その断片に愛しい人の笑顔が浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。
「秋良…………」
 やっと開けた口から出た言葉はそれだけ。
 勝也のように泣けば楽になるだろうか?
「秋良…………」
 その名前の他には何も言えない。他の言葉を拒否している。
 行って言わなければいけない。その車の持ち主を知っていると言わなければいけない。けれどそれを言えば秋良がいなくなってしまうことを受け入れなければいけない。そんなことは出来ない。
「秋良…………」
 馬鹿のようにその言葉だけを繰り返している。
 勝也は泣き続けている。声を出しすぎて喉がつぶれてしまっているのか、叫び声が擦れて近くにいなければ聞こえないだろう。
 けれど全身を震わせて泣いている。
 僕は…僕は…もう…僕の身体を切り裂いても血は出ないだろう…このまま血を失くして死ねたらいいのに………。
 足が動かない。手も動かない。口を開けばその名前しか出てこない。
 一生このままでいいと思う。けれど僕の一生はもうすぐ終わる…いやこの瞬間終わったと思う。
「秋良…………」
 僕はその愛する名前しか呼べない。呼び続ける。
「秋良…………」


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 サイレンを響かせて一台のパトカーが到着した。
 パトカーは事故車の横に着けられた。
 中から警官が出てくる。
「君の車ですか?」
 リアシートから人が降りてくる。
 24才にしては童顔で、癖のないサラサラの髪が額にふわりとかかり、大きな瞳が今は驚いたように更に見開かれている。
 白いカッターに紺のスラックス、青系のネクタイは今朝僕が選んで結んでやったもの。
「はい…。僕の車です」
「秋良!」
 僕は声の限りに叫んだ。
 今、目に写る人物が消えてしまわないように。
 自分の都合の良い幻想でないことを祈って。
「洋也……?」
 秋良がどうして僕がここにいるのか?と驚いた様子で僕の名前を呼んだ。
「秋良!」
 人目なんてどうでもいい。僕は駆け寄って秋良を抱き締めた。
「洋也、ちょっと…」
 秋良が逃げようとするのを無理矢理捕まえて、力一杯抱き締める。
「秋良………」
 僕は安心して、胸の中に収まった艶のある髪を撫でた。
「アキちゃーん」
 ようやく正気に返った勝也が秋良の後から抱きついてきた。
「勝也も……もしかして僕が事故をしたと思ったの?」
 秋良のとぼけた声に周囲が失笑をもらした。でもそうして笑えるなんて、さっきまでは思えなかったのだから、嬉しい笑い。
 勝也はまたわんわん泣いている。
「洋也、ちょっと離してってば」
 そんな抗議はもちろん無視した。手を放して雪みたいに消えてしまうんじゃないかと、まだ不安なのだから。
「洋也って!」
 仕方なく力を緩めると、秋良は自力で逃げ出して、僕を睨んでいる。
 勝也はまだ背中にへばりついて泣いている。
「もうこんな思いは二度とごめんだ」
 ぼそりと呟くと、秋良は心外だといわんばかりに、言い返してきた。
「僕は駅前で拓也くんに会って、警察に盗難届けを出すから少し遅れるって伝えてって頼んだよ」
「拓也は何も言わなかったぞ」
「あれ? じゃあ、正也くんなのかな?」
「正也はまだ帰ってきてない」
「じゃあ、正也くんだ」
「あのー、ちょっと事情を伺って、被害届けを出してほしいんですがね」
 二人の間に警官が割って入った。
「明日警察署の方に伺います。今日はみんな疲れてるんです。明日にしてください、明日に」
 僕はじろっとその警官を睨んでやった。
「本当にきてくださいよ」
「こっちは被害者なんだ。逃げたりするわけないだろ!」
 警官はそれこそ被害者のようにコソコソと引き下がった。
「洋也の方が警察に向いているんじゃない?」
 秋良は変な関心をしている。
「さあ帰るぞ。正也が帰ってきたら、一発殴らないと気が済まない」
 僕は秋良と、秋良から引き剥がした勝也をつれて家へ向かって歩きだした。

  本当のタイトル 『April Fool』