春霞



 春休みに5日ほど帰ってもいいかな?と尋ねた秋良に、母親は間髪をおかず「洋也さんと喧嘩でもしたの?」と訊いてきた。
 思わず笑ってしまって返事ができなかったので、母親はその疑問を確定的にしてしまったようだ。
 何度も「喧嘩なんてしてないってば」と言っても信じてもらえなかった。
 それでも帰ってきては駄目よと止めなかったのは、なかなか実家に帰れない秋良の顔を見たいという親心があったのだろう。もしかしたら、喧嘩をするなという説教をしようという目論みもあるのかもしれないが。
 一応5泊の予定の荷物を作って、自分の車で帰省する。車で3時間の距離も最近はずいぶんご無沙汰だった。
 荷物を置いた秋良に、二人の甥が飛びついてくる。
「秋良お兄ちゃん、おかえりー」
「ただいま、いい子にしてたかな?」
 二人の頭ぐりぐりと撫でて、洋也から貰っていたゲームソフトをお土産にと渡す。
「うわっ、これ、来週発売のゲームだよ! すげーや! ありがとう!」
 歓声をあげて早速テレビに取り付く二人に、「ちゃんと時間を守るんだよ!」と声をかけてから、出迎えにきてくれた兄嫁に、「お世話になります」とこちらは自分で買ったお菓子と、洋也の母親が持たせてくれた和菓子を渡す。
「ありがとう、秋良さん。ゆっくりしていってくださいね」
「本当に一人できたの?」
 秋良の後ろを確かめるように、母親が心配そうに尋ねる。
「だからさー、洋也はニューヨークなんだよ」
「どうして一緒に行かなかったの? 5日も休みがあるんなら」
 決して自分がここに来ることを母親が嫌がっているのではないことはわかる。けれど、そこまで言われると、邪険にされているのだろうかと少し心配になる。
「5日しか休みがないから、こっちに来ることにしたんだよ。時差と飛行機の移動時間考えると、向こうでゆっくりできないもん。一人でいるのもつまんないからこっちに来たのに、冷たいなー」
 冗談混じりに言うと、ようやく母親も納得してくれたようだ。
「喧嘩して帰ってきたんじゃないのならいいんだけど……」
「喧嘩してないってば」
 秋良は笑って、いつも自分が泊まる時に使う部屋に荷物を解いた。
 本当に昼寝をしたり、のんびり散歩をしたり、ゆっくりとするだけのつもりの帰省だった。もちろん洋也にもここに来ることはいってあるし、愛猫のミルクを預けた洋也の母親も快く見送ってくれたのだ。
「散歩でもしようかな」
 ゲームに夢中になっている二人の時間を見計らって声をかけると、甥たちはすぐにゲームをセーブしてついてくる。
「秋良さん、ごめんなさい」
 恐縮する兄嫁に笑顔で手を振って、秋良は二人を連れてのんびりと散歩に出かけたのだった。



「秋良ちゃん、帰ってきてるんだって?」
 話好きの近所の主婦がやってきて、母親は曖昧に笑う。彼女が突然やってきて1時間くらい話すのはいつものことだが、今更東京に出て行った息子の話題を振ってくる理由がわからない。思わず構えてしまう。
「秋良ちゃん、もう結婚したの?」
「まだよ」
「もう、結婚を約束した人とか、いるのかしら?」
「いるんじゃないかしら」
 秋良が洋也と暮らしていることは、両親も認めているし、受け入れてもいる。しかしそれをどんな人と一生を共にすると決めたとは、他人には言えない。二人が男同士である限り。
 自分たちでさえ受容するのに時間がかかった。共にある人がどれだけ秋良を大切にしてくれているかを知っていくにつれ、安心できるようになったのだから、秋良を知っているというだけの人に広めるつもりもない。
「まだ親に紹介していないなら、本気じゃないってことでしょう? それに、都会の女の子は駄目よー。ねぇ、覚えてる? 秋良ちゃんと一緒の年の、植田さんちの裕子ちゃん。あの子、昔から秋良ちゃんのこと、好きだったらしいのよ。植田さんがね、秋良ちゃんを見かけて、今帰ってきてるのかしらって気にしてたのよ。どう? 安藤さん、お見合いって言うんじゃなくて、それとなく会わせてみたら? 裕子ちゃんなら気だても優しくて、可愛いし、お似合いだと思うのよー」
 一気にまくし立てる主婦に、反論を挟む余地はなく、母親は引きつった笑いを浮かべる。
「いやー、秋良はむこうでもう決めてるでしょうし」
「だからね、向こうの女なんてだめよー。今のうちなら、こっちの優しい女の子と会わせちゃえば、秋良ちゃんだって気が変わるかもしれないでしょ。裕子ちゃんなら、秋良ちゃんだって知っているんだしー。ね? 明日、連れてくるから、秋良ちゃんには家にいるように言っといてね。決してお見合いって言うんじゃなくて、久しぶりに偶然顔を合わせたっていう感じよ。頼んだわね」
 それのどこが偶然よーと思っているうちに、言うだけを言ったら、断られる前にと彼女は帰ってしまった。
「どうしましょう」
「どうしましょうって、お義母さん。秋良君がはっきり断れば、それで済むんじゃないですか?」
 隣のキッチンにいても充分話が聞こえてしまった兄嫁が苦笑混じりに答える。
「秋良にはっきり断る、なんてことができるかしら?」
「……はぁ」
「明日、洋也さんが来てくれるってことは……無理よね」
 いくら洋也でも、現在ニューヨークにいるのに、それは無理な相談だろう。
「会うだけで次の約束をしなければ、秋良なんてほとんどこっちに帰ってこないものね。秋良だって次の約束もしないでしょうし」
「そうですよねぇ」
 嫁と姑は意見を一致させて、ほっと一息ついたのだった。



「安藤さん、いるー? 今ね、植田さんちから畑の野菜をたくさん戴いちゃってね、裕子ちゃんと一緒にお裾分けに来たのよー」
 それなりの理由をつけて、近所の主婦は来襲した。
「あぁ、ありがとうございます」
 母親は恐縮しながら玄関へと出た。
 植田裕子は小学校、中学校と秋良と同学年で、小さな村のことで秋良と一緒のクラスになったことも何度かあるので、見覚えがあるはずだったが、昔の面影を残しながらも、綺麗な大人の女性になっていた。
「裕子ちゃん、ひさしぶねぇ。すっかり綺麗になっちゃって。小母さん、町で会ってもわからないわねぇ」
「そんなに変わったつもりはないんですけどぉ」
 ニコニコと笑う彼女は、そわそわとしている。
「そうそう、秋良ちゃんも帰っているんでしょ? 裕子ちゃん、久しぶりに会いたいんじゃないの?」
「秋良君、帰ってるんですか?」
 唇がむずむずする。白々しいと笑ってしまいたいが、母親は仕方なく秋良を呼ぶ。
「秋良! 秋良、ちょっといらっしゃい」
 奥から声が聞こえて、秋良が子供を抱いたまま顔を出した。
「何? あ、こんにちは」
 玄関に並んだ二人の女性に驚いて、秋良は慌てて挨拶をする。
「秋良君の……子供?」
 裕子が驚いて秋良の腕に抱かれている子供を見た。
「え? いや、この子は姪なんだけど、……えっと?」
 秋良は目の前にいる女性が誰なのかわからないようだった。
「植田裕子ちゃんよ、ほら、秋良と同級生の」
 フルネームで言うと、秋良はすぐに思い出したようだった。
「あぁ! 植田さん。久しぶり。すごく変わってて、わからなかったよ」
 こういう場合、お世辞でも綺麗になったというべきで、実際裕子は標準よりも綺麗なのだから、そう言われるものとみんなが思っているシーンなのに、秋良はただ単に「変わった」としか言わない。
 母親も兄嫁も女として頭を抱えたくなるほどの鈍感さだが、彼女の方から呆れてくれればそれに越したことはないと、気づかぬふりをする。
「秋良君は優しそうなところ、変わってないわ」
 秋良の鈍感にもめげず、彼女は笑顔を取り戻す。
「秋良のは優しいんじゃなくて、ぼんやりなだけですけどねー」
 母親がマイナスのフォローをする。決して謙遜ではなく、こんなのんびりのぼんやりは諦めてくれという願いをこめて。
「そ、そうだ、二人でちょっと散歩でもしてらっしゃいよ。川原の桜が見頃なのよ。今が満開ですって。懐かしい話とか、いっぱいあるでしょう?」
「でも、迷惑じゃないかしら」
 一応の遠慮は見せて、裕子は秋良を見た。
「じゃあ、順子ちゃんの散歩がてら行ってみようかな。ジュンちゃん、新しいくっくはこうかー」
 えっという顔の客二人に気づかず、秋良は抱いていた姪を玄関に下ろして、靴を履かせてやる。
「じゃあ、さっと一回りしてくるよ。行こうか、植田さん」
「え、えぇ……」
 二人が出て行き、玄関が閉まるのを待ってから、母親は嫁と顔を見合わせてクスクスと笑いあったのだった。



 川沿いの土手に並んだ桜は、近所の主婦のいうように満開だった。
 花弁がハラハラと舞い散る中を、秋良は手を引いた順子に合わせてゆっくり歩く。
「ずいぶん、秋良君になついているのね」
「姉が東京に出てくるときは、いつも僕のところに泊まるからね。なついてるって言うより、慣れている感じかな」
「小学校で先生をしているんでしょう?」
「そうだよ。今年は5年生を受け持ってたんだ。来年は持ち上がって6年生」
「大変じゃない?」
「全然。みんな可愛くて、いい子達ばっかり」
 順子が道に落ちた花弁を小さな指で摘む。あーあーと秋良に向かって、その手を振る。秋良は優しく微笑みかけて、その花弁を自分の手のひらで受け止めた。
「植田さんは? 今、何をしているの?」
「私は隣町で看護婦をしているの」
「そうなの、植田さんなら優しい看護婦さんなんだろうな」
 秋良の感想に、裕子は寂しそうに笑う。
「ちょっと疲れちゃってね。辞めたいなって思ってるところなんだ」
「何か、あったの?」
 秋良が順子を抱き上げて、裕子の方を向いた。
 さっと風が吹きぬけて、桃色の花弁が舞い落ちてくる。
「……いろいろ。上司は嫌な奴だし、仕事はきついし。……楽しくないし……」
「でも、患者さんの笑顔に嫌なこと、全部消えちゃわない?」
「……え?」
「学校もさ、結構色々ある。上司っていうか、上からの無茶な要求とか、保護者からの突き上げとか、今は安全面でも気が抜けなくてさ……。でも、子供たちの笑顔を見たらぜーんぶ忘れちゃう。……やっぱり僕って単純かな」
「あ……」
 何かに気がついたように、裕子は目を見開いた。
「秋良君、……私が落ち込んでいるように見えた? もしかして……」
「ううん。落ち込んでたの? そんな風には見えなかったよ」
 彼女は唐突に思い出した。
 何故秋良に会いたいと思ったのか。
 昔からそうだった。
 この一見頼りなく見える同級生は、いつも誰かが悩んでいると、その優しい笑顔で癒してくれるのだ。励ますのではないのに、見落としているものを教えてくれる。
 その秋良は抱き上げた姪に頬をパチパチと叩かれて、楽しく笑っている。
「秋良君なら、いいお父さんになれそうね」
「僕は……父親にはなれないんだ」
 どういうこと? と問いかけようとした二人の間に、また一陣の風が吹きぬけていく。
 ざあっと突然の強い風に、桜の枝から大量の花弁が小さな竜巻のようにそれぞれを包むように舞い散っていく。
 風と花弁に一瞬目を閉じる。
 そんな二人に低い声が届いた。
「秋良」
 呼びかける優しい響き。
 花吹雪の明けた空間に、長身の影があった。
「洋也! 早かったんだね」
 秋良が満開の笑顔で呼びかけると、ゆっくり近づいてくる。
 順子が笑いながら手を伸ばすと、洋也は彼女を抱き上げた。
「少し見ない間に大きくなったな」
「だろう。もうしっかり歩くんだよ」
 キャッキャッと喜ぶ順子を抱きながら、洋也は秋良の横の女性に目を移した。
「あ、同級生の植田さん。野菜をたくさん貰ってさ。一緒に散歩してたんだよ」
 軽く頭を下げられて、裕子も慌てて会釈する。
「今向こうで一緒に住んでいるんだよ」
「三池です」
 それ以上を言わない男に、裕子は胸がざわついた。
 冷たい感じ。優しくなさそう。綺麗な男だが、綺麗なだけに感情が薄そうで冷淡な印象を受ける。
 なのに秋良は楽しそうに彼に話しかけている。相手は相槌しか打たないのに。
 けれど、秋良を見るその瞳の深さに色々なことが見えてくる。
 父親にはなれないといった秋良。一緒に住んでいるという言葉に、秋良の変わらない訳がわかったような気がする。
「秋良君、私、帰るわね」
「あ、だったら、送っていくよ」
「いいわよ、こんなに明るいし、桜を見ながらのんびり帰るわ」
「そう? じゃあね」
 あのお節介なおばさんは次の約束をしてしまいなさいと言っていた。けれど、そんな必要はもうなくなった。
 秋良もまたねとは言わなかった。
 それに、……もう少し頑張ろうと、気持ちは職場に飛んでいた。



 二人で順子の手を引きながら戻っていく。
「彼女は……なんだったの?」
「同級生だよ。言っただろ?」
 秋良はなんでもないように言うが、とてもそうだとは思えない雰囲気だった。
 だが、向こうから離れていってくれたし、秋良もわかっていないようだったので、詮索するのはあまり得策ではないだろう。
「秋良、花弁がついてる」
 秋良の髪に舞い降りていた桃色の小さな花弁をそっと指で弾くと、サラサラの髪はそれだけで花弁を滑らせていく。
 久しぶりに触れた柔らかい髪の感触に、指を離しがたくて、洋也は何度も花弁を取る真似をしながら撫でる。
 洋也の味方をするように、風がまた花弁を運んできた。



「あら、洋也さん」
 驚くことに、近所の主婦はまだ玄関先でしゃべっていた。
「お邪魔します。これ、向こうのお土産です」
 差し出したのは父親と兄のお気に入りのウィスキー。母親と兄嫁にはブランド名の入った紙袋。
 突然帰ってきた秋良が裕子ではなく、長身の美男子を連れていたことに驚いた彼女はぽかんと洋也を見上げていた。
「秋良、裕子ちゃんは?」
「川原で別れたよ。散歩しながら帰るって」
 二人はそのまま家の奥に消えた。
「あの人、誰?」
 好奇心一杯の目がギラギラと光っている。
 またしばらくは色々な噂をばら撒かれるのだろうなと思いながら、母親は秋良の友人だと無難な答えをしておいた。