秋良先生の長い1日
 
 
「あ、今日さ、研修会があるから、ちょっと遅くなるかも」
 玄関で靴をはきながら、僕は洋也に言った。
「え、だって秋良、週末は何も予定がないって言ってたじゃないか」
「うん、昨日さ、行ってくれるはずの先生が急用で、代わってくれって言われたんだ」
「断れなかったのか?」
 思いっきりという感じで眉をひそめて、洋也は玄関の上から僕を見下ろす。別に、そんなに上に立たなくたって、僕はいつも見下ろされているんだけど。
「そんなに遅くならないよ。平日くらい」
「わかった。じゃあ、終わったら電話くれよ」
 伸びてきた手が、僕の頭を引き寄せ、洋也の顔が近づいてくる。
 優しく頬にキスされる……、と思っていたら、唇が重なる。
(どうして今日は唇にするんだろう……)なんて思っていたら、舌が……。
「んっ……!」
 洋也の肩を押して抵抗してみるけれど、それはとうてい適わない。どんどんと肩を叩いて、ようやく解放される。
「……もう」
 熱を持ち始めた目で睨んだところで、洋也に応える筈がないとわかっていても、僕は恨めしげに見上げてやる。
「早く帰ってきて」
 やっぱり、洋也は少しも堪えてなくて、チュッと頬に派手な音を立ててから、僕の背中を押した。
 
 
 教育委員会の大会議室に入り、どこへ座ろうかと見回していると、後ろから背中をぽんと叩かれた。
「よお」
「鳥羽!」
 ニヤニヤと笑いながら、鳥羽が肩を抱いてきた。
「お互い、下っ端は辛いねえ、秋良君」
「ハイハイ。そうですねー。体重かけてくるなよ」
 圧し掛かってくる鳥羽の腕を無理矢理外して、僕は笑って肩を押してやる。
「久しぶりじゃん。最近電話もくれないでさ」
「それはお前だって同じだろ。俺はね、新婚家庭に電話するほど野暮じゃないの。そういう時は気をきかせて、秋良から電話くれないと。ま、秋良に気をきかせるなんて期待しちゃいないけれどさ。この辺に座ろうぜ。目立たなくていいや」
 鳥羽が指し示したのは、室内のちょうど真ん中の列で、廊下側の端の席だった。
「別に遠慮しなくていいのに、遊びに来いよ」
「秋良、新婚家庭というのは否定しなくていいのかぁ?」
 ニヤニヤ笑いながら、鳥羽は僕をからかってくる。
「わざわざ否定しなくても、事実じゃないからなっ」
 真っ赤になって、抗議するが、鳥羽は笑いを引っ込めたりはしなかった。
「なんかさー、秋良君の傍に行くと、『幸せですー』っていうオーラが漂って来るんだよなー。羨ましいねぇ」
 あまりにくだらない事をいう鳥羽の額を手の甲で弾いてやった時、教育委員長が壇上に立った。
 
 あくびをかみ殺しながら、来年の指導要綱の変更点や、文部省からの通達を聞いて、2時間ほどで僕達は解放された。
「書類に書いてある事しか喋らないでさ。それならプリントだけ渡せってんだよな」
 鳥羽の文句をまあまあと宥めながら、二人で駅へ向かって歩いていた。
「これからどうする? どこか寄ってくか?」
「うーん、どうしようかなぁ?」
 時間は思っていたより早く済んだし、お茶くらいなら、それほど遅くならないだろう。
「喫茶店だけで解放してやるからさ」
 鳥羽がクスクス笑ってそんな事を言うものだから、僕はむきになって、帰りは急がないんだよ、と言ってしまった。
「嘘つけ、今日は早く帰って来るように言われてるだろ」
 どうしてわかるんだよと睨んでやると、鳥羽はげらげらと笑い出してしまった。
「お前さー、いや言わねー。こんなのばらしちゃったら、俺、洋也さんに恨まれるもん」
「だから、何を!」
「まあまあまあ、じゃあ、コーヒーだけ、な?」
 いつの間にか駅前に着いていて、鳥羽は商店街の中の喫茶店を指差した。
 
 とりとめのない話をして、僕たちは一時間ほどで喫茶店を出た。
「じゃあな。たまには連絡して来いよ」
 鳥羽がそう言った時、か細い声が、僕の耳に聞こえてきた。
 辺りを見回すが、何も視界には入って来ない。
「秋良?」
「何か聞こえない?」
 首を傾げながら鳥羽に言うと、鳥羽も耳をそばだてた。と同時に『うにゃー』という鳴き声が聞こえる。
「猫、みたいだな」
 鳥羽はそう呟くと、喫茶店の植え込みの中を「この辺だったぜ」と言いながら、がさがさと掻き分けた。
「ほら、やっぱりな」
 言われて覗きこむと、そこには灰色の小さな塊があった。良く声が出せたなと思うほどそれはもう、弱々しく、身体を丸めて震えていた。
「もう駄目だな、こりゃ」
「えっ!」
 驚いて鳥羽を見ると、鳥羽は首を振る。
「捨てられてからかなりたつぜ。弱ってて、助けられやしないよ。見なかったことに……、おい、秋良っ!」
 僕は鳥羽を無視してその子猫を抱き上げた。両手の掌に乗るほど、そいつは小さかった。ぶるぶると震えているそれを、僕はカバンから体操服を取り出して、包んでやる。
「あーあー、どうするんだよ」
「ちょっと持っててっ!」
 僕は喫茶店の中に戻って、ミルクを温めて、どこか捨ててもいい容器に入れてくれるように頼んだ。
「お客さん、あの猫はもう、駄目だと思いますよ」
 マスターはどこか後ろめたげに僕を見た。もしかしたら彼は、捨てられたときから、あの猫を知っていたのかもしれない。
 けれどマスターを恨むつもりにはなれなかった。食品を扱っているこの店で、猫など飼えないことは、僕にだってわかる。むしろ保険所に通報しなかったことをありがたく思う。
 誰かが拾ってくるのを待っていたのかもしれない。
 マスターは温めて、そして少し冷ましたミルクをプラスチック製のお椀に入れてくれた。その皿はもう返さなくていいですよ、と言って。
 礼をいって鳥羽の所に戻ると、鳥羽は大切そうに、その包みを持って、植え込みの縁に座っていた。
 そっとミルクの椀を差し出すと、猫は大儀そうにふんふんと鼻で匂いを嗅ぐと、そろりそろりと舐め始めた。
 ほっと一息つくと、鳥羽と目が合った。
「どうするつもりだよ、これ」
「誰か、飼ってくれる人を探すよ」
 とりあえずは動物病院へ連れて行くつもりだけれど、その間には飼主を探してやらなければならないだろう。
 …………洋也が猫を飼うことにいい顔をするとは思えなかったから。
 ピチャピチャとミルクを舐める猫は、その時顔を上げて、「みゃー」と鳴いた。
「可愛いな」
「鳥羽、飼えない?」
 なるべくなら、この可愛い姿を見た奴に頼むのが1番いいとか思って、僕は尋ねてみた。
「俺んちはマンションなの」
 だよなと思って、僕は携帯電話を取り出した。
「お前、そんなもの持ってるなら、番号、俺に教えろよな」
「え? 教えてなかったっけ?」
 そんな奴だよと溜め息をついて、鳥羽は肩を竦めた。
 そして僕はまず、実家に電話をかけた。
『駄目よ、裕輔がアレルギーあるもの。貴方も肌が弱い方だから、やめておきなさいよ。それに動物なんて飼ったら、あの綺麗な家がめちゃめちゃになるわ、洋也さんに申し訳ないわよ』
 甥のアレルギーのことを僕はうっかりしていた。たまには顔を出せとか、いろいろ言われる前に、僕は早々に電話を切る。
 次にかけたのは、洋也の実家だった。
『ごめんなさいね秋良さん。私、どうしても動物だけは駄目なの。小さい時に飼っていた犬が死んでしまう姿を見てからは、もう絶対飼わないって決めたのよ。子供たちにも、動物は駄目よって言ってきたくらいで。ごめんなさいね』
 洋也のお母さんに丁寧に謝られて、僕は恐縮しながら電話を切った。どうやら、これでは洋也も期待できないだろう。最終的に飼い主が見つからなければ、なんとか頼みこもうと思っていたのだが。
 それから何軒がかけてはみたが、もう飼っている動物がいたり、アレルギーがあったり、マンションだから駄目だとか、大同小異の断わりが聞こえてくるだけだった。
「どうするよ、そろそろ寒くなるぜ」
 辺りは暗くなり始めていた。猫はミルクを殆ど飲み終え、布の中で、ちんまりと包まっている。震えが治まったところを見ると、助かるだろうとほっとする。だったら、やはり飼い主だ。
「月曜日に子供たちに聞けば?」
「うん……、でも、そんなこといったりしたら、文句を言ってくる親もいるし……」
「まあなー」
 どんなことにでも、まるで粗探しをしているのかと思うくらい、細かいことにまでクレームをつけてくる親がいるのは事実で、例え、自分の子供に関係がなくても、そう言うときは絶対出て来るのだ。鳥羽も同じ思いをしたことがあるのか、苦笑いしただけで、あえてコメントは返してこなかった。
「どうする?」
 と言ったとき、僕の携帯が鳴った。
「もしもし」
 表示された番号を見て、覚悟を決めて、通話ボタンを押す。
『まだ時間がかかりそうか?』
 優しい声が聞こえる。
「ううん、もう終わって……」
 言いかけて、終わったら電話をかけて来るように言われたのをすっかり忘れていた事に気がついた。
『迎えに行こうか?』
「いいよ、鳥羽と会ってさ、いっしょに駅まで来たんだ。電車に乗って帰るから」
『久しぶりなら、少し話でもしてくるか?』
「あははは、もう、実はしたんだ。だから、これからかえるから」
 くすくすという笑い声の後、待ってるからと言って、電話は切れた。
「どうするんだよ、これ」
 鳥羽から猫を受け取って、僕は腕の中に抱え込んだ。
「飼い主が見つかるまで、頼みこんでみるよ」
「仕方ないなー。俺も心当たり、探しといてやるよ」
「頼むな」
 電車に乗るのに、仔猫の分の手荷物料金をとられ(こんなに小さいのに)、鳥羽より先に僕は電車を下りた。
「どうしようかな……」
 とりあえず、と思い、僕は駅前のスーパーによって、中のペットショップで、猫の餌と、食器、そしてトイレと首輪を買った。
 誰かに貰ってもらうにしてもそれくらいはつけないといけないと思ったのだ。ペットショップの人は、猫を見て、猫用のミルクと離乳食を進めてくれ、猫を入れて帰る様にと、小さなダンボールもくれた。
 誰か貰ってくれる人に心当たりはないかと聞いてみたが、店員さんは申し訳なさそうに首を振った。
 買い物を済ませると、辺りはすっかり暗くなっていた。
「ちょっと寒いよな。お前、大丈夫か?」
 箱の中を覗き込むと、猫は僕の体操服がよほど気に入ったのか(多分暖かいからだろうけど)、上手く空間を作りもぐりこんで、眠っている様に見えた。
 箱を閉じたとき携帯が鳴ったけれど、荷物を降ろしてカバンを開けているうちに、切れてしまった。
「迎えに来てもらおうかな−」
 電話は洋也からで、荷物の事を考えると、電話をかけて来てもらうのがいいのだけれど……。そのまま車でどこかに捨てて行かれそうな気がして、出来なかった。
 でも、洋也だって、もしかして動物が好きかもしれないし……。と考えて、否定する。クラスで飼っていた金魚を夏休みの間を預かるだけでも、嫌そうな顔をした事を思い出す。
 まして、家にいる時間は洋也のほうが圧倒的に多いわけだし……。あの家は、洋也の家だし……。
 溜め息をついて、僕は荷物を抱えた。
 猫を飼いたいとは特に思わなかったけれど、どうしても見捨てる事も出来なかった。
 飼い主が見つかるまで……。
 それくらいなら置いてくれるだろう。
 
 
「遅かったじゃないか」
 自分では玄関を開けられずに、肩でインターホンを押すと、洋也が出てきた。開口1番そう言って、そして胡乱な目つきで僕が持っている荷物とダンボールを見た。
「…………」
「えっと、あのさ、絶対、飼い主を探すからさ。少しの間だけ」
 洋也は眉をひそめて、箱のふたを長い指で開けた。
『みゃー』
 まるでタイミングを計った様に、猫が鳴いた。
 無言で洋也は僕をじっと見てくる。
「駄目かな?」
「飼い主を探してたのか? 今まで」
「うん……。まだ心当たりの半分も当たってないけど。鳥羽も探してくれるって言うし、少しの間だけ……」
「探さなくていいよ、飼い主は」
「駄目だよ、捨てないよ。すごく弱ってて」
 僕が慌てて箱を隠す様にすると、洋也は少し笑って、玄関を大きく開けてくれた。
「どうぞ、新しい家族が増えるなら、三人で一緒に入ろう」
 僕は驚いて洋也を見た。
「いいの!?」
「どうして僕に1番に聞いてくれなかったの」
 洋也は僕の手から、買ってきた物を持ってくれ、僕達は部屋に入った。
「だって、金魚とかの時は嫌そうな顔をしたじゃないか」
「別に嫌じゃなかったよ。どうして秋良が世話をするのか不思議だっただけで。普通は子供がするものだと思っていたからね。それより、今日がなんの日か知ってるか?」
「え?」
 洋也はクスクス笑って荷物を足元に置き、箱を抱えたままの僕をリビングに連れて行った。
「あ!」
「誕生日おめでとう」
 言葉と共に頬にキスされる。
 テーブルの上にはオレンジの薔薇が飾られ、ローソクのついたケーキと、ワイングラス、そして多分これから料理を乗せてもらえる皿たち。シンクの上にはいい匂いのする鍋が……。
「あ……、ごめん、忘れてた」
「だろうと思った」
 そう言って笑う洋也の頬に、ありがとうのキスを返した。
「頑張ってセッティングした甲斐があったな」
 そう言って唇が重なると……、猫がみゃーと鳴いた。
「まずは、こいつの家を作らないとな。いつまでも僕の秋良の服を占拠されるは嫌だな。箱から出すには風呂に入れてやらないと。先にそれを済ませるか?」
「うん」
 パウダールームで洋也は洗面台にお湯を出した。確かに小さい猫は、風呂場でなくてもそこで十分洗えそうだった。
「猫のシャンプーは買って来た?」
「それは買ってない」
「人間用のはきついからな。石鹸を薄くつけて洗うか……」
 意外にも面倒見が良かったらしい洋也は箱から猫を出して、僕の体操服を外して、洗濯機に入れた。
 暴れるかと思っていた猫はおとなしく、洋也に洗われている。
「秋良、こいつ、何色だと思う?」
「え? 灰色だろ?」
「白い猫でした」
 シャワーの中から出てきたのは、驚くほど綺麗になった、白い猫だった。
「うわぁ」
「どこかの白い長毛種が、間違って産んでしまった雑種かな? だから捨てられたんだよ。元々の野良猫なら、親はこの小ささじゃ目を離さないからな」
「可哀想に」
 僕はタオルの中に猫を受け取った。見違えるほど綺麗で美人になった猫は、みゃーんと鳴く。
「名前つけてやらないと。男の子だったよ」
「チビでいいんじゃないの?」
 僕が言うと、洋也はセンスがないと苦笑する。
「そのうち考えるとして、先にお祝いを済ませよう。プレゼントもあるんだよ」
 手を拭いた洋也は、僕の頬を挟んで顔を近づけて来る……。
 
 唇が重なったとき、邪魔をしたのは猫ではなくて、玄関のインターホンだった。