誓い



この物語はメールマガジン『月夜通信』の連載小説『Imitation』直後の話になります。







 自分が製作したゲームが原因で、製作会社とトラブルを起こした男に拉致監禁された洋也は、足を刺されるという怪我を負った。
 怪我はたいしたことはなく、数針を縫ってだけで、数日のうちに回復した。
 すべてが元通りに戻ると思われたが、自分が作ってしまった秋良との距離は、埋まったようで埋まっていないという、微妙な気持ちのすれ違いを残していた。
 秋良を守りたい。何に換えても。
 ただそれだけの強い想いは、けれど秋良の心に傷を残した。
『洋也はいつまであの時の僕の幻影に怯え続けるの? 僕はあの時の弱いままの僕じゃない。洋也と一緒にいるために強くなろうと思ってる。でも、洋也はいつも僕に怯えてる。あの時の僕を恐れてる。僕は……僕は変わっているのに』
 秋良は叫んでいた。
 とても辛そうに。
 二人で乗り越えたと思っていた過去は、自分の心の奥には深い傷となって、今も残っている。それは自覚していた。
 けれどそれが秋良にもあるとは、……不覚にも思い至らなかったのだ。
 秋良には当時の記憶がない。精神的治療も完全に済んでいる。
 秋良は大丈夫。
 そう思い込んでいた。
 あとは自分の記憶を封じ込み、秋良に気付かせなければいいのだと思っていた。
 それが間違いだった。
 秋良は洋也の傷を、その深い思いやりの心から感じ取り、自分の傷として捉えていた。
 洋也は秋良に気を遣い、それが結局は秋良を苛立たせる。そんな悪循環の日々を怖々と送っていた。
 そんなある日、今回の事件の発端とも言うべきN社の社長である中垣内から食事の招待があった。
 大切な人と一緒に是非と請われたが、それは丁重に断り、洋也は一人で出かけた。
 どこかのレストランで食事をするとばかり思っていたが、迎えの車は中垣内の自宅へと洋也を運んでいった。
 中垣内の自宅は都内の高級住宅街の一角にあり、広い日本庭園を有する、ゲーム会社の社長宅とは思えないような立派な日本家屋だった。
 なのに、通されたのは立派なダイニングテーブルを設えた洋間なのだから、アンバランスさに苦笑がこみあげてくる。
 玄関に出迎えてくれたのは中垣内と彼の美しい妻だった。
 洋也は結婚式に招かれた時に会っただけだったが、数年たった今でも、彼の妻は時の流れを止めているのかと思うほどに美しかった。
「お招きありがとうございます」
 洋也が挨拶すると、はんなりと笑った美人は、夫とともに洋也をもてなしてくれた。
「普段はお客様に来ていただくときは、料理していただく方に来てもらうのですが、今夜は私に作れと主人が言うもので、お口に合うかどうか自信がないのですけれど」
 中垣内の妻は申し訳なさそうに、料理を運んできた。
「三池は仕事のことで来てもらったんじゃないし、俺たちだけでもてなしたかったんだ」
「ありがとう」
 どんな豪華なもてなしより暖かいその心配りに、洋也は感謝した。
 シャンパンで乾杯し、暖かい心尽くしの料理を食べる。
 和やかな会話と心地好い音楽は、断ったものの、つい秋良も連れてくればよかったと後悔するほどだった。
 それは中垣内夫婦の、睦まじい様子を見せられたからかもしれない。
 仲の良い二人を見ていて、洋也は二人の指に目を惹きつけられた。
 それぞれの左手の薬指に光るもの。自分たちの関係では、誓約として交わせないものが光っていた。
「どうかしたか?」
 急に黙り込んだ洋也に、中垣内が心配げに声をかける。
 なんでもないと誤魔化して、洋也はグラスに残っていたワインを飲み干した。
 すぐに中垣内の妻が新しいワインを注いでくれる。
 その指でリングが銀色の輝きを放っていた。


 秋良の指のサイズは知っていた。
 以前に一度、指輪が欲しいと思ったこともあるのだ。
 けれど秋良の仕事のことを考えれば、それを贈る事は躊躇われた。
 身につけてもらえない、どこかへしまいこんでおく物を贈るよりはと、プレゼントはいつも別のものを選んでいた。
 しかし本音は、……二人の関係の証として、そんなものでも証になるのなら、秋良を繋ぎとめる形になるのなら、どんなものでも欲しいのだ。
 翌日、洋也は気紛れを自分に装って、宝石店を訪れた。
 時計を買って、定期的にメンテナンスを頼んでいる店なので、店長は慣れた様子で洋也を奥のソファーセットへと案内し、ビロードのトレイを差し出した。
「いや、見せて欲しいものがあるんだ」
「新しいものをお考えですか?」
「マリッジリングを見せて欲しい」
 店長は少し驚いたようだが、おめでとうございますとすぐに平静を取り戻して、展示ケースから数点を選んできてくれた。
 洋也の好みを把握した、シンプルながらも綺麗なデザインの指輪だった。
「お相手の方のお好みもあるでしょうが、こちらのラインですと、あまりそれらしくなくつけていただくこともできるかと思います」
 店長が勧めたのは、それほど細くもなく、プラチナとホワイトゴールドを重ねてファッションリングのようにデザインされたものだった。
「これでしたら、そちらの時計と同じデザイナーがデザインしたものですから、違和感なくファッションとしてつけていただけますよ」
 以前に二人揃えて時計を買い、メンテナンスも二人分を持ってくるので、店長はそんな事情も良くわかってくれているだろう。
 確かに、一人でつけていても、マリッジリングとは見えないかもしれない。
 サイズ直しを頼み、会計を済ませて、店を出た。
 気に入ってもらえるかはわからない。身につけてもらえるかの自信もない。
 けれど、もう買ってしまったからと、自分に言い訳する。


 部屋中に花を飾る。
 まだ主の帰らないサンルームは花の香りが充満する。
 ミルクはその匂いを嫌がって、サンルームに近づいてこない。
 食事もここで食べられるように、二人用のテーブルセットを運んである。
 すべてが整っていることを確認して、部屋を出る。
 リビングへ戻るところに、ちょうど玄関が開いた。
「おかえり」
「うわ、びっくりした。ただいま」
 秋良は玄関でジャストタイミングで出迎えた洋也に、笑顔で応えた。
 その笑顔をもっと近くでと、洋也は靴を脱いだばかりの秋良を抱きしめる。
「どうぞ、こちらに」
 お帰りのキスをしてから、秋良の手をとって、サンルームへとエスコートする。
「何してんの」
 秋良は笑いながら、洋也にエスコートされるままに自分の巣へと入った。
「すごい! 洋也からいい匂いがすると思ったんだ。これだったのか」
 秋良はサンルームを眺め回してから、くるりと洋也に振り返った。
「誕生日おめでとう、秋良」
「ありがとう」
 嬉しそうな笑顔の秋良を、洋也は部屋の中央へと導き、お気に入りのロッキングチェアーに座らせる。
 背を倒さずに浅く腰かけた秋良は、横に膝をついた洋也を見た。洋也はひどく真剣な顔をしていた。
「どうしたの?」
 首を傾げる秋良の手をとって、洋也はごくりと息を飲み込んだ。
「秋良、愛してるんだ」
 改めて真剣に言われると、どう答えていいのかわからない。それでも、いつものように茶化すことも、誤魔化して逃げることもできなかった。
「洋也……?」
「秋良は怒るかもしれないけれど、あの時の秋良を思い出すんじゃなくて、僕は秋良自身がいなくなるかもしれないって、いつも不安なんだ」
「……どうして」
 洋也の告白は、自分が信じられないのかと、秋良を悲しくさせる。
「それは、僕が今まで、人を信じることができなかったからだと思う。誰も信じられなくて、人を愛したのも秋良がはじめてだから、失くすのが怖いんだ」
「僕はいなくなったりしない」
 秋良は洋也の手を握り返した。
「でも、いつか僕のことを嫌いになるかもしれない」
「ならないよ」
「うん、秋良を信じてるよ。でもね、不安なんだ。僕には秋良を繋ぎとめるだけの魅力があるだろうかって」
「洋也は優しいよ」
 洋也は口元に淡い笑みを刻み、秋良にだけねと言い訳のように呟いた。
「僕の不安が秋良をも不安にさせる。形のあるものが欲しいと願ってしまう。男女なら、籍を入れることができる。だけど、僕たちにはそれができない。だから……これを買ったんだ。貰ってくれるだろうか」
 洋也はテーブルに乗せていた小さな箱を取った。
 中から深紅のビロードのケースを取り出し、蓋を開けた。
 二つの煌めきを、秋良はじっと見つめる。
「秋良は仕事もあるし、ずっとつけて欲しいとは言わない。休みの日に気が向いたときにつけてくれればいいんだ」
 秋良は指輪と洋也を見比べ、ふっと笑った。
「つけてくれないの?」
 差し出された左手。洋也はその手を迎えた。
 秋良の指輪を取り出し、その薬指にゆっくりとはめる。
 細い指を飾った指輪は、部屋の明かりをきらりと弾いた。
 その甲に、洋也は恭しく口接ける。
「ありがとう。僕にも、貸して」
 秋良はケースを受け取り、残っていた指輪を手にとった。
 それを明かりに透かしてみる。
 リングの内側には、今日の日付と秋良の名前が刻まれている。秋良のほうには洋也の名前が刻まれているのだろう。
 洋也の手を取って、薬指にはめた。
 洋也がしたのと同じように、甲に優しいキスが降りてくる。
「秋良、ありがとう」
「これで、僕がどこかに行くなんて、少しでも疑ったら、許さないからな」
 秋良は乱暴に洋也に抱きついてくる。
「秋良、……愛してる」
「……知ってる。僕は、それを、疑わない」
 責めているような言葉だったが、それが秋良なりの愛の表現だとわかる。
 洋也は手に入れた幸せの形を、二度と離すまいと、強く、強く抱きしめた。