三池洋也氏の地球最大級の悩み

 
 
 
 夏の気配も消え、空が高くなり、雲が細くなっていく10月に入って、洋也は深刻な悩みを抱えていた。
 それは10月の末、大切な大切な恋人が誕生日を迎えるという事だ。
 もちろん、洋也は気持ちをこめてお祝いをするつもりでいるのだが、さて、今年は何をプレゼントしようと考えて、…………何がいいのか思いつかないことが、洋也に軽い衝撃を与えた。
 直接恋人に『誕生日に何が欲しい?』と聞けばいいのだが、そうすると要らぬ遠慮をして、絶対答えてくれない。
 いっそ、車が欲しいとか、家が欲しいとか言ってくれたほうが、遠慮されるよりはましである。
 かといってそれとなく聞くと言うこともかなり困難なのである。洋也の恋人は、ちょっと……、いや、少し……、わりと……、天然なところがあって、『歯磨き粉が欲しい』とか平気で答えそうなのである。
 ちなみに『秋良、今、何が欲しい?』と念の為聞いてみたところ、『今? 靴下が欲しいんだよなー。週末に買いに行かなきゃ』と、歯磨き粉よりはましな答えを聞かされた。
 誕生日に靴下というのも……なので、それは週末を待たずに買ってきてあげた。
 どうしてこんなに悩むのかというと、それはもちろん恋人の笑顔を見たいからである。それもとても驚いて、こんなのが欲しかったんだと、ものすごく喜んでくれる笑顔が見たい。
 もちろん靴下を買ってきたときも『ありがとう』とニッコリ笑ってくれたのだが、それよりももっと、思いもかけないものを贈られた時の驚きと喜びの笑顔……それが見たいのである。
 で、結局は何も思い浮かばない。という情けない日々を過ごしている。
 秋良が学校に出かけて、洋也は仕事をするために自分の部屋へ行こうとしたとき、リビングの掃き出し窓の近くで、ミルクが丸くなって寝ていた。
「ミルク、寒くないのか?」
 洋也が声をかけると、ミルクはよほど眠いのかしっぽを揺らせただけだった。
 しばらくパソコンと向き合って、飲み物を取りに出て来た時、ミルクは相変わらず同じ場所で寝ていた。
「まだ寝ているのか?」
 洋也が声をかけると、顔を持ち上げたが、またすぐに丸くなる。
 その後、2度3度と洋也が通るたび、ミルクはずっと掃き出し窓の傍で寝ている。
「自分のカゴのほうが暖かくないのか?」
 何しろミルクの籠の中には、ミルクのお気に入りの<ブランケット>が入っている。
 そう思ってよく見ると、ミルクは「同じ場所」で眠っているのではない事がわかった。
 窓から指し込む太陽の光の移動に合わせて、少しずつ移動している。
 洋也がミルクの横にしゃがんで、柔らかな毛並みの背中を撫でてやると、ミルクは嬉しそうに小さく鳴いた。
 そう言えば先週の休みに、秋良がミルクを抱いてこの場所で窓の外を眺めていたのを思い出す。
「二人で日向ぼっこをしていたのか?」
 洋也の問いかけに、ミルクは眠りを妨げられたのが迷惑だとでもいうように、短く鳴く。
 洋也も同じ場所から庭を眺めてみる。なるほど、ぽかぽかと暖かい。けれど少し何かが物足りない。
 あの時、秋良がミルクに何か話しかけていたのを思い出す。
 そう……、秋良は『雲が見えないね』とミルクに話しかけていたのだ。
 
 
 
 その日、秋良が帰ってくると、洋也はごく短く、『少し家を改装しようと思うんだ』と告げた。
「改装? どこを?」
 不思議そうに問う秋良に、洋也はリビングの隣の、普段は余り使わない客間だと言った。
「いいけど……、どうするの?」
「できてからのお楽しみ」
 洋也らしくない言い回しに秋良は首を傾げる。
「工事は5日くらいらしいよ。秋良が学校へ行っている時間に済ませてもらうようにするから。煩くないと思う」
「僕はいないからいいけど、洋也こそ、仕事中煩くないの?」
 それくらいは大丈夫と答えて、深く聞かれない様に、工事中、いかに秋良の目を現場から逸らせるかに専心する。
 そのためにはミルクが近づいちゃ危ないから、と悪戯好きな猫を利用させてもらって、現場を覗けないようにした。
 工事は予定通り、かなり強硬な日程ではあったが、なんとかその日の前日に終わった。
 だがもちろん、秋良には「まだできていない」と言ってある。
 
 そして、21日……。
 こちらもかなり強硬な日程で作ってもらった物をそこに運び込んだ。
 秋良の好きなバナナとチョコレートのケーキを作り、料理の準備も終えたところで、ミルクが玄関へ走って行くのが見えた。もう10分もしないうちに秋良が帰ってくる合図でもある。
 料理を温めるだけにして、洋也は『その部屋』へ花束を運び入れる。
「ただいまー。ミルク、いい子にしてたかー?」
「にゃー」
 パーティの準備を散々邪魔してくれた猫は、まるでそんな事をしていませんとばかりに良いお返事をしている。
「おかえり」
 洋也は笑いながら玄関で愛する人を出迎える。
 帰宅の挨拶にしては長く深いキスをすると、目元をピンクに染めて秋良が睨んでくる。もちろん、迫力はないどころか、かえってこちらの情欲をそそる視線になっているとは思ってもいないだろうが。
「秋良に見せたい物があるんだよ」
 そっと艶やかな髪を撫でると、秋良が「何?」と首を傾げる。
 洋也はその頬にキスをして、秋良の肩を抱いて、リビングの隣のドアを開けた。
「できたんだ……、…………っ、え、……うわぁー」
 部屋に一歩足を踏み入れた秋良は感嘆の声を上げる。
 少し狭い客間が庭へ迫り出し、正面とその両側はガラス張りになっている。そして、迫り出した部分の屋根も。
 窓から見える庭も、和風だったのが、英国カントリー風になっている。惜しいのは今が日暮れ時で、明るいその緑が見えない事だろう。
 洋也は部屋の灯りを調節して、庭の明かりのほうがよく見えるようにしてやった。
 そうすると、屋根のガラスを通して、星空が見えた。
「綺麗……」
 都会の空は別荘ほどの星は望めないが、それでも空が広く感じられる。
 そして洋也はさらに灯りのトーンを落し、部屋の中央のテーブルに乗せたキャンドルに火をつけた。
 薔薇の花束が灯りに揺れる。
「洋也?」
「誕生日おめでとう、秋良」
 背中からそっと抱きしめる。大切な大切な秋良を。
「これ、もしかして、僕のために?」
 秋良の声が揺れる。思いもかけない物を贈られて、嬉しいのだが、あまりにプレゼントが大きくて困っているという声である。
「秋良へのプレゼントは、この部屋じゃないよ。……これ」
 洋也は秋良をテーブルの向こうへと誘う。部屋に入った途端、その景色に驚いて秋良が見逃していた物。
 白い布をかけられた細長いベッドのような物に、小さな花束が置かれている。その花束を取り、秋良に手渡す。
「カバーを取って」
 洋也に耳元で囁かれて秋良は白い布を外した。
「あっ!」
 それは白木の椅子だった。座面に柔らかなアイボリーの皮が敷かれていて、リクライニングを深くすると、ほとんど平らになる。脚には緩やかなカーブを描く半弧がついているので、気持ちのいい揺り椅子になるだろうと予想できた。
「どうぞ」
 洋也が手の平で秋良に座るように促した。
「ありがとう、洋也」
 秋良は花束を抱いたまま、そのロッキングチェアーに座った。
 横で洋也が腰を落として、そっと椅子を揺らす。
「きっと、お昼だと、ぽかぽかと気持ちいいよね。雲も見えて……」
 秋良の言葉に洋也は笑みを深くする。
「気に入ってくれた?」
 秋良は深く頷いて、「とっても」と洋也に微笑みかける。
 その笑顔が嬉しくて、柔らかな唇に、そっとキスを落とした。
 
 
 
 
 洋也はまだわかっていなかった。いや、別荘で学習するべきだったのだ。
 秋良がいかに「秋良の巣」を気に入ってしまっているのかを。
 休みの日はいかに秋良をその場所から自分の腕の中に取り戻せばいいのか、苦労の日々は、この時から既に始まっていた……。