E−mail
 
 
 机の上に置いた携帯電話を確認する。着信もメールもない。ずっと目の前にあるのだし、音も切っていないので、確かめるまでもなく、何もないことなどわかりきっているのに、それでも確認してしまう自分が情けない。
 待っているのは恋人からの連絡だ。
 別に喧嘩をしているわけではないし、約束をしているわけでもない。
 ただ単に連絡をして欲しいだけだ。
 久志は今、大学のテニスサークルの仲間と一緒に、合宿に行ってしまったのだ。行ったきり、もう三日になるが連絡がない。
 考えてみれば、離れ離れというのははじめての体験になる。
 高校時代は常に自分が担任として傍にいた。久志の行動のうち、あらかじめわからないことなど何もなかった。
 それが大学に入った途端、久志の態度は冷たいし、こちらから聞かない限りわからない予定が多い。そもそも大学の時間割も、テストの日程も、色々と知らされていない。
 四月のうちは自分も新しい学年を持って忙しく、擦れ違っていても仕方ないと思っていたが、五月、六月とたつうちに、久志に素っ気無くされると、不安が押し寄せてくる。
「あー、駄目だ。我慢ができない」
 怜一は携帯を手にとってメールを打ち始めた。
【元気にしてるか? 合宿は楽しいか? 帰り、迎えに行こうか?】
 ちょっと情けないかなと思いつつ、取り繕うことはできなかった。
 メールを送ると、今度は返事が来ないものかと、じっと携帯を見つめてしまう。携帯に穴があいてしまいそうなほどに。
 じりじりと待ってみるが、返事は来ない。これ以上は精神力が持たないと、怜一は携帯を充電器にセットしてお風呂に入ることにした。
 お湯につかりながら、帰ってきたら連絡ぐらい入れろよと怒ってやろうかと考える。実際に本人を目の前にすれば、そんなことができるわけもなく、無理にも大人の余裕で楽しかったか?と聞くのか精一杯だ。
「そんなに大学って楽しいかねー」
 完全に不貞腐れた我が侭だが、どうにも言いたくなってしまう。
 サークルなんて辞めてしまえ。バイトも辞めてしまえ。学校が終わったらずっとここにいろよ。
 きっとどれにもあの可愛い顔で、ふっと覚めた笑みを浮かべて、首を横に振るに違いない。
「幼稚園のへーちゃんに戻したい」
 誰かに聞かれれば逮捕ものの危ない台詞だが、怜一にとっては半ば本気が混じっているのだから危ない。
 お風呂から出て、バスタオルを腰に巻いたまま、冷蔵庫から冷えたビールを取り出す。半分ほどを一気に蒼って、濡れた髪を拭きながら携帯電話を見ると、メールが届いていた。
「お、やっと来たか?」
 いそいそとメールを開く。
【元気にしています。合宿は楽しいけれど練習がきついです。帰りは明日の夜になるので迎えはいいです。電車で帰ります】
 聞かれたことのみの返事。同じ会社を使っているのに、絵文字も顔文字もない。
「あー、ほんと。高校生の久志でもいいや」
 本人には絶対聞かせられない台詞のまま、怜一は残りのビールを飲み干した。

 翌日の夜。
 夏休みだがそれでも色々とやることはあるので、学校に行って精力的に仕事をした。どうせなら、悶々と久志のことばかり考えなくてもいいようにしようという、情けない企みもあった。
 ギリギリまで残業をして家に帰ると、マンションの鍵は開いていた。
「お帰りなさい」
「あ、あぁ、ただいま。お前、遅くなるんじゃなかったのか?」
 久志は不思議そうにいいえと否定する。
「電車で帰るって言ったでしょう?」
「そりゃあ、まぁ、そうだけど。なんだ、早く帰るのなら、俺も早く帰ってきたのにな」
 久志は合宿先から直接ここに来たらしく、大きなボストンバックとラケットバッグがリビングの隅に置いてある。
「家には連絡してあるのか? あとで送ってやろうか?」
 自分に連絡がなかったので、つい家のことまで心配してしまう。
「先生、冷たいですね。追い返すんですか?」
「は? そんなわけないだろう? でも、今夜はさすがに帰らないとまずいんじゃないのか?」
 冷たい態度をとりながら、送っていくといえば冷たいと責められる。怜一は笑いながら、久志を抱き寄せた。
「家には連絡を入れました。今夜はここに泊まるつもりだったんですよ」
 あまりに嬉しい台詞は、もしかしたら幻聴なのではないかと思ってしまう。
「じゃあ、帰さない」
 一緒に暮らしたい。そういう想いは強い。
 久志を独占したいと思いつつ、それを要求できないのは、もう少し、せめて世間の子供たちが親元にいる学生時の間は、こんな男の傍にいることを許してくれた久志の両親から奪って来るのは申し訳ないと思うからだ。
「先生、食事は?」
「済ませてきたよ。何か作ろうか?」
「いいえ。先生が済んでいるのならいいんです」
 久志は怜一の胸に体重を預けてくる。
「どうしたんだ? 今日はやけに可愛いな」
 本音を漏らすと、久志も自覚があったのか、小さく笑う。
「こんなに離れていたのって、初めてだなって。喧嘩した時でも、別れていたときでも、いつも先生はいたし、会えないときでも距離は近かったから」
 同じことを考えていてくれたのかと思うと、とても嬉しくなってしまう。
「でもお前、全然連絡もくれなかったぞ」
「それは……本当にへとへとだったから。それに……」
「それに?」
 言葉を止めた久志に続きを促す。けれど、怜一は答えがわかっているような気がした。
「それに……、内緒」
 可愛い台詞に唇が緩む。
 冷めた大人の態度をとっていても、久志の本質が変わっているわけではない。
「俺と同じ気持ちだったってことでいいか?」
「いいんじゃないですか?」
 声を聞けば逢いたくなる。帰りたくなってしまう。迎えに行きたくなってしまう。
 気持ちが同じなら、離れていても、お互いを見失うことはないはずだ。
「会いたかったよ、久志」
 怜一は微笑んで、恋人の大きな目を閉じさせるように、優しいキスをした。