Friend
 
 
『元気か?』
 かかってきた電話の声は少し沈んでいるように聞こえた。
「何かあったか?」
 挨拶やご機嫌伺いなどは飛ばして話す。
 どちらも理系の人間で、アメリカで暮らした時の合理主義が、必要な言葉だけを繋げようとする。もちろん、それでお互い楽なのだから、何も問題はない。
『別に。久しぶりに飲みに行かないか?』
「…………いつ?」
『…………今夜』
 唐突な誘いに、一瞬断ろうと思いながらも、普通ならこんな誘い方をする奴じゃないと思い直し、洋也は「どこで?」と了解の意を示した。
『DreamRingがいいな。何時なら出て来れる?』
「何時でも」
『7時でもいいか?』
「わかった」
 サンキューと小さな声が聞こえたと思ったら、すぐに電話は切られた。よほど急いでいたのか、かけ辛い場所からかけていたのか。
 切れてしまった電話を眺めてから、洋也はそのまま番号を押す。
 携帯は留守番電話になっていたが、秋良は授業が終わって時間ができるとかけ直してくるので、洋也は待つことにして、その間に夕食の準備をしておくことにした。

「珍しいな。そっちから誘うなんて」
 洋也が店に着くと、怜一は既に来ていた。
「変わってないな」
 洋也は怜一の飲むカクテルをみて、ほんのわずか微笑を口元に乗せる。
「ジン・リッキー」
 洋也はオーダーを取りにきたウェイターに、二人でよく飲みに行った時に頼んだカクテルを頼んだ。
「お前も変わらないじゃないか」
 怜一は自分の頼んだマタドールというカクテルを、目の高さに持ち上げる。それはアメリカ留学中に怜一が好んで飲んだカクテルだった。
「つられたんだよ、そっちに」
「ずいぶん変わったよな、洋也は」
「そうかな。……でも、怜一も人の事は言えないよな」
 出会ったのは、お互い、まだ大学生の頃。それも、日本から離れたアメリカで。
「第一印象は……」
 怜一が言うと、洋也は苦笑しながら答えた。
「偉そうで暗いヤツ」
 顔を見合わせて笑う。
 最悪の印象で出会いながら、自分に似たものを認めたのだろうか、急速に打ち解けた。
 洋也は夏休み期間中の短期の滞在だったが、怜一の通う大学の知人を訪ねて知り合った。
「日本人には見えなかったよな」
 怜一は当時のことを思い出しているのか、スマートなグラスを傾けて、その中身を覗き見る。液体の向こうに、アメリカの風景が浮かんでいるかの様に。
「ドミニクがお前の名前を呼んで、日本人なのかと驚いた」
「どうしたんだ、急に?」
 昔の話を持ち出すなんて、怜一らしくない。
 アメリカにいた頃は、数学の教師を目指すのだときっぱり言いきり、洋也はそれに反対した。
 ドミニクというのは怜一の指導教官で、彼にアメリカに残り研究員になるように説得していた。
 それを断っている理由が、高校の数学の教師になりたいからだと知り、洋也は呆れると同じに、その才能を惜しんだ。
「もう、高校の教師は辞めたくなったのか?」
「今でも反対するのか?」
 どうにも歯切れの悪い怜一に、洋也はそれでも真剣に答えた。
「今は反対しない」
「それは、秋良君がいるから?」
 確かめるように聞く怜一に、洋也はふっと笑って、返事を避けた。
 怜一は目の前の男がこうも変わったことに、かなり驚いていた。
 何事にもクールというよりは、むしろ無関心で、怜一に対する説得も、まるで説得の見本のような台詞を並べているようだった。
 あれならドミニクのように、情に訴えられた方が、断るのに苦労する。
 そんな洋也と、何故か気が合って、洋也が帰国してからも、そして怜一が帰国してからも、こうして年に数度、顔を合わせている。
 日本で会っても、洋也のクールさは変わらなかった。どちらかというと、日本に帰ってからのほうが、冷たく感じられるほどだった。
 それがある時、驚くほどに変わっていた。
 洋也自身は気づいていないようだったが、その空気がまるで違っていたのだ。
 人を撥ね付けるようなオーラが消えたといえばいいのだろうか。近寄りがたい雰囲気はあるが、誰をも寄せ付けないというのはなくなった。
 そして時折、友人である怜一にも笑顔を向けるようになった。それが実は一番の驚きではあったけれども。
「そういう理由じゃないさ」
 洋也が選んだ恋人は、学校の教師という職業を持っていた。
 それだけで、怜一の人生を否定も肯定もしない。けれど、実際に教師となった怜一を見てからは、反対する気持ちにもなれなかった。
 その理由を知ってからは、特に。
「秋良君は、今夜は?」
「家で待ってる」
 洋也が劇的に変わったその理由が、恋人ができたからだと知って、怜一は妙に納得した。
 人と寄り添うということが想像できなかった洋也が、誰かを選んだということに感動すらした。しかも、既にその相手と一緒に暮らしていると知って、その相手を見たいと、真剣に思ったほどだった。
 その相手が男だと知って、怜一はつい、ずっと隠してきた本音を漏らしてしまった。
 …………男を好きになって、気持ちにブレーキはかけなかったのか? と。
 洋也の答えは明確だった。
 …………ブレーキをかけられるくらいなら、最初から惹かれはしない。
 それを聞いて、怜一は不覚にも涙ぐんでしまった。
 何度も「やめろ」と言い聞かせ、気持ちを切り捨てようとした。
 けれどどうしてもできなかった。会えないのに、想いは募るばかりだった。
 相手がどこにいるのかも、わからないのに。
「…………春に、入学して来るんだ。…………入学試験の時、ちらりと見た」
 自分が好きなのは、幼い頃出会った、小さな男の子だと打ち明けた時、洋也は少なからず驚いたようだったが、それで怜一に対する態度を変えたりはしなかった。
『苦しかっただろ?』
 自分の作るコンピューターのようだと言われた男が、怜一の気持ちを汲む発言をしてくれたことで、心にのしかかっていた重石が少し軽くなったような気がした。
 自分でさえ、自分の気持ちを認めてやれなくて、苦しんだ日々に、怜一はその時、別れを告げていた。どんな結果も受け入れるのだと決めることができた。
「どうだった?」
 静かな問いかけに、怜一は覚悟を決めるように、グラスの残りを一気に飲み干した。
「すごく……、変わってた。そりゃ、そうだよな。幼稚園が高校生になるんだから」
 空のグラスを包み込むように持つ。
「でも……、でも……、すぐにわかった。……一目でわかった……」
 洋也は何も言わず、自分のカクテルを口に含む。
「怖いんだ。……会うのが」
 グラスを見詰める怜一の姿を、洋也は黙って見守った。
「きっと、俺の事なんか、忘れてる。会ってもわかってもらえない」
 ずっと逢いたいと願った相手に、もうすぐ会えるとわかって、それまでの忍耐が、恐怖となって押し寄せる。
「信じるしかないだろ?」
 ようやく洋也が口を開いた。
「信じるって、何を。俺とあいつの間には、信じられるようなものは何一つないのに」
「一度触れ合った心なら、届かないはずはないのだと」
 洋也の淡々とした言葉に、怜一ははっとした。
 今はどんな夫婦も顔負けだと思うくらい気持ちの通じ合っている二人だが、そうなるまでに味わってきたものは、並大抵ではないことを、怜一はあまり語りたがらない洋也から聞き出していた。
 お互いに思い合いながら、弟のために一度は気持ちを封じた。
 秋良が心を閉ざした時、全身全霊を賭けて取り戻した。
 どれも、出会った頃の洋也からは想像できないことだ。
「…………そうだと……いいな」
「館旗は、軽い気持ちで受けられる高校じゃないさ。それだけでも、信じられるデータの一つになりはしないか?」
「……洋也らしくない」
「何が」
「人を励ますなんてさ」
 らしくないと言われ、洋也が苦笑したところで、携帯が着信を知らせる。音は切ってあるので、ポケットの中で震えただけであるが。
「悪い、ちょっと」
「秋良君なら、ここに来るように言ってくれよ。どうせなら、可愛い顔を見て飲みたい」
 店の外へ向かう洋也の背中に声をかける。
 片手を上げたので、了解という意味だろう。
 カクテルをやめて水割りを二つオーダーした。
 恋人の前で甘い顔をする男と、照れる恋人を肴に、今夜はゆっくり飲んでやると決めた。帰りは送らせてやるんだと決め込む。
 入試の行われた先週からの緊張を忘れるほど酔いたかった。
 あの日から、目に焼きついた成長を遂げた久志の面影を消すほどに……。