九年の約束
 
 
  ××× 
・・・・へーちゃん、だいじょうぶ?
  ぶつかりそうになった男の子に、母親が心配そうに声をかけた。と、大きな手が子供を抱き起こした。ごめんなと謝って、ずれてしまった幼稚園のベレー帽を直す。
 男の子は自分を抱き起こしてくれた相手を見上げた。綺麗な紺色の学制服で、肩には少年が好きそうな肩飾り。
 高校生は優しい笑顔で、まだびっくりしている男の子を見た。目が落っこちちゃうぞと言うと、母親がいつもこんな大きな目なのだと説明した。
 すぎたひさしくんなのに、へーちゃんか? と、幼稚園の名札をつまんでいる。
・・・・うん……。
 力強い手が、少し乱暴に、帽子の上から頭を撫でていった。
 母親が駆けていく高校の背中を見て、へーちゃんもあの制服が着られるといいんだけどと呟いた。
・・・・うん!
 へーちゃんは元気に返事をした。
 
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 シャワーを浴びて寝室に戻ると、先客は仄暗い室内の壁際のベッドで、既に心地好い寝息をたてていた。
「おいおい」
 思わず、冗談だろと言いたいが、相手は貸してやったガウン姿のまま、身体を丸めて、すやすやと眠っている。
 やはりテスト明けに誘ったのはまずかっただろうか。いや、でも、テスト前もしくはテスト中だからと、こちらは禁欲のあおりをくったのだ。
 このたぎる思いをどうしてくれる……。
 恨みごとを言い募ってみても、相手は既に夢の中だ。
 起こすのは可哀想だと思ってしまうあたり、舘旗高校数学教師の中西怜一は、教え子であり恋人にしてしまった杉田久志を、情けないくらい愛して、大切にしているのだった。
「明日は責任とってもらうからな」
 そっと囁いて、布団を掛けてやる。久志はピクリともしない。
 柔らかな髪を撫でて、部屋を後にした。
「飲むか」
 そうでもしないと、とてもじゃないが眠れない。
 自分に苦笑を漏らして、怜一は冷蔵庫からビールを取り出した。
  
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・・・・お兄ちゃん、いってらっしゃい!
 小さなへーちゃんは、毎朝元気に挨拶をしてくれる。
 ところが、その日に限って、へーちゃんはお母さんのうしろに隠れてしまった。
 高校生は心配そうに、へーちゃんにしんどいのかと尋ねた。それでもへーちゃんは出てこない。少年は根気よく声をかけた。
 お母さんがとても申し分けなさそうに、高校生に尋ねた。彼のカバンについているウルトラマンのキーホルダーがどこに売っているのかと。へーちゃんが同じ物を欲しがって、玩具屋さんを探したが見つからなかったのだと言う。
 高校生は言い難そうに、それは自分が造ったので、売っていないのだと説明した。それを男の子に伝えるが、小さな彼が納得できるわけもなく、やはり隠れてしまったまま出てこない。母親のスカートを握りしめた手が、泣くのを我慢しているのだと教えている。
 高校生は苦笑いして、自分のカバンにつけていたキーホルダーを外し、へーちゃんに欲しいのかと訊いた。
・・・・うん……。
 男の子はそっと顔を出して、小さく頷いた。その様がとても可愛かった。
 へーちゃんにあげるよ。高校生が男の子にウルトラマンを手渡した。
・・・・ほんとにいいの?
 男の子は大切そうに、両手でそれを抱きしめた。
 母親は子供の躾のためにそれを返すように言い、キーホルダーを取り上げようとした。
・・・・やー。これもらったもん。ぼくのだ    もん。
 へーちゃんはますますキーホルダーを抱きこんだ。けれど、いつになく母親に「ひさし!」と名前で叱られると、その大きな目からポロポロと涙を零し始めた。そして大事そうに、両手の中の物を元の持ち主に差し出した。
 高校生は男の子の涙に胸を痛め、へーちゃんのカバンのほうが似合うよと言って、ウルトラマンのキーホルダーを幼稚園の黄色いカバンにつけてやった。
 へーちゃんは涙の痕をつけたままでニッコリ笑って、大好きなお兄ちゃんに抱きついた。彼は驚いたけれど、そのまま抱き上げてやる。
・・・・たかーい、たかい!
 へーちゃんは無邪気に喜んでいる。
 早く大きくなれよと、高校生は小さな望みを口にする。
・・・・うん、ぼく大きくなったらね、お兄ちゃんと一緒に学校へ行くの。待っててねっ。
 高校生は寂しそうに笑った。
 
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 キッチンのテーブルの上に、久志が置いたのか、ウルトラマンのキーホルダーが数本の鍵を付けて、威勢のいいポーズをとっていた。
 口に煙草を銜えたまま、怜一はそのキーホルダーを手に取った。チャラチャラと音が鳴る。
 ところどころは色が剥げているが、久志の手に渡ってから九年も経つのに、それは状態を綺麗に保っていた。久志がどれだけ大切にしているのか窺い知ることが出来る。
 鍵の束から一本を選んだ。それは先日渡したばかりの、この部屋の鍵だった。まだ久志は自分でそれを使ったことはない。照明をうけて、それは銀色に光った。
 煙草の灰を落として、缶ビールを口に運んだとき、ドアが静かに開いた。
「起きたのか?」
 久志が気まずそうにそこに立っていた。手招きしてやると、怖ず怖ずと近づいてくる。
 ソファの隣に座らせると、そっと肩に頭を凭れさせてきた。まだどこが眠そうな仕草だった。
「起こしてくれれば良かったのに」
 時計は既に十二時を回っていた。自分がどれだけ眠ったのかを知って、久志は少し後ろめたそうに言った。
 少し目を閉じて心を落ち着けるだけのつもりが、はっと気がつくと、仄かに灯っていた照明は完全に落とされ、暖かな布団の中で熟睡していた。一瞬、自分がどこにいるのかわからず、辺りを見回して、怜一の部屋にきていたことを思い出したが隣に彼の姿はなく、壁の時計に目をやると、うたた寝という範囲を過ぎる時間を眠っていたことを知った。
 別にそけだけが目的ではなかったが、交代で浴室に入る彼に、寝室で待っていろと言われたのは、並んで眠るだけではないと十分知っている。もう、そういう関係なのだから。
「起こすのが不憫なくらい、よく眠っていたんだよ。それにな、そんなに義務を感じなくてもいいんだぞ」
 怜一の台詞に、まだ慣れない恋人は真っ赤になって俯いた。
「おいおい。教室じゃ、もっときわどい猥談とかしているんじゃないのか?」
 そんなに純情な反応をされると、大人のはずの自分まで照れてしまうではないか。
「だって、明るいところで大勢でするのと、先生に言われるのとじゃ、全然違う」
 それくらいの区別はついているのだとわかって、怜一はほっとした。ともすれば、この恋人は、先生に言われるからベッドの相手を断れないのではないかと思ってしまうのだ。そう思うことが恋人に失礼だと思うが、久志が相手では、そんな心配がよぎってしまうのだ。
「今日はもう寝よう。テスト、頑張ったんだろ。ゆっくり寝るといい」
 怜一は寄りかかる身体を優しく抱いた。こんな日に無理をさせたくなかった。大人の余裕を保っていたくもあったし。
「眠りたくない……。まだ……」
 聞き取れないほどの小さな声を、怜一は聞き漏らさなかった。それが精一杯の、久志の意思表示だったから。
 怜一は嬉しそうに微笑んで、クラスで一番小さな久志の身体を抱き上げた。
 
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・・・・リュウガク?
 男の子は初めて聞く言葉に、首を傾げた。
高校生が子供を抱き上げて、留学の意味を説明した。
・・・・もう、会えないの?
 今にも泣きだしそうな男の子の表情に、高校生はあわてて、少しの間だけ、へーちゃんが小学生になったら戻ってくると言い足した。
・・・・ぼくね、もうすぐ一年生になるの。
 子供は意味もわからず、得意そうに笑った。
・・・・早く帰ってきてね。
 子供が小指を出した。
・・・・約束だよ。
 一年で果たせるはずの約束だった。
 でも、へーちゃんは知らなかった。お兄ちゃんの留学が一年もかかるということを。
 高校生も予測できなかった。子供の家族が引っ越してしまうことを……。
 
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 幾度かの触れ合うだけのキスの後、唇を舐めるとようやく薄く開かれた。舌を侵入させると、恐々と迎えの舌が触れ合う。
 少し焦れったく思いながらも、辿々しい相手の応えが嬉しくもあった。
 強く吸ったり、恋人の甘い舌を舐めたりしているうちに、久志が甘い声を漏らし始める。その声が合図のように、ガウンの袷から手を忍ばせていく。
 久志は怜一の首に腕を回して抱きついた。何かにしがみついていなくてはいられないというように。
 なめらかな、あまり肉のついていない胸を、怜一の手が滑っていく。暖かな温もりが嬉しくもあり、熱く火がつく感触が怖くもあった。
 胸の飾りを発見されてしまい、そこで指が止まる。久志はより強く恋人に縋りついた。
「どうした?」
 そんなことは訊かないでほしい。
「怖いか?」
 久志は首を振った。くすりと、怜一の笑う気配がする。
「愛してるよ、へー」
 幼い恋人が予想以上に恥ずかしがるのを承知で、照れ臭い台詞もそれを楽しむように言える。
「先生……」
 胸を弄ぶ手と、耳元で囁かれる熱い台詞に、久志は悲鳴に似た声を出す。
 首筋に唇を落としながら、久志のガウンの紐を解いた。下着の中に手を潜らせる。
「や……」
 久志は自分の喉に降りた怜一の髪をつかんだ。それでも怜一はどんどん唇を下へ移動させていく。
「んっ……!」
 乳首を口に捕らえられたときには、怜一の肩を押し返していた。そんなことで怜一がやめてくれるはずもなかったが。
 やはり怜一は丹念に、すったり、舐めたり、丁寧に噛んだりまでしている。
 その間にも、手は侵入を果たした下着の中で、固くなり始めた久志をつかみ、緩急をつけて遊んでいる。
「ああ……」
 久志はひっきりなしに声を漏らしている。
 怜一はするりと久志の下着を取り払った。怜一の手がより大胆に動き始める。
「もう、……もう」
 久志の声に哀願が交じり始めた。
 怜一は伸び上がり、喘ぐ恋人に優しく口づけた。久志は渇いた喉を潤すように、怜一の唇を吸った。
 怜一は握りしめた久志を強く追い上げながら、自分の欲望が愛しさを超えていくのを自覚していた。
 優しく愛して包んでやろうという予定は、予定だけに終わると、そんな自嘲の思いは、今夜も、欲望の中に埋もれていった。
 
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 小さなへーちゃんと、大切な、大切な約束をした。
 そして……。
 約束が果たされるのに、九年の歳月が費やされた。
 
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