1999年9の月、母親をつれて、かねてより行きたかった北海道へ行って来ました。私にとっては、いつも家事をしてくれている母へのお礼心のつもりだったのですが、母にとっては、このいつまでも一人で勝手気ままにしている娘に、あちこち振り回されて大迷惑だったかもしれません。 ともあれ、何とか無事、帰って来ましたので、お土産代わりに、どたばたの顛末をここにご披露致しましょう。 なお、今回の旅行はJTB社のツアー「北海道大自然号登別温泉と港町小樽3日間」に参加しました。JTBの皆様や三洋交通のガイドさん、運転手さん、心よりお礼申し上げます。 |
1.1日目、登別温泉の巻 9/16 |
飛行機は全く始めての母と、4年前、イタリアへいきなり行ったっきり(未だに聞いた人からむちゃくちゃなと言われます)、国内線は始めてという私が、一度しか行ってない名古屋空港へ。(イタリアの時は関西空港だった。余談だが、父がまだ生きていたので父の運転で始発の出る「上小田井」まで送ってくれた。なんと日本を発った翌日、関西・淡路大震災が起きた。心配を掛けたが、関西空港は無事。予定通り何とか帰ってきた。あまり無茶苦茶なので、今も私を知る人から呆れられる) |
前回は、搭乗手続きは添乗員さん任せだったが、今回は私がしなければならない。根っからの慌て者の母と正反対ののんびり屋の娘。そこで、今回は時間に関しては母のペースに私が合わせることにした。かなり無理をしなければならないと思ったが、何のことはない、毎日会社にでているとき、3電車遅れても間に合うのに、何故か、早く行っている。しかし、早く行きすぎて、1時間も空港で待たなくてはならなかった。ここでも、いらいら待っている私(何が嫌いって「待つ」ということと「中途半端」程嫌いなものはない。ぎりぎりに行って間に合うとストレスが解消するのだ。ただし、期限に遅れたのは長野行きの列車が雪で遅れた1年前の待ち合わせ位だろう)と、悠々と「すずらん」を見ている母の対照的な親子がいた。 ところが、移動中は母の方が慌て出す。移動の時間をあらかじめ下見をして計算していた私は、悠々としている。その点では二人のいらいら度は同じだが、じつは母のペースに初めから合わせていたのでストレスは私の方がたまってしまったようだ、その証拠に、旅行前からどうも調子が良くなかったが、未だにぼーっとしている。 3日間、この調子でよく2人が喧嘩しなかったものである。 |
1日目は登別へ行くだけのスケジュールだ。千歳空港で3時間。ここは名古屋空港と比べるとずいぶん広く、土産物もそろっている。後でガイドさんが話してくれたことによると、ここで土産を買う場合は、表示してある生産地に注意して買うようにと言うことだ。なぜなら、全国の土産物がそろっているからである。3日目、少し時間があったので見たら、なんと、長崎の白きくらげから中村玉緒さんのキーホルダーまであった。幸い、1日目ここで買ったのはチョコとマリモとラッコのキーホルダーとシュークリームで、多分みな北海道産だろうと思われる。 飛行機を降りてツアーの人と待ち合わせ後、外に出て気がついたことだが、北海道の空気は、どんよりと湿気の多い名古屋の空気とは違う。似ていると言えばイタリアの空気に似た、からっとした空気だった。曇りと言う予報だったが、着いてみると綺麗な青空だった。 |
登別温泉までバスで。高速に入ったのだが、車が少なく、閑散とした状態だった。ガイドさんの話してくれたことによると、海水浴のシーズンの海辺以外は、渋滞なんてあり得ないらしい。その海水浴も、よほど暑い日でないかぎり海岸ではたき火をして身体を暖めてから海に入り、冷えたらたき火にあたるそうな。それから、狐の絵の標識が目立った。動物飛び出し注意という意味だろう。 |
ガイドさんのお話を聞きながら登別の旅館へ。本当は熊牧場があったのだが、温泉に先に入ったら、タイムアウトになってしまった。 折角の万病に効くという温泉なので私は2回入ったが、母は1回だけ。ああ、もったいない……。 |
2.2日目 洞爺湖と積丹半島、小樽の巻 9/17 |
翌日、母に釣られて、いつもより早く起きてしまった。朝食はバイキング。慣れている私は場所をとってまず、母を行かせて待っていた。しかし、こつが解らないうちの母は、和食をたくさん取ってしまっていた。私はイタリアでの経験から、残してはマナー違反だという事を知っていたので、簡単に食べられる洋食を選んだ。ちなみに、いつもの私は超がつくほどの和食党。母が目を丸くしていた。案の定、母は、残してしまった。 「マナー違反だよ。西洋では女王さんでも残さないからね」 と、そこは遠慮深い(?)私も前に注意したはずだが……、と言った。そのマナーはイタリアに行く前から本で読んだり、話に聞いたりした日本人の顰蹙を買うことの一つである。日本だからバイキングのお残りは許されるのです。外国、特に西欧ではどんなにフォークとナイフをうまく使っても、自分の取った料理を残すことは大人としての人格を疑われる程でありますぅ。みなさま西洋に行ったらご注意を……。イタリアから無事帰れたのは、マナー等を知っていたからと今でも思っている。 |
余談はさておき、急いで全部食べ、チェックアウトも自分ですませた私は母と、待っていたバスに飛び乗った。 |
その日も、綺麗に晴れていた。バスの車窓から、着いた所から、写真嫌いのはずの私は、デジカメのシャッターを切った。メカ音痴の母は、私がバカチョンを渡していたに関わらず、とうとう一枚もフィルムを使わなかった。もっとも、デジカメで何枚か私を撮ったが……。案の定、私が撮ったものも、母が撮ったものもぶれていたりしてロクなのが残っていない。 |
車窓より羊蹄山(左橋上の雲に隠れている山) |
まずは昭和新山。ここは昭和の初め、人々が見ている前で大きく盛り上がり、出来た火山で、中腹の火口からは今も湯気が出ていた。回りの緑の森と対照的なこけも生えていないような赤茶けた岩肌が強烈な印象だった。 |
昭和新山 |
そこに向かう途中、洞爺湖と羊蹄山が見えた。昭和新山を出発し、洞爺湖を半周する形で洞爺湖展望台に。洞爺湖の中の島の美しい景色を見た。次に羊蹄山のふもとへ。そこから積丹半島に向かった。行けども行けども、一面の豆の畑や収穫間近のジャガイモ畑、林檎畑や白樺、ダテカンバの林だった。 |
積丹半島は美しい深いブルーの海と、青い空の間にあった。海は見慣れているはずだが、このような深いすんだ色は始めて見る。半島の北端、カムイ岬にでる。 写真に取り損なってしまったが、ジョロッコ岩やマウンテンゴリラ岩他色々な形の岩があった。特に、ゴリラ岩は漫画の「ギャートルズ」に出てくる原人「ドテチン」に似ていたので、思わず笑ってしまった。 カムイはアイヌ語で神。その名の通り、神々しい巨石が切り立った岬である。そこの先端までは行けなかったが、海の透明度がすごく、まるで吸い込まれそうな色であった。そこを出て、美国で昼食を撮った。私は豪華にうに丼だった。母はあわび丼。うにが駄目である。やっぱり私は鬼っ子であろうか……。 ここでは写真を撮ろうとして堤防に登ったが、降りる時失敗して、転びそうになり足をちょいとひねったようだ。まあ、カメラは無事であったが……。ハマナスが、まだ白く咲いていた。 |
カムイ岬 |
美国から見た積丹岬 |
そこを出てようやく小樽の町に着いた。石原裕次郎記念館にはあまり行きたくはなかったので、小樽運河でバスを降りた。まず、北一のベネツィア美術館、五号館を見て、既に夕方になっていたので、小樽運河を横目に見ながら、小樽の駅に。札幌へ。札幌に着いて、明日は飛行機に乗って帰るだけと思い、せめてすすきののラーメン食べたいと思った。そこで、せっかくだからと思ってラーメン食べてきた。しかし、小食の母向きではなかった。ここでも親不孝ぶりを発揮してしまった。 ホテルについて、私も母も早めに眠った。しかし、3時頃起きた母が私に話しかけて来たのには参った。あまり腹が立ったので、怒鳴ってしまった。 私が本当に怒ったのは、この旅行中、これが最初で最後である。 |
3.3日目、札幌から無事帰るの巻 9/18 |
翌日もいつもの通りの時間に起きて、朝食をすませて、飛行機は昼からだから……。と鍵をフロントに預けて外出の形で近くの時計台へ。案外こじんまりとした建物だった。次に赤煉瓦の旧道庁舎へ。まだ朝が早いので、中は見られなくて、外で写真だけ撮ってきた。 |
時計台(なんか写り悪いよ) |
旧道庁舎 |
それで、ホテルまで戻って、11時までいようと思ったが、どうせ……。と母が言い出したので、札幌駅へ。それでも1時間以上待っていなければならない。そこで、待ってるのが嫌で、母ほどの方向音痴ではない私は、一人で大通り公園と写真の写りかが悪かった時計台へもう一度寄ってきた。大通り公園は、名古屋の栄になぜかそっくりだし、道が広いのも、似ているなあ。と思った。ただ、古い街の名古屋にないのは、どこまでもまっすぐな碁盤の目のような道路である。この街が、明治時代からの新しい街である事を道路が教えてくれている。古い街であるほど、たとえ戦争で焼け野原になろうとも、道は古い曲がりくねったものが残っている場合が多い。小樽も、坂が多かったが、道路は広かった。 |
大通り公園(雪祭りに行きたいなぁ) |
時計台(遠くから) |
そんなこんなで、定刻より1時間30分前に新千歳空港にたどり着いた私たちは、寿司屋で昼食をすまして、飛行機に乗った。やっぱり北海道は魚介類が美味しかった。 |
名古屋空港に着いたら、案の定小雨まで降っているどんよりとした空気。しばらく私は、頭が正常に働かなかった。気を落ち着ける為に機内でコーヒーを飲んだにも関わらずである。やっと、気を取り直したのは、家に着いた後である。 |
おわり 1999/9/26 自宅にて |