第8話 吉良の殿様は良い人だった? 忠臣蔵の謎

 日本人なら誰でも一度は、ドラマや芝居などで見たことがあるだろう。「忠臣蔵」。しかし、亡き私の父、それが大嫌いだった。いや、父方の一族、皆嫌いだろう。私も、どちらかというと、乱心した殿様になんかに忠義をたてたとて、仕方がないだろうと思っていた。事実、討ち入りだっていくら、少人数とは言え、寝込みを襲うような卑怯な戦法だ。後の措置の「切腹」も生ぬるい。「斬首」にすれば良いと思っていた。それに相手は「高家」。一応武家ではあるが、事務方である。いくら息子が養子に行って藩主になっている上杉家でも、当時厳封された赤字藩でそんなに警備は出せなかった。せいぜい、事前に藩主の母親で、吉良の正室である富子姫をかくまう事ぐらいしか出来なかった。養子にやった次男はそのままである。普通なら、父親が殺されたし、息子が大けが。なのに、世論なんかかまっていられない。当然、反撃に出ただろう。しかし、大人しく、幕府の沙汰を待った。
 その息子も偉い。自分の怪我をおして、立派に幕府の使者に事の次第を報告して、黙って流刑にされている。
 わが旦那のさくらんぼ、歴史には比較的ミーハーであるはずなのに、「忠臣蔵?ありゃ私闘だ。バカで娯楽のなかった当時の民衆に幕府の代わりに、吉良公は不満のはけ口にされたのよ」とばっさり。(鋭い)フランス革命時のマリー=アントワネットかよ。と、確かに私も気の毒になった。アントワネットも、実家の助けが間に合わず、民衆に殺されてしまった。
 その証拠に時代を室町時代に移した「仮名手本忠臣蔵」や派生作品の心中物が大はやり。事件があって十年も経たないうちに庶民の娯楽と化している。今でいうと、二十数年前のバブル絶盛期「ロス疑惑」で大騒ぎしているワイドショー的なものだろう。元禄時代とバブル時代、確かに似ているなあ。歴史は繰り返す?
 実は、私の父は吉良の出身。生前の父や叔父たちから聞くと、吉良上野介義央(よしなか)は、面倒見がいい、領民思いの名君だったらしい。確かに、宮中伝奏役は、気働きがいい人にしか勤まらない。それに、妻は上杉家出身。(ただ、何で当時30万石の姫が五千石の旗本の妻になったのか?だが……)当然、藩祖である謙信の「義」を守るという精神は受け継がれていただろう。三十万石から十五万石に減らされたが、外様である上杉が、大名家を譜代であろうが親藩であろうが、容赦なく潰していく幕府で生き残る事が出来たのも、義央のおかげと言える。上杉家に娘を嫁がせていた保科正之の尽力もあったらしいが、彼一人ではとても断絶阻止は無理だと私は考える。
 しかも、普段は質素で、それでも洛内だけ、体裁をとって栗毛や月毛の馬を借りて乗っていたらしいが、普段は、農耕馬にも使われる赤馬を使っていたそうだ。まあ、黄金堤を作った時に隣の領主からクレームが付いたというが、それは後にねつ造されたことかもしれない。新田開墾や堤防建設して上杉家から金を借りたという事も後世のねつ造と思われる。借用書など、後からいくらでも作ることが出来るからである。当時は塩の利益があり、吉良家は潤っていたはずだ。それに参勤交代のない旗本。それがあり、減知されても、東北の山形で米も当時はあまり出来なかった上、家臣団を解雇しなかった上杉とは、実質的に互角の経済力だっただろう。役付きなら、さらにお役で費用が下りた。決してつけ届けでは動かないだろう。
 つまり上杉家からわざわざ金を借りなくても、領内はそれなりに統治可能。むしろ、上杉家は取り潰されなかったことを吉良に感謝しなくてはならない。たぶん、後の鷹山と同じく養子として入った次男(長男は夭折)綱憲に対する家臣団の反抗が、その噂を作ったかもしれない。
 反撃に出られなかったのも、その反対勢力によるもの、とすれば、「養子はつらいよ」である。実の父親を殺されて、さぞ無念だっただろう。次男のことも、さぞ心配だったろう。
 それに、吉良家は家庭内も円満で、息子はいないが娘たちは大名家や大身旗本の家に玉の輿に乗っている。後に孫を養子に迎え、赤穂事件当時は、そろそろ息子に家督を譲ろうとしている時だった。第一、赤穂の殿様は二度目の伝奏役。当時の物価指数も知っていたはずだ。指南の手数料をケチるなんてあり得ない。どうも、重圧に弱い人だったようで「乱心」という結論に落ち着く。将軍の母親に官位を与える使者を迎える特別な役目、と言うことで、極度の緊張と疲労を将軍には直接ぶつけられないので、指南役にぶつけたのだろう。気持ちは解るが、絶対やってはいけなかった。
 つまり、綱吉の最初の裁きは正しかったのだ。抵抗しなかった吉良義央は被害者である。その後、討ち入りの非で吉良は改易、赤穂浪士たちは切腹ですませたが、浅野分家の大名としての復活はならなかった。
 八代将軍吉宗の代になって、浅野分家は旗本として復活するし、吉良も元の石高で甥の子で復活する。しかし、浅野は元の石高の半分にも満たない。そして双方無役である。無役はともかく、吉良と赤穂、どっちが最終的に「勝った」のかと言うと、ひいき目なしに吉良に軍配を揚げる。吉宗は、事件の真相を知っていたのかもしれない。綱吉は世論に負けたが、吉宗は左右されなかった。天晴れっ、暴れん坊将軍。我が出身地、尾張の宗春には悪いが、吉宗は名君で正しい判断をしたと言えよう。宗春が将軍になっていたら、開国も早まったかもしれないが、植民地化政策を進めていた欧米列強に支配されていたかもしれない。
結論 綱吉はやはり、マザコンで甘やかされた暗君である。世論に左右されて、間違った判断をしてしまった。私は吉良びいきだが、ひいき目なしで、押し入り殺人犯の赤穂の浪人たちを「斬首」または庶民並みに「市中引き回しの上磔獄門」にし、英雄化させる芝居を禁止にするべきだった。世論に左右される現代の政治も考え物である。多数決=正しいとは決して言えない。吉良は結局、「負けて勝った」が、勝った代償として世間からは明治に入っても、直接関係のない、吉良の出身者まで差別をうけた。残念な事である。旗本領は代官が支配している。殿が視察することがあっても、形式的だ。それなのに、自ら民の困窮に手を差しのべた吉良義央は「名君」の一人と言われても良いだろう。
 ただ、一番の被害者は討ち入らなかった浪士たちだ。バカ殿に当たってしまった彼らには気の毒である。その上、「不忠義者」というレッケルを張られてしまった。バカな国民たちに踊らされた被害者がこれ以上でないように、その点も我々はますますこの事件を別視点から学ばなくてはならない。
参考文献 敬称略
「火消しの殿」 池波正太郎
「峠の群像」 堺屋太一
「上野介の忠臣蔵」 清水義範 
「上杉鷹山」 童門冬二
ウィキペティア他

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