第4話で挙げた上杉謙信、女性説もあるが、ここでは男性と仮定しよう。彼の生涯の敵である武田信玄についてもミステリアスな説がある。第四次川中島合戦で死んだのは、信繁ではなく、信玄その人だったと言う説だ。(信玄は謙信を認めていたが、謙信は信玄を相当嫌っていたようだ。ただ信玄の死後には実力をやっと認めたらしい) 第一の謎は、第五次川中島合戦のあと、嫡男の義信と桶狭間後の対応について、対立した事。いくら義元死後で今川氏弱体化したとは言え、嫁の実家を攻めるとは、息子なら反対する。実の父親なら、息子の心情や性格を解っていたはずである。 それを息子を幽閉・切腹させてまで、断行した。実の父なら、廃嫡はしても、死なせはしないだろう。実の父でさえ、殺さずに追放した信玄である。私はこの謎に、くすぶっていたのだ。 もし、信玄ではなく信繁だったら……。沈着冷静な所がある彼なら、甥を殺す事もやってのけただろう。また、信玄の子どもたちの中で、誰が覇気があるか、見極める事が出来たかもしれない。(事実、義信より勝頼の方が才気はあった。ただ、滅ぼした諏訪氏の血を引くので、高坂や一部の家臣以外、裏切っただけだ。もしも、だが、山本勘助が第四次で死ななかったら、または、高坂が長生きしていたら天下を取ったのは武田氏かもしれない。勝頼はけっして凡君ではなかった。むしろ優等生過ぎたのだ) 第二の謎は、第四次川中島までの信玄は、父、信虎に似て短気で冷酷な所もあった。それに負け戦も多かった。対村上戦では四度目の正直でやっと、勝っている。勝っているとは言っても、男たちは、早々と越後に逃げて、捕まったのは、妻と次男以下。つまり、女子供だ。女、もしくは娘は助けられるという戦国の慣習を信玄は破り、次男はともかく、妻も女の子も殺している。その残虐さは信長にも勝るとも劣らない。(信長の場合、荒木村重の時は、辛うじて助かったのは城に不在だった村重自身と乳母の機転で城を脱出した乳飲み子の岩佐又兵衛のみだった。しかも、残虐行為は信行と村重の件のみ。比叡山焼き討ちはあらかじめ知らせておいて、非戦闘員をふもとに避難させていたそうな。本願寺は、当時はほとんど要塞。構成人員は女子どもと言えども戦闘員とみなされていた。信長と言えども、部下の女性、宣教師や一般市民または一般僧侶には優しかったところがある。残虐さと言えば、後の秀吉や家康の方が勝るのではなかろうか?)それに、城に避難した非戦闘員を物のように売ったり、見せしめに殺したりした。略奪もし放題だったらしい。これでは、義にあつい謙信(当時は長尾景虎〜上杉輝虎)でなくても、眉をしかめるはずだ。(略奪は越後軍もしていたが、戦闘員に対してのみだったらしい) |
ところが、第五次川中島合戦以降、残虐行為はあまりない。唯一の残虐行為は、息子の義信を切腹まで追い詰めた事だが、それとて、信玄自身は、今川びいきの家来を、処罰した程度。(しかも、絶家は少なく追放程度が多かった)息子(信繁がすり替わっていたとしたら甥だが……)を最後まで幽閉程度で済ませようとしていたようだ。事実、義信死後は家督を継ぐ者がいず、困って、家督を持っていったのは、信玄の子で、既に諏訪家を継いでいた勝頼の嫡子。しかも有望格は他にいたにも関わらずである。しかも、その後、ご丁寧にも家臣団と「信玄に逆らいません」という起請文を神社に奉納している。義信が妻の今川氏を愛するあまりという父に反抗したという説もあるが、当時の正妻は政略結婚が常。義信の側室の存在も伝わっているから、その説には賛成は出来ない。それに、今川を攻めて泣くのは義信の妻だけではないのだ。 その上、戦い方も石橋を叩くような用心深い戦法に変わった。第五次の川中島合戦は何故か睨みあいだけ。裏で忍者団の戦いはあったかもしれないが、実際に武者同士が激突しなかった。それ以来最後まで、慎重すぎる態度は変わらず、勝頼には、「三年死を秘して動くな。困った時は謙信を頼れ。彼なら道理を尽くして接すれば、きっと頼りになる武将だ」と言い残している。ここでつばさの推理だが、第四次以前の信玄の性格なら、「信長を頼れ」だったはずだ。 性格は、急には変わらないし、何より息子の後典厨信豊が、その後、信玄の西方戦線に従っている。父親が殺されたのなら、謙信を一番に討ち取りたいのは彼のはずなのに、それらしいリアクションもなしである。(いくらおとなしい性格とは言っても、それは首をかしげる)と、言う事は、第四次で死んだのは信繁ではなかったと言う事を知っていたということになる。 第一、信繁が死んだと言うのに、普通なら、生まれ故郷の甲斐に遺骸を運んで葬ると言うのが兄の心情のはずだ。それなのに、川中島の近くに葬られていて、改葬された形跡もない。それに首を取り戻したのが「山寺」という武士で、身分も、伝わっていないのだ。(つばさの推理では、首はとって、一旦は上杉軍の手に渡った。が、信玄が生きていると言う情報=真相は誤報を受けた謙信が山寺ならぬ部下の山本寺に首を返させた?) それに信玄、影武者を良く使っている。一騎討ちもどちらかが影武者、またはどちらも影武者という説がある。私は、一騎討ちが実際にあったとしても、少なくとも謙信は本物という説を採る。なぜなら謙信は、「我に続けっ」と先頭に立って戦うタイプである。信玄は信虎を追放した手並みの良さから言ってもかなり、卑怯な手段も平気で使っている。 |
もし、第四次川中島合戦で死んだのが信繁だったとしても、信玄がショックで性格が変わるという事はあっても、それほど急に慎重居士・道理をわきまえた人格者になる訳がない。それに、それ以降は、あれだけ女好きで子沢山だった信玄が、新しい側室や子を設けたという話は聞かない。(ただし、末子の菊姫の永禄元年生まれ説が正しければ、だが……永禄3年生まれの信清が菊姫を異母姉と呼んでいたので末子は信清かもしれない。信清が末子とすると、信玄の永禄四年死亡説は裏付けられる)当時、まだ信玄は40代前半。出家したとは言っても在家出家。正室の三条夫人はまだ存命していた。一方、信繁は側室も一人しかいなかった。子も信豊他二人しか知られていない。(側室の子は二人とも母方の家を継いでいるが早世)女の子は記録になし。三条氏、諏訪氏、禰津氏、由川氏と三人の側室がいて、五人の娘の名が残っている兄、信玄とは大違いだ。また、好色な人はかなり年配になるまで好色である。信玄が、永禄4年以降、新たな側室を迎えなかったのは絶対おかしい。 それに、実は今の菩提寺(信長に焼き討ちされた)に残る信玄の墓には信玄の遺骨はないという説もある。「諏訪湖に沈めろ」という遺言もあるという。それらしき施設が湖底にあったが定かではないという話も新聞に載っていたらしい。また、前述の遺言に「死んだら三年隠せ」と言うのもおかしい。 そこまで、自分の死を隠そうとした人はめずらしい。勝頼は子どもならともかく、当時20代後半。中継ぎにしても、立派な大人である。(勝頼自身が自分の息子を推して、武田家の家督相続を固辞したなら、話は別である) |
結論としては、状況証拠としては、上杉謙信女性説より現実味はある。が、実の兄弟故、すり替わったとしても、血液型が同じなら、DNA鑑定に頼るしかないが、同母兄弟の場合は似通っている可能性がある。問題の第四次川中島合戦から、再来年で450年経つ(2009年現在)今では、「不可能」としか言いようがない。 ただ、言える事は、人は変わるものだが、ある日突然、極端には変わらない。信玄はもともと幼児期の父からの冷遇がトラウマで二重人格だった(信虎の性格なら、虐待に近い扱いだったかもしれない。幼児期の虐待されたトラウマは多重人格の一因である)のが、信繁の死によって良い意味で一元化されたか、または信繁が混戦の中、不慮の死を遂げた兄とすり替わったとしか言いようがない。実の兄弟で似ているなら、写真のない時代なら化けられるかもしれない |
参考文献等 「ウィキペティア」 映画「影武者」黒澤明監督作品 書籍「家康の父親は武田信玄だった」武山憲明著 その他多数。 |