第4話 えー?あの髭面のおっさんが女? 上杉謙信女性説

 まず、お詫び お友達のもんちっちの殿へ、二番煎じでごめんなさい。
 越後の戦国大名 上杉謙信。彼はあの有名な肖像画で知られる。いかにも、無精ひげを生やして男っぽい「おっさん」と言う感じだ。
 その上杉謙信の一番有名な肖像画が何と、江戸時代に描かれた偽者らしい。当時、武将はみな髭を生やしていた。剃ってしまったのは江戸時代の太平の世になってからである。今でも、イスラム圏に行くと、髭は男性のステイタス。イラク戦争の時、「髭の隊長」殿が部族長たちの信頼を得て、救援・復興活動がスムーズに行ったのは記憶に新しい。
 織田信長・豊臣秀吉ら武将たちの肖像画にも立派なあごひげや口髭・武田信玄の肖像画にも髭が描かれている。
 まず、疑問だったのは信長にしても秀吉にしても顎髭や口髭は手入れされたものだった。いくら病中だったと言い訳できても絵師の前で「不精髭」と言うのはおかしい。
 それに、この肖像画は晩年死の前に書かれたものという但し書きがあった。当時、謙信は出家して法印大和尚という称号を朝廷から貰っていた。僧侶は必ず、頭や顔の毛を剃る。ひどい場合は全身の体毛を剃る場合もある。もちろん髭も剃っている。
 この二点で、この肖像画は後の時代に描かれた「偽者」という結論に達した。現に、晩年近くなって信長から送られた「洛中洛外屏風」には謙信らしい人物が得意の乗馬ではなく、輿に乗って描かれているが、その人物には髭がない。それに短いが有髪だ。当時既に出家していたのにも関わらずである。
 それと、古い肖像画を見て驚いた。あの「おっさん」ではなく、若い頃は優しい美男子だっただろうと思われる顔だった。(当時は下膨れの顔も古典的な美としてもてはやされていた)もちろん法体で袈裟姿なので髭はない。髪の毛の有無は頭巾と言うか冠風の頭巾に隠されていて解らない。もう一枚は僧侶そのものの肖像画である。
 そんな時、2007年のこと、風林火山で中性的なGacktさんが謙信役に選ばれたと知った。「えー、マツケンの若い頃風の俳優さん(徳重聡さんや金城さん)じゃないのぉ」と驚いた。確かにこの前の柴田さんとは大違いだ。さくらんぼが「謙信は美形だったという伝説もある。女性説もあるよ」と言った。
 以来、色々調べたが、どうやら名古屋出身の小説家であり、歴史研究家でもあった故八切止夫先生が言い出しっぺらしい。その本も読んだが、どうも量産作家の常として時代考証不足。現在の目や江戸時代の目が混じったもので「与太説」と結論づけた。今はその出版社は倒産。数ある本も殆ど本屋にない。学術的にも真っ向から否定されている。
 しかし、調べていくと「与太説」とは言いきれない部分もある。
 女性の可能性のあるという証拠を下に列記する。
1.戦国時代当時、女性城主は結構いた。女性城主が否定されるのは家康〜家光の時代になってからである。女性の相続権が否定されたのは江戸時代でも富豪や武士階級以上。さらに庶民女性の相続権が否定されたのは、かなり後の明治時代だ。
2.当時、支配階級の女性にも相続権や男性同様の官位をもらえる習慣もあった。後の江戸時代になっても春日局、綱吉の母親など女性でも官位を貰った例もある。
3.武家の官位である古河公方という位を足利幕府から貰った足利氏姫という女性大名がいた。一般的に公方(将軍)は男性にしかなれない。
4.あの譜代の大老、井伊家にも女当主、次郎法師直虎という人がいた。家康の家臣になる直政の伯母にあたる先代の人である。ただ、謙信の上杉家同様、彼女で一旦、井伊家正統は絶えている。婚約者の従兄の子が直政である。同時代より少し後の時代の人だ。名前が似ている。尚、虎御前または虎姫と言う名前は長尾家の女性に多い。男性の諱に「虎」が使われたのは養子の上杉景虎ただ一人だ。男性なら、幼名も「虎千代」では不自然。「喜平次」の方が自然だ。成人後の諱には幼名の文字を避けるのか慣わしである。
5.女性の場合、出家しても平安時代以降は「尼削ぎ」と言って肩までのおかっぱ頭。江戸時代でも貴人の妻が夫に先立たれて再婚せず出家した場合は「切り髪」と言って後で縛った頭を肩の辺でぶっつりときりそろえる。女性なら有髪の尼さんも結構いた。ただし、剃っている場合や尼そぎの場合は頭巾等を被る場合が多い。男性でも、髷を結わないが現在の七三や五分刈に近い長さの髪の毛の人は「法師」と言われた。
6.残っている遺品とは関わらず謙信は地味な大名として評判だった。遺品はその時代の男性にしては「カブキ者」と思われる程、派手である。女性にしては地味と考えれば納得がいく。
7.外国の文書に謙信は「景勝の叔母さん」と書かれている。書かれた時代は死後だが、遺産を持っていたのは姉の仙桃院とは考えられない。(母親だが名目上は伯母である)当時からラテン語系(イタリア・スペイン・フランス等)の国は、男性名詞と女性名詞が明確に分かれている厄介な国。助詞や冠詞からして違う。書かれていたのはラテン語系のスペイン語。そちらの間違いは当然ないと思う。景勝の実父の政景は佐渡を治めていなかった。夫から妻へ相続されるにしても当時治めていなかった佐渡の金山からの金鉱を妻の仙桃院が相続する事はありえない。よって、景勝の叔母なる人物は噂で実在しないか、またはいても謙信しかありえない。
8.謙信の遺骸は、二回、景勝により改葬されている。なお、伊達政宗の父輝宗(米沢)、家康の長子徳川信康(三河)でさえ、改葬されていない。今も、米沢の上杉廟の奥深くに安置されている。余程、景勝、義父の遺体を見られては困る理由でもあったのか?ならば何故火葬しなかったのか?謎である。火葬という言葉は文献にない。
9.これは写真を見て驚いたのだが、謙信着用とされる鎧の一つ。胸の部分がふっくらとふくらみを帯びて、ウエストの部分がやたらしまっている。小豆島の女性用鎧が「ヘップバーン」仕様ならこちらは「モンロー」仕様。まっさか仙桃院用?と疑ってしまった。
10.謙信の手紙には、母親や女性の親族宛に部下の戦死を伝えるものが多い。普通、その夫が妬くだろうにその気配はない。それと武将の妻や娘、将軍の妻や母親宛の手紙が、多く残っている。それに上洛した時に個別に会っている。男性の場合は御簾に隠れて会う都の上流階級の女性にしては、異常である。これは同性と考えた方がいいかもしれない。
11.当時、妻をもち、子孫繁栄という大役が男性武将に求められたのに生涯独身である。家臣も強く勧めなかったらしい。(直江のお船の方の姉らしい人物や、近衛前嗣の妹などは伝説の域を出ない)女性なら巫女のように戦に勝つために結婚しなかったというと納得がいくが……。そのカリスマ性も、去った後の反乱の多さも女性の巫女性を考慮するなら納得がいく。
12.最後の臨終の時、未亡人に看病させたことは、女性なら頷ける。そしてその病気が婦人病ならなおさら老練した年配の女性が看病する必要があったのだろう。若い女中や男性の小姓では中年以上の更年期障害などについては解らない。婦人病と言ってもいろいろだが、子宮頸がん系か?「虫気=大虫」とは男性なら消化器系の病気の事だろう。どちらにしてもトイレで倒れたなら言えることである。私としては男性で大酒飲みで粗食なら、脳卒中か胃潰瘍や肝臓の病気を疑いたい。しかし、それなら男性や若い女中でも充分看病が可能なはずである。ただ、脳卒中では明治時代まではそのまま昏睡状態で一日以内で死に至るケースが多い。意識が戻ったと書いてある資料もあるため、脳卒中はあまり考えられない。
 私の結論は「可能性は否定できないが、どっちかわっからーん」である。ただ、丈夫な体質の女性なら充分に合戦や政務などに耐えられただろう。個人的には、男装していて実は女という人物を書いている私としては謙信が女性だったら面白いなと思う。まあ、どっちでも、いいではないかと思うのだが……。あの血で血を洗う、戦国時代、私欲ではなく義で動いた武将もいたって事。それは尊敬できるし、好感が持てる。性別など、どちらでも良さそうだ。(もんちっち殿同様、無責任か?)
おまけ 
 ただ、Gackt謙信の評判があまりにも良かったので、2009年の大河「天地人」の謙信公、なかなか決まらなかった。まあ、一年置きに謙信登場させるっての、無理あると思うが……。彼が俳優一本なら、利家とまつ〜功名が辻の信長役みたいに引き継ぐ事も可能かもしれないが、残念ながら本業ミュージシャン。それに老け役は彼には無理そうである
 その後、撮影期限ぎりぎりになって阿部寛さんに決まったが、彼では信長のイメージだった。確かに、年齢的にはあっていたが、「現代の感覚」である。戦国時代の40代は今の60代前後の見かけである。Gacktさん〜池畑さんなら、キャスティングが上手くいくが、「風林火山」の続編としてほとんどの視聴者は見ると思う。その目で見ると違和感ありすぎる。それに原作の表現の稚拙さに見る気なくした。(若い、と言っても私より少し年上なので大目に見たい所だが、どうしても井上靖先生と比べてしまう。せめて原作クレジットなしか、風野真知雄先生の「われ、謙信なりせば」が原作ならば……と思った)
参考文献等
「ウィキペティア」
「天と地と」
「上杉謙信は女だった」
「家康の父親は武田信玄だった」
「もんちっちランド 歴史館」
「龍の化身」
「謙信と上杉一族」

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