第8話 文句なしの名補佐役 大和大納言秀長

 戦国の三英傑と言えば、信長、秀吉、家康。一番私が好感を持っているのは秀吉である。もっとも、個人的には女性観と晩年には感心しないが。当時の女性観では普通なのだろう。糟糠の妻である寧々の立場としては、浮気者の秀吉は「困り者の夫」なのだろうが。晩年は滅茶苦茶である。家康じゃなくても、眉を顰める。
 秀吉は家族、特に子どもには恵まれなかった。側室との間に秀勝が生まれているが、夭折。次の鶴松も幼くして亡くなった。最後の秀頼は何とか成人するが、ご存じのように大坂夏の陣で家康に自刃に追い込まれてしまった。
 しかしながら、兄弟には恵まれていた。多分、主君の信長にはうらやましがられたのではと思う。家督争いとは言え、弟を陥れて死に追いやっているからだ。他に、弟を殺してしまった部将は伊達政宗がいる。戦国時代は兄弟で仲違いをした部将は少なくない。更に家康と武田信玄は息子を死に追いやっている。
 それは、同母の兄弟でも、違った育ての親に育てられることが一因だと私は思う。さらに、母親の問題もあるとも思う。
 秀吉には姉と妹、今回の主役の弟の秀長がいた。うち、妹の旭ただけは父親が違う。母の大政所は、父親の死後、生計のため仕方なく織田家の身分が低い家来と再婚した。しかし、秀吉は新しい父になじめずに家出。秀長は父親の田畑を継ぎ、農民として暮らしていた。兄が織田の家中で出世して、一族郎党として、彼は引き抜かれて農民から武士になった。
 カルチャーショックで苦しんだことだろうが、庶民出身の芯の強さと。兄とは違い実直な性格で皆に親しまれた。更に幼少期は仲が良かったらしいのが幸いした。兄の黒子として実務的な面で活躍。いくさや信長の命令であっちこっちに出ている忙しい兄の留守居役として妻の寧々や側室との仲も良かったという。しかし、兄同様、妻との間に子はなく、姉の子の次男を養子に取った。兄とは違い、真面目なたちで、側室は居なかった。その真面目さは「外向きのことは秀長、内々のことは利休」と言わしめたほどである。秀吉も秀長に対して誠実に報いた。都の近くの大和の国を与えて「大納言」の官名を与えている。秀吉は、親しみを込めて「だいなんご」と家族に対しては呼んでいた。しかしそのころから気苦労から病気がちになってしまい、残念ながら母より早く死んでしまう。
 母と妹も後を追うように亡くなり、鶴松も亡くなった。その後の秀吉には寧々以外、誰も正面切って諫める者もいなくなり、朝鮮征伐など無謀な戦をしたり、養子にした秀次を死に追いやり、その家族や近づいた人々も処罰した。その時に秀長の養子も処罰されている。 秀次とは実の兄弟でいくら交流があるとはいえ、酷いと思うのは私だけか?
 歴史に、もしも……は禁物だが、もし、秀長が秀吉より長く生きていたら、朝鮮に出兵しなかったし、秀次も、廃嫡はされたかもしれないが、最後は子や孫に囲まれた穏やかな暮らしだったかもしれない。天下は家康のものになったかもしれないが、秀頼も一大名になり残り、穏やかな最期だったかもしれないのだ。秀長の死がいかに豊臣家にとって、悪いものだったかは、歴史が物語っている。
 秀長としては余りにその人生が波乱万丈なので、「兄者にだまされた〜」と折々にぼやきたくなる人生だっただろう。しかし、信長は領主としては、かなり苛烈な税をかけたり、斬り殺された庶民は数知れないという暴君だったという。庶民のままでも幸せだったとは限らない。ストレスにさらされないまでも、不作の苦しみを途中から経験しなくてもいいことになったのは、兄の秀吉のおかげだった。そして、名補佐役に徹していたのも、戦国の時代では珍しい存在。それで良かったのではないだろうか?
 秀長は、川中島で戦死したとされる武田信繁を手本にしたという説がある。しかし、誰かの真似をして、自分を偽るのは、家族間では難しい。ましてやあの鋭い所のある秀吉相手。ばれてしまう。ある程度参考にしただろうが、控えめな、自分の欠点を知っている者として兄を立てていたのではなかろうか。演技なしにやっていたとしか思えない。大阪の陣の頃かまたは関ヶ原の合戦の頃、古老が「かの人(秀長)ご存命ならば……」とぼやいたとか、そうでないとか。それほど人望が高かった。
 文句なしの名補佐役、秀長。惜しむらくはストレス発散しようがなかっただろうという事である。信長の存命中は、黙っていたのではないだろうか。信長は案外、嫉妬が深い。そこで部下の家臣でも優れていれば部下から取り上げてしまう。秀吉に限ってそれをしなかったという事は、秀吉は信長の気性を知り尽くしていたと言えなくもない。秀長が単体で動いたのは、滅多にないが、信長の死後である。
結論 秀長は控えめな性格で得をした、と言えないだろうか。秀吉も偉いと思う。弟の縁の下の力持ちを知っていて、報いている。兄より早く死んでしてしまったのが惜しまれるが、豊臣家の没落と滅亡を見ずに亡くなったことが、秀吉の兄弟にとって幸せだったかもしれない。一番の被害者は寧々さんだ。長く生きたばかりに、苦労して築き上げた物の滅亡を見ることになってしまった。秀長さんの言い分もあるだろうが、だまされたぐらいで赦してあげて、と思う。殺されるよりははるかにマシ、と言うしかなかろう、信長の弟や政宗の弟に、もし、秀長の控え目さ百分の一でもあれば、殺されはしなかったのに思うとと残念である。
 権力者の弟、または補佐役は、黒子に徹するべきである。
参考文献
ウイキペティア
「豊臣秀長」堺屋太一著
その他多数。

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