第2話 統一中国を見限り日本に逃げた
皇帝の補佐役 徐福

 中国の皇帝と言うと、沢山いる。一番現代に近いのは清の溥儀であるが、波乱万丈の生涯を終えた。
 今回はその話ではない。最初の皇帝は秦の始皇帝。文字通りの初めての皇帝である。小国の王で決して恵まれた環境ではない所に育ったというが、それをばねにしてどんどん勢力拡大。とうとう一代で今の中国のほとんどを統一した。当時は小国が集まっていたので、画期的な事だった。
 始皇帝は「暴君」と言われている。その原因の一つとして「焚書坑儒」と言われるものだった。主に儒教思想の弾圧だ。しかし、今の中国共産党も、チベット仏教に対して同じような事をしているから、中国人は彼を責められないが……。確かに、支配者層の道徳を問う儒学は、始皇帝にとっては余計なお世話で目障りだったかもしれない。
 それにしても、文化を破壊した国家・政権は長続きしない。
 しかし、儒学という「文化」を破壊した始皇帝だが、当然、自分を人間以上の者になりたがっていた。昔からの神仙思想は信じていたらしい。ただ、当時の医学は今の漢方医学としても飛んでもない薬品を使っていた。鉛と水銀である。どちらも毒だ。多用すると命の危険がある。たまたま、即死しなかったし、症状が和らいだから使ったのだろうが、今では毒物に認定されている。天皇家も大陸と交流した結果、使うようになってしまった。元々、長生きの家系だが、有史以来の天皇が案外、短命だったのもその為である。
 神仙思想の一部に太陽信仰と言うのがあり、東の方には、神仙の国、つまり理想郷があって、不老不死の薬もあるという伝説があった。それを始皇帝は信じていた。
 確かに、当時は儒教は成立してから二百年ほどの新興宗教。それを弾圧するという事は今でいうオウム真理教(これは本当に邪教だが)潰しみたいなもので、大したことは無かったろう。儒学者が何万人と埋められたというが、万と言うのは誇張で、実際には百人単位だったのだろう。後の政権が儒教を利用したので、始皇帝の悪行としているだけのことである。
 その信任厚い家来の中で徐福という者がいた。神仙の方士というが、官僚で大臣級の優れた人物だっただろう。ある時、始皇帝に東の海の向こうにあるという神仙の国に、不老不死の妙薬を取りに行けと命じられた。当然、あるかどうかも解らない所に、誰も行きたがらない。「ありませんでした」では、命もない。
 徐福は一人、探しに行くと名乗り出た。始皇帝は当然、喜んで、家来を付けて行かせた。しかし、神仙の国に行っている間に、始皇帝は亡くなり、秦は三代で滅亡。すったもんだの末に漢王朝になった。劉邦も皇帝を名乗ったが、不老不死までは考えなかった。
 結局徐福は帰ってこなかった。船団が沈んでしまったとも言うし、日本に漂着したともいう。熱田神宮の近くにも彼の墓と伝えられる塚がある。そればかりではない。全国に徐福の伝説や墓とされるものが残っている。
 徐福は秦の危うさを気付いていたのではないだろうか?それで秦を見限り、始皇帝を見捨てた。結局不老不死の妙薬などありはしなかった。今でも開発は続いているが、流石の現代医学でも、ある程度は老化を止めることは出来るが、老いと死だけは免れないらしい。多分、徐福と部下たちは稲作や技術を日本の人に教えて、敬われて一生を終えたのだろう。
 その二百年後の漢の時代に、日本の豪族から使節が送られた。それが日本と大陸の交流の始まりだった訳だが、その礎を徐福は作ったのではないだろうか?思えば卑弥呼も大王も、徐福がいなかったらその発生は遅れたかもしれない。縄文時代から優れた文化を持った日本人だったが、その文化は独自のものであった。大陸の文化を本格的に知ったのは徐福の船団が日本に到着したからではないだろうか?
 ただ、それも今となっては解らない。日本人は当時、独自の文字を残さなかったからだ。古墳時代になっても、文字が残った副葬品が発見されることは少ない。しかし、中国からの人が漂着する可能性はある。
結論 徐福という人物は確かにいた。だが、日本に来たかどうかは不明。ただ、中国に古くからある神仙思想の影響で、太陽の昇る方角に理想郷があるという教えを利用して、秦から逃げた。そう言えるのでは?先見の明があったことは確かである。始皇帝の死と、秦が滅びるのを見なかったことは幸いと言えるだろう。
参考文献
ウイキペティア
中国史 「史記」
他多数

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