突然、炎のように

斎藤祐司

 それは、眠気と、退屈さに、耐えながら通い続けた、マドリードのラス・ベンタス闘牛場が、興奮の中に入り込んだ瞬間だった。

「オーレ。オーレ」

闘牛場を埋めた観客が、声をひとつに叫び出す。感情を帯びたこの声を聞くのは、13日間通ったラス・ベンタス闘牛場で初めてだった。隣にいるスペイン人の視線が熱気と真剣さを持って、闘牛士に注がれていた。

 

 人を感動させると言うことは、どういう事なのか。胸を打ち、突き上げるものとは・・・。鳥肌になり、背筋が「ゾクゾク」するものとは・・・。

 

「人生がどんどん過ぎて行くのに、その人生を本当に生きていないと思うと、僕はやりきれないよ。」

「闘牛士でもないかぎり、人生を徹底的に生きている人間はいないよ」

これはアーネスト・ヘミングウェイの長編処女作『日はまた昇る』の一節だ。

 

 そんな、“人生を徹底的に生きている闘牛士”に、会いたいものだ、と思い1991年5月にスペインにやって来た。毎年行われるスペイン最大の闘牛祭サン・イシドロは、首都マドリードのラス・ベンタス闘牛場で5月の上旬から連続20日間以上わたり開催すると聞いていたがらだ。この年は5月10日から6月4日まで、マタドール(正闘牛士)21日間、ノビジェーロ(見習い闘牛士)3日間、レホネス(馬上闘牛士)2日間、合計26日間の祭典だった。

 土曜日、日曜日はもちろん、お目当ての闘牛士が出場する日の切符売り場(タキージャ)には老人から若い女の子まで長蛇の列を作った。

 朝の7時前には、6日後の切符を求めて何百人もの人が連日並んだ。7時過ぎに行われる放水車による清掃作業で列はメチャメチャになり、ダフ屋が、このタイミングを見定めて、列の前へ前へと進む。

 初めてこの列の並んだ日は何がなんだか分からなかったが、これは列を乱す第一ラウンドだと言うことが段々分かってくる。

 9時近くになると、パトカーで乗り付ける警官が、ようやく整理を始める。だが第二ラウンドの開始のゴングはこの時だ。ダフ屋の1人が警官と話を始める。その後ろでは何人ものダフ屋が、列を乱して前へ前へと進んで行く。このチームワークの見事さと、その数の多さには呆気に取られてしまう。

 この時に警官に見つかって咎められたとしても、彼等は「今話しているだけだ」といって友人を装う。儀礼的な警官の整理の中で、1年のうちで最も稼ぎの多いサン・イシドロの期間中は、ダフ屋も必死なのだ。

 彼等は、正規価格の5から20倍もの値を客に吹っ掛けてくるのだ。8時位までに闘牛場にできた列の中にいる半分はダフ屋だと思って間違いないだろう。彼等は、切符を手に入れると(1人2枚まで)、プエルタ・デル・ソル近くのビクトリア通りに行き商売を始める。いい切符を欲しがる日本人は、彼等にとっていい客らしい。

 体力に自信のある人でも、毎日朝早くから闘牛場に並ぶのは、相当に疲れる。10時に売り出される切符は、地下鉄の動き出す前の4時とかに一番乗りした人で6時間は並び、8時に来た人で順番のくる12時位まで、4時間位は並ばなければならない。5月の朝は日本の秋か初冬ぐらい寒い。風は冷たく吹きつけ、体力と気力を萎えさせるには充分だった。

 26日間のうち、19日分が「切符売り切れ(ノー・アイ・ビジェテ)」の、三文字が掲示板に貼られていた。これはスペイン人にはかなりの驚きだったらしい。体力と気力を消耗させて、せっかく手に入れた切符は、闘牛士と牛から遠い席で、消耗に追い打ちをかける。写真を撮ろうと思っているものにとっては、失望させられる画面だ。

 朝早く起きて並ぶのが嫌になったり、お目当ての闘牛士を良い席で見たいのならダフ屋から買えば良いのだ。絶対に手に入れる事ができる。ただし日陰席(ソンブラ)の砂かぶり席のように一番良い席では何万ペセタも払わなければならないだろう。

 この様にして、手に入れた切符を持ってラス・ベンタスに行っても、良い闘牛が観られるとはかぎらない。おそらく3日に1ぺんもないだろう。その日の牛の善し悪しにもよるし、闘牛士の実力や調子にもよるのだが、一番重要なのは、首都マドリードは何処よりも闘牛を開催する日数が多く、スペイン一厳しい評価を下す観客で満員になる時期がこのサン・イシドロだからだ。

 観客は、牛が悪ければ「牛を代えろ」と要求し、闘牛士の技が良くなければ避難することに手加減をしない。非難は口笛と、三拍子の手拍子によって行われる。ラス・ベンタスで一番のうるさ型は日向席(ソル)のテンディド7(シエテ)にいる観客だろう。彼等は公然と「俺達は騒ぎに来ているのだ」と言って憚らない。

 闘牛士の一つの技の失敗に、口笛が鳴り、闘牛士は緊張する。どんどん固くなって牛の力を引き出す事もできず、自分の技もできないうちに三拍子の手拍子の中で罵声を浴びて終わってしまう事が多い。

 去年まで6年連続NO1闘牛士のエスパルタコでさえ満足な出来ではなかった。NO2のロベルト・ドミンゲスも、若手NO1のホセリートでさえそうだし、アルテルナティーバ(正闘牛士の認定式)をしたリトリー なんかは非道いものだった。

 世界一厳しいラス・ベンタスに通えど、連日、口笛と三拍子の手拍子による、牛と闘牛士に対する非難の日が続いた。せっかく6日前の朝早くから並んでいるのに、ちっとも良い闘牛が観られない。

 良い闘牛が行われれば観客は、闘牛士に場内一周をさせ、詰めかけた観客からの喝采を受ける。観客の満足行くものであれば、闘牛を取り仕切る会長(プレシデンテ)に対して白いハンカチを振って、褒美として倒した牛の耳を、闘牛士に与えることを要求する。

 つまり牛耳ったということなのだ。与えられる耳は1つの場合、2つの場合、さらによかったと思われる場合には尻尾が送られる。(過去ラス・ベンタスでは4尾しかでていない。それも60年代にパロマ・リナレスが取ってから30年近く出ていない。今では尻尾を与える事が禁止されている)

 最後の退場の時は、耳を取れなかった闘牛士はアレナ(闘牛場の土の部分)の中を、配下のバンデリジェロと共に退場をし、耳を二つ以上取った闘牛士は、肩車で場内を一周して、闘牛場の正門から出て行くことができる(プエルタ・グランデ)。これは、闘牛士が得る最大級の名誉なのだ。

 サン・イシドロの闘牛に出場する事は、牛を生産する牧場主にとっても名誉な事である。

 闘牛士もまた、この祭りに出場することを夢見、闘牛士として認められた事を意味する。

 さらに耳を取れば、有名になりスペイン中の祭りは、高い契約金を積んで出場を申し込んでくる。さらに耳二つ取って、闘牛場の正門から肩車で出ていければ(プエルタ・グランデすれば)スターへの切符と、大金とを、一度に手に入れることができる、チャンスの場としてあるのだ。それだけに、どの闘牛士も必死で戦うのだ。特に無名の闘牛士にとっては・・・。

 

 そんな中で、大闘牛場が「オーレ」の声で揺れだした。観客は大声を上げて興奮していた。闘牛士のパセ(通過・牛をかわすこと)に観客は、歓喜の「オーレ」で答えた。闘牛士が牛に背を向け”見栄”を切った時、観客は総立ちになって喝采を送る。

 ある者はフラメンコの国らしく鍛えられた大きな拍手を送り、ある者は早口のスペイン語で怒鳴り声を上げる、ある者は「ワー」とか「オー」と一音だけ大声で叫ぶ。どの人も「とにかく、凄い」と言う気持ち現れなのだ。

 大きく日差しが傾き、日向席(ソル)の三階席(アンダナーダ)まで日陰になり、野球のナイターの照明ほどの明るさの中で、闘牛士の薄緑色の服は、牛の返り血を腹から膝にかけて浴び、赤く染まった。

 牛にひとときの休憩を与えて、再び闘牛士は牛と対峙する。

 闘牛士は左側に牛を置き、両足の位置を決めた。その先には牛の頭があり、角は彼に狙いを定めていた。だが何も怖くはなっかた。何故なら観客は闘牛に酔っていたからだ。

 ゆっくりとムレタに剣を添えた右手を、牛の方に出して「アハァ」と声を出して牛を誘った。牛は動き出した。位置を決めた足を動かさずムレタを引くように振った。闘牛士は逃げなかった。

 牛は赤い色に吸い寄せられるように、闘牛士の振るムレタの描く曲線をなぞって走り抜けた。「オーレ」。左足の位置を動かさず、左足を中心にして右足を反対側に一歩引いて牛を誘いムレタを振った。「オーレ」。闘牛士は左足を中心にして右足を引いてムレタを振った。「オオーレ」。ムレタを振るとき、両足はアレナ(土)の上で動かなかった。・・・「オオーレ」。牛の通過と共に、重心を右足から左足に移した。・・・「オオーレッ」。背から足にかけて体は弓のように反り返った。・・・「オオーレッ」。

 観客は総立ちになり、大騒ぎだ。

 前にいるおっちゃんの腕は、アレナにいる闘牛士の方に向けられて、手を開いて「オーレ」と、言う度ごとに手を上下に振るわせていた。その手前にある、おっちゃんの顔はその度に赤みを増していた。

 今、おっちゃんは左手の指に差し込んでいた、葉巻を口にくわえて、拍手をしていた。葉巻の火は消えていた。おそらくファエナ(ムレタによるパセ)の間に、一度も吸っていなかったのだろう。いや、葉巻を吸うことすら忘れてしまう位、凄いファエナだからだ。

 「オーレ」合唱が一定のリズムで闘牛場にこだまする。

 アレナの中で牛と闘牛士は、近づいては離れ、離れては近づく。その反復運動をしながら、移動を繰り返す。脇の下や、体のすぐ近くを牛の角が通り過ぎる。角の代わりに牛の背などが闘牛士の体に触れる。時に闘牛士はよろめき、命懸けの”舞踏”をする。

 円形の闘牛場で、死の舞をする闘牛士の服に付いた血が、何処にいる観客の目にも見える。闘牛士の勇敢で素晴らしいパセ(通過・牛をかわすこと)に熱狂し、「オオーレッ」「オオーレッ」の声はより一層大きく、感情を帯びていく。

 闘牛士は無名だった。

 だがそれは観客にとって、どうでもいいことだった。観客が感動していたのは、有名というブランドにではなく”本物”に、対してだった。

 例えそれが、無名であっても、”本物”であれば良いのだ。そしてここの観客はそれを見分ける目を持っていた。そして今その”本物”に、ただただ歓喜しているだけなのだ。さすがに世界一の闘牛場の、世界一のファン(アフェショナード)の集まる祭り、サン・イシドロなのだ。

 この闘牛士は、独特なスタイルでパセをしていた。それは、牛と自身の体の間に、ムレタを入れて牛を誘うやり方で、ほかのスペイン人闘牛士には観られないことだった。なぜだか背筋がゾクゾクしてきた。目に涙が溜まってきた。

 闘牛士のアポデラード(マネジャー)のルイス・アルバレスは、アレナ(英語のアリーナ。この場合、闘牛場の土の部分)を囲む壁際の通路(カジェホン)にいて、大声で大きなジェスチャーをしていた。

 彼は闘牛士に早く”真剣”(エスパーダ)を持っていくように言ってるようだった。もうこれ以上パセは必要ない。耳は充分取れる。そう思っていたのだろう。

 剣持ち(モソ・デ・エスパーダ)から真剣を受け取った、バンデリジェロ(配下の銛打ち)のモナキージョ・デ・コロンビアは真剣を闘牛士に持っていった。代わりに木製の剣(たけみつと言えば分かるだろうか)を受け取り、避難所(ブルラデーラ)に戻ってきた。

 闘牛士は、サン・イシドロには初めての出場だった。

 観客も興奮していたが、ルイス・アルバレスも興奮していた。でも一番興奮していたのは闘牛士だっただろう。なぜなら自分がやっている闘牛に、観客の「オーレ」の大合唱がこだましていた事に、戸惑いながらも嬉しそうに首を縦に振ってうなずいていたからだ。闘牛士は外国人だった。戸惑い、驚きながらも、このまま剣刺しが上手くいけば、と思っていただろう・・・。

 興奮で闘牛場はざわついていた。

 観客は闘牛士の一挙手一頭足に目を奪われていた。木製の剣を、真剣に代え、牛と対峙した。

 足の位置を決めると、体の後ろからゆっくりと、ムレタを牛の目の前に出して「アヘッ」と、言って牛を誘った。牛は、ムレタに吸い寄せられて動き出した。弓なりになった体で、ムレタを振り牛をパセ(通過)した。「オオーレッ」パセとパセの間の”間”。牛の角が、体ギリギリに通過する時に、緊張と共にくる危険な興奮が、闘牛場を支配していた。

 彼は、この5月21日までに出場したどの闘牛士よりも危険で勇敢なパセで観客を熱狂させた。

 牛を仕留める最後の山場になった。モナキージョ以下のバンデリジェーロ達は避難所で、万が一の事故に備えていた。闘牛士は、牛の前足を揃えて、背骨が真っ直ぐ自分の方を向けて立たせた。左手にムレタ、右手に真剣を持って構えた。

 普通この時、牛の前足を揃えさせるのは、前足を支える肩骨を開かせる為である。なぜなら肩骨が閉じていると骨に剣が当たり、体の中に入っていかないからだ。背骨を真っ直ぐにさせるのは、牛の動きを予測しやすくする為で、その方が刺しやすいからだ。

 刺しに行く時、ムレタを振るのは闘牛士が牛の角に突かれない為で、囮として使い、その時牛の頭が一番下に来た時に剣を刺すようにする。そして、剣は、肺の大動脈か、心臓を一突きで貫くであろう一点を目指して刺さなければならない。

 左手のムレタは、牛の顔を覆うようにして振られ、右手に持った真剣は、背骨と平行に刺す。闘牛士は角の向かって左側に反転して身をかわす。ムレタは、牛の目の前で振られ、闘牛士は、体を移動させながら真剣を刺す。

 結果的にムレタを持った左手と、真剣を持った右手は、牛の前で交差するという不自然な格好で行われる。ムレタの振りが悪ければ、囮のならず、闘牛士は牛に突かれる。もし角が、最後までのこっている右足の内腿に刺されば、そこを通る大動脈に穴があき、闘牛士は死ぬ。

 今は神話になった、大闘牛士マノレーテが死んだ時も、牛に剣を刺したと同時に、角を内股に受けて牛の首の一振りで、体は高く跳ね上げられて後ろに落ち死んだと、言われていた。

 闘牛士が唯一、自ら牛の角に近ずく危険な仕留めをスペインでは「真実の瞬間」(オラ・デ・ベルダ)という美しい言葉で表す。

 闘牛士は「真実の瞬間」を向かえようとしていた。

 牛から5m位の所に立ち、ムレタを振って牛の体を真っ直ぐにして、前足を揃えさせた。そして、牛から2・3mの所に立った。足の位置を決めると、剣を持った右手を右頬の前に持っていき構えた。剣先は背中の一点に向けられていた。

 ここで、一発で剣が牛に刺されば、闘牛士は有名になり、大金を手に入れる事ができるだろう。しかし、失敗すれば・・・。

 闘牛士は、左手のムレタをゆっくり大きく振って牛を誘った。牛は頭を下げて闘牛士に向かって駆け出した。闘牛士は逃げはしなかった。

 一歩も動かず真剣だけで牛を受け止めた。

 何かが飛んだ。

 闘牛士は牛の後ろにいた。闘牛士は両腕を高々と上に突き上げて立っていた。近くにはムレタが落ちていた。歓声が起こり、観客は全員が立ち上がって拍手を送っていた。

 彼がやった剣刺しはレシビエンドという最も難しい技だった。

 牛は倒れた。彼は倒れた牛の前で両腕を上に上げて観客に答えた。闘牛場に花が咲いたように白いハンカチが沢山揺れていた。それはすぐに闘牛場全体を包み込んだ。

 「トレーロ、トレーロ、トレーロ」興奮した観客は口々に呪文のように叫びだした。

 プレシデンテ(闘牛を取り仕切る会長)に耳を出すように要求しているのだ。プレシデンテは白いハンカチを出した。それでも観客はハンカチを振って「トレーロ、トレーロ、トレーロ」の合唱を止めなかった。プレシデンテは二回目のハンカチを出した。観客は満足した。

 避難所に戻って、顔の汗や、手に着いた血を水で洗い流していた闘牛士は、耳を受け取りにいった。プレシデンデの代理人のアルグシルから耳を受け取り挨拶を交わした。両手には耳が一つづつ握られていた。

 後ろから、赤いセーターを着た男が、闘牛士の股ぐらに頭を突っ込んで、闘牛士を肩車した。観客席から花束が投げ込まれた。帽子が飛んだ。アレナを肩車で回る闘牛士は二つの耳を両手に握り、観客に見えるようにかさした。笑顔か、泣き顔か、分からないような興奮した顔で、場内を一周して闘牛場の大門(プエルタ・グランデ)から退場していった。

 この5月21日、生涯最高と思える闘牛をした闘牛士の名前は、テレビを通じてスペイン中に知れ渡った。それまで彼を知っていた人は限られていた。期待していたのは、彼をコロンビアから連れてきた、マネージャーのルイス・アルバレスと、お抱えのクアドリージャ(ピカドール・バンデリジェーロ)位だったろう。

 去年の8月中旬から10月までにスペインで14日闘牛をし、22個の耳を取ったとはいえ一流闘牛場にはバレンシアの秋祭りに1日出ただけだった。そこで耳を1つ取って、今年のサン・イシドロの出場の機会を得た。

 彼の名前は、セサル・リンコン(本名フリオ・セサル・リンコン・ラミレス)と言った。

 コロンビアの首都ボゴタで1965年9月5日に貧しい家庭に生まれた。父は若い頃バンデリジェーロをしていた。その後、闘牛士の写真を撮って闘牛士に売っていた。セサルが10歳の頃、父の手伝いで闘牛士に写真を届けたのが、闘牛との出会いだった。闘牛の手ほどきを父から学ぶ。

 セサルは幼い頃から色々な仕事をして家計を助けた。コロンビアにある三つといえば、麻薬・ルビー・コーヒーだろう。国連が、いくら子供の労働を禁止しても、お金がない貧民は、子供の労働に頼らざるを得ない現実が、世界には沢山あるのだ。

 セサルは11歳でムレタを持っている。スペインのように、闘牛学校を出てノビジェーロ(見習い闘牛士)になるという、明確なものはコロンビアにはないらしい。

 母と姉が、火事で死んだときも闘牛をしていたという男だ。

 17歳の1982年12月8日にボゴタでアルテルナティーバ(正闘牛士認定式)を受ける。これは、落語で言う「真打ち」であり、武士で言う「元服」ということに近いだろう。

 84年9月2日にマドリードのラス・ベンタス闘牛場でコンフィルマシオン・デ・アルテルナティーバ(これは世界でマドリードとメキシコシティーの二カ所だけで行われるもので、コンフィルマシオンを受ける以前に、食えなくて止めてしまう闘牛士が実に多い)受ける。

 84・85年とスペインで闘牛をするために、ジィージョと同じマネージャーにマネージメントを依頼する。ジィージョは将来を嘱望された闘牛士で、貴公子と呼ばれていた。

 しかし、この頃セサルには運がなかった。

 ジィージョは85年8月31日マドリード近郊のコルメナール・ビエホで牛に心臓を一突されて死んでしまう。

 マネージャーは、すっかりやる気をなくし、自殺する。

 セサルはスペインでの契約(カルテル)を結べず、コロンビアで有名になろうと決意して帰国した。セサルは、南米巡業に来ていたスペイン人闘牛士と、対等に渡り合っていた。

 その中でコンスタントの上位にランクされる有名闘牛士のオルテガ・カノの紹介で、今のマネージャーのルイス・アルバレスに会い、スペインでの契約にこぎ着ける。

 そして、1991年5月21日の耳二つを、世界一の闘牛場で取って、プエルタ・グランデする。闘牛士にとって、ラス・ベンタスでプエルタ・グランデすることが、どれほど難しいことか・・・。ましてや、スペイン人ではない、外国人のセサル・リンコンにとっては・・・。

 マスコミの伝えるところによると、サン・イシドロに出るに当たって、スペイン人闘牛士の組合から、外国人闘牛士を何故出すのだと、圧力がかかり、在スペインのコロンビア大使から、「これ以上コロンビアの評判を落とさないでくれ、もし君がどうしても出ると言うなら、その後の事は責任が持てない」と、言われたそうだ。

 それは、ビザやパスポートなどの事も含めての、嫌がらせだったのだ。

 なにもコロンビア人など出さなくても、スペイン人闘牛士は一杯居るのにと、言うスペイン人達の圧力が在スペイン、コロンビア大使に、そのようなことを言わせたのだった。

 そして、そんな中でセサル・リンコンは、プエルタ・グランデをした。もう二度と、来れなくなるかも知れない不安を抱えて、ラス・ベンタスに立っていたのだった。

 97年、スペインに行った時に、セサルは遠い所から来た、日本人のことを覚えていてくれて、自宅に招いてインタビューさせてくれた。その中でこんな事を言っていた。

 

「あの日、ホテルに帰って、子供のように泣きじゃくった。なぜなら、夢が達成されたから。長い間、スペインでは年に2回か3回しか闘牛が出来なかった。逆に、自分が闘牛場にお金を払わなきゃ、闘牛が出来なかったんです。そんな下積みの生活から、最大の夢を達成した訳です。コロンビアで稼いだ金を、スペインに持ってきて、闘牛をするためにお金を払ってた。でもその頃、絶対に止めないで続けようと思ってた。

 なぜなら、必ず夢は達成させる。そういう自信はあったんです。

 ある人が言うには「プエルタ・グランデをやった日にビルヘン(聖処女マリア)が降りてきて、ビルヘンの助けでプエルタ・グランデをしたんだ」と。でも、そうじゃないんだ。ビルヘンは、私が捜し出したんだ。自分の力で・・・。」

 

 セサルは情熱的に語った。まるで昨日のことを喋るように。それを聞きながら涙が出てきた。セサルの前で泣くのは、恥ずかしい事ではなかった。何故なら、セサル・リンコンに会う為に、スペインに来たのだから・・・。

 セサルは自分がやっていることは正しい事なのだ。と言う、自負と自信を持っていた。自分を信頼し、愛せない奴に、一体何が出来るのだ。と、でも言いたげな言葉だった。

 おそらくセサル・リンコンから学んだ最大の物は、その事ではないだろうか。

 日々の努力は惜しまない。一生懸命正しいことをしている人は、必ず報われる。そのためには、自分を愛せなければ、ならないと。おそらく恋愛もそういうことなのだろう。自分のことを、愛せない人間が何故、他の人のことを愛せると言うのだろう。自分のことを、愛せない集団”オーム真理教”とは、大違いだ。

 翌5月22日。有名闘牛士の1人ホセ・マリア・マンサナレスと、去年までNO1闘牛士に君臨するエスパルタコと共に、角傷を受けたフェルナンド・ロサノ(去年のサン・イシドロでプエルタ・グランデした)に代わって、セサル・リンコンが出場した。

 エスパルタコ人気と、前日、二つの耳を取ってプエルタ・グランデしたセサル人気が重なり「切符は売り切れ」で、日向席(ソル)の一番上の席アンデナーダ(三階席)300ペセタは、ダフ屋値段で5000ペセタになり、日向席(ソンブラ)のテンディドス一列目5825ペセタは、なんと10万ペセタに化けていた。

 そして、この日マンサナレスとエスパルタコが三拍子の手拍子と、口笛の中で、演技したのとは対照的に、セサルは前日に続き、この日の最後の牛で耳二つを取りプエルタ・グランデをしたのだった。

 

インタビュー

斎藤 「5月21日の翌日22日。フェルナンド・ロサノの替わりに出てくるけど、22日の出場が決まったのは、いつですか。」

セサル 「21日の夜。」

斎藤 「じゃ、プエルタ・グランデの後で。」

セサル 「そう。ラス・ベンタスの興行主のロサノさんが、やってみないかって電話をしてきたんだ。それで、考えた。と、言うのも21日にプエルタ・グランデをやった後に、スペイン中の闘牛場から契約(カルテル)が、一杯来てたんだ。もし、次の日、出て失敗すれば、それが駄目になるかも知れないから・・・。やっぱりあれは賭だった。」

 

 一回のチャンスをものにすることは、ラス・ベンタス闘牛場では非常に難しい。おそらく万馬券を一点買いで当てるよりも・・・。だが、セサル・リンコンは違っていた。彼には実力が有った。そうなるべきして、そうなったのだ。今思えばそう言うことだ。それから後の事を考えても・・・。ただ外国人である為に出場の機会がなかっただけなのだ。だから、この時はまだ無名だった。

 マドリードの、いやテレビによって21日、22日の闘牛はスペイン中の人間が目撃者になり、証人になった。闘牛専門誌は勿論、新聞、雑誌、あらゆるマスコミは、もう黙ってはいなかった。彼の生い立ちや、苦労話、婚約者名など色々な記事が町の本屋に溢れでた。

 その中で闘牛専門誌『6(セイス)トロス6(セイス)』には、サン・イシドロで耳を取った6人の闘牛士(セサル以外は、耳一つだけだった)が勝利者(トゥリンファドール)とタイトルされて載っていた。ペペ・ドミンギンが書いたセサルの記事にはこう書かれてあった。

 

「セサル・リンコンの為に、マドリードの闘牛ファンは大きな驚きの中にある。彼はほとんど知られていないコロンビア人だった。同郷のガブリエル・ガルシア・マルケスは「一つの驚きを述べる人」と言ったが、カリ、マニサレス、ボゴタ、メデジンなどから、コロンビア人達は、今までにも沢山の役割を果たし、スペイン人闘牛士にも影響を与えた。

 時代の証人は、オルテガ・カノとロベルト・ドミンゲスよって行われた。選ばれたのはセサル・リンコン。彼は、多くの努力と犠牲を結晶させた。それは確認された事実と認めざるを得ない。良いことと、悪いこととを選別する頭を持った、真実の闘牛士。遠いアンデスから私達に、危険な無気力から、疑いのない闘牛の世界に、連れ戻す為にやって来たのだ。

 彼と牛との間に行われる距離のコンクールは、危険に立ち向かう強靱な勇気によって、心地よい余韻を作り出している。パズルは一つの作品を完成させた。今後一年間の価値は、これらの色調の中のある。その事は、多くの議論を必要としない。

 それは、私達が出会った全てだ。

あなた達と私は、闘牛場で。そして何百万の人達は、テレビによって簡単に目撃する事ができた。真実の情熱、明晰な存在は、疑う余地がない。彼は闘牛士の技術、真実の芸術を、私達に発見させたのだった。

 ありがとう。セサル・リンコン。」       作者訳

 

 この最大級の絶賛は、大袈裟な表現をするこの国でも希な事だ。闘牛士に対して「ありがとう」と言うこと自体、希有なのだから・・・。

 だが、セサルの夢は、これだけでは終わらなかった。

 26日に行ったラス・ベンタスで配っていたビラには、6月6日19時から、サン・イシドロで最も活躍した二人の闘牛士による、一対一(マノ・ア・マノ)の慈善闘牛が組まれてあった。

 出場者は一つの耳と、二回の場内一周をした、スペイン人闘牛士オルテガ・カノ。華麗で優雅な闘牛をする芸術家タイプ。と、セサル・リンコンだった。

 ルイス・アルバレスに紹介した人間と、紹介された人間というのも、何故か運命的なことのように思えた。


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