『歴代闘牛士紹介』

98年10月定例会報告。   報告者  斎藤祐司

 「18世紀の初めのある日、ロンダの王立騎馬倶楽部の馬場で貴族が闘牛をやっていた。牛の攻撃で馬の下敷きになった貴族を助けようと馬場の整備係に雇われていた貧乏人の男がアンダルシア帽をおとりに使って牛を何度もやり過ごした。貴族達の驚きと賞賛を浴びた、貧乏人の名前はフランシスコ・ロメロといった。

彼は大工見習いで、おとりに使ったアンダルシア帽の代わりにムレタを作り出した。彼が死んだとき、スペイン1の闘牛士になっていた。彼がロンダの王立騎馬倶楽部で即興で行った動作は永遠に闘牛の性格を変えてしまった。もともと騎士の技術だったものを、徒歩の人間のゲームに変えた。百姓達の為に貴族がやって見せていた遊びが、金持ちの為に、貧乏人の飢えた息子達がやってみせる遊びになった。」−−@−−  

「彼の息子のファン・ロメロは、闘牛チーム(クアドリージャ)を編成、孫のペドロ・ロメロはレシビエンドで生涯5500頭の牛を葬った。」−−A−−  

 徒歩闘牛の基礎を作ったのはロメロ一家である。

 「20世紀の始め闘牛場を沸かせたのは、ホセ・ゴメス・オルテガことホセリートと、ファン・ベルモンテだ。ホセリートは、闘牛士の家族に生まれる。美男子で20歳で歴史上最高の天才闘牛士と言われた。均整のとれた優美な身のこなしの中に古典的な美しさと格調を要約していた。その技巧はきわめて直感的で、技術を自在に駆使する力は極めて完璧だった。

 一方、ファン・ベルモンテは、セビージャのグアダルキビール側の向こうトリアナ地区にあるジプシーの貧民街出身の行商人の息子に生まれる。先天性梅毒の為に発育の悪い脚をして、神経質そうにドモル癖のある醜い小男だった。彼はこの痛む脚を引きずって前人未踏の業績を成し遂げた。

 ホセリートの冷たい美しさを賞賛した群衆は、ベルモンテの残酷なまでの勇気に畏敬の念に打たれ、彼が牛の角に刺される前に一目見ておこうと闘牛場に殺到した。彼には出世を助ける家族の絆や、生得の伝統など何もなかった。文字通りセビージャの貧民街から爪を立ててよじ登って来たのであり、荒々しい意志力でもって、闘牛に革命をもたらせた。革命を終えたとき、これまでの標準を全て修正していた。 それまで普通の人と区別していた弁髪(コレタ)を切ってしまった。」−−@−−  

 そして彼がやった最大の革命は“クルサード”だ。それまで誰もやることがなかった、牛の角の間に体を入れて牛を誘うやり方は(クルサード)、当時驚きもって向かえられた。クルサードは、現在の闘牛ファンが闘牛を観るときの基本になっている。これをして良い闘牛士、悪い闘牛士を区別する。そう言う意味でベルモンテが始めたクルサードは今でも物凄く価値があることなのだ。

 「市民戦争の余波の中登場したマヌエル・ロドリゲスことマノレーテは、悲しげな黒い瞳と、憂鬱そうな仮面のような角張った顔の男だ。彼の闘牛は厳しい陰鬱な悲劇の連続だった。そしてその悲劇の中に50万人の死者を悼むスペイン国民は、自らの魂の中にかろうじて押さえていた悲しみの反映を見出したのだろう。彼の悲しく孤独な姿が7年間というもの闘牛場を支配した。それは丁度、敵からも味方からも見放されて、ストイックな沈黙の中に悩み飢えたスペイン自体の苦悩の時期を一致していた。」−−@−−

 マノレティーナという、ムレタ技が名前で残っているマノレーテは、それまで真剣(エスパーダ)でファエナをしていたのを、贋の剣を使ってファエナを始めた。真剣に比べて贋の剣の方が軽いので技のバリエーションが以降増えていく。以上が現在の闘牛に貢献した3人だ。

(テキストは、『さもなくば、喪服を』早川文庫。『闘牛はなぜ殺されるか』新潮選書を使用した) 

引用「 」−−@−−は、『さもなくば、喪服を』 「 」−−A−−は、『闘牛はなぜ殺されるか』


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