98年9月20日
9月18日、フランスのニームで、フリアン・ロペス“エル・フリ”の、トマール・デ・アルテルナティーバが、行われた。
パドゥリーノ、ホセ・マリア・マンサナレス。テスティーゴ、オルテガ・カノ。
エル・フリは、今までノビジェーロだった。それまでは、メキシコを中心に活躍していた。10歳の誕生日のプレゼントに、闘牛学校入学をねだって闘牛を始めたと言う。メキシコ・シティーで、2回の“インドゥルド”をして評判を上げる。
メキシコは、カポーテ技の宝庫で、色々なバリエーションのキーテ(カポーテでやるパセ)が出来ると、今年スペインに行ったときに、日本人闘牛士の“エル・ニーニョ・デル・ソル・ナシエンテ”こと下山敦弘さんから聞いていたのだ。16歳になった今年からスペインで闘牛を始めた。
何故なら、スペインでは16歳未満は闘牛が出来なくなったのだそうだ。
今年のスペインで凄い活躍をした。行くところ行くところ耳を沢山切って、プエルタ・グランデの連続だった。
9月13日。マドリードのラス・ベンタス闘牛場でウニコ・エスパーダ(1人で6頭の牛を相手にする闘牛)をやった。
ノビジェーロなのに、1人でラス・ベンタスを満員にしてしまった。
4頭目までは、良い牛が出なかったが、5頭目で真価を発揮した。凄いキーテをやって、バンデリージャまで刺し、凄いファエナ。剣刺しも一発で決めて耳2枚。
剣刺しは、新聞によるとムレタをなくしながら、レシビエンドをやった、とある。見ていた人の情報だと、ア・ウン・ティエンポという、ボラピエとレシビエンドを合わせたものだそうだ。つまり、牛と闘牛士が立っている中間で出会って、剣を刺した。
この日、エル・フリはプエルタ・グランデをした。
観ていた知り合いが言うには、エル・フリは1つの“事件”だった。と、言っている。
ニームでも、耳1枚と、耳1枚の合計2枚の耳を取って、プエルタ・グランデをした。
マスコミは、騒いでいるらしい。来年は、ホセリートやエンリケ・ポンセなどの既成勢力はフェリア(祭り)に呼ばれる回数が減って、若手闘牛士にカルテル(契約)を取られるのではないかと。
その中心が、若干16歳の“エル・フリ”なのだと。
補足すれば、若手闘牛とは誰か?と言うと。
まだ、23歳の、ホセ・トマス。同じくエウヘニオ・デ・モラ。20歳の、ミゲル・アベジャンだろう。
年を食っているが、27歳のマヌエル・カバジェーロも新興勢力だ。
どうやら、今年のサン・イシドロで感じたことをスペインでも囁かれ始めているらしい。見ている人はちゃんと見ているのだ。
来年のサン・イシドロが今から楽しみになってきた。
20-Sep-1998
98年10月24日
ホセ・ミゲル・アロージョ・デルガドこと、ホセリートが9月26日にセビージャでやったウニコ・エスパーダ(1人で6頭相手にする闘牛)で、見せ場なく、観客の罵声の中を退場した。期待していたファンはガッカリした。
自分のやりたいことが全く出来なかったらしい。それには、色々な悪条件が重なった。天気が悪く、雨で中止になりそうな日で、風が強く、出てくる牛、全てが悪かった。2頭目位から本人もやる気をなくしたと言うか、諦めたと言うか、捨ててしまったようだ。最後の牛は、すぐ殺してしまった。バレラに座って見ていた人が、ピカドールに「どうしてすぐ殺すんだ」と、聞くと「あの牛を高貴じゃない」と、言ったらしい。
こうなると、俺の理解の彼方の話だ。
もっとも、バジャドリードでホセリートを見た人(闘牛初心者)の話だと、これでセビージャのウニコ・エスパーダは大丈夫なのだろうか?と、思ったと言っていた。以外とこういう人の感想の方が正しいと思う。余計な思い入れがないだけに。
翌日のエル・パイスには、「癇癪を起こしたホセリート」なんて見出しだった。サラゴサをキャンセルして休養にロンドンに旅立った。今年のメキシコ、南米巡業は取りやめになった。来年すら闘牛をしないなどと言っているらしい。
去年の4月のセビージャで耳2枚取ったときの剣刺しで、右手首の腱を損傷してから痛さを堪えて闘牛を続けてフォームまで崩してしまって去年はちっとも良くなかった。今年もサン・イシドロ祭で耳1枚を取ったが、内容的にはホセ・トマスやエウヘニオ・デ・モラ、マヌエル・カバジェーロ、ミゲル・アベジャンに差を付けられた。
とても悲しいことだが、ホセリートは今の自分の状態を良く知っているからこそ休養宣言をした。セサル・リンコンやエンリケ・ポンセもそろそろ危ない。活きの良い若手がぼんぼん上に上がってきた。ホセ・トマス、エウヘニオ・デ・モラ、23歳。ミゲル・アベジャン、20歳。驚異の闘牛士エル・フリ16歳。
俺が闘牛を本格的に見始めた頃の有名闘牛士は年々姿を消してゆく。寂しい限りだ。
ホセリートが復活したら勿論見に行く。当然の事だ。孤児院からたった1人で這い上がって来た男だ。このままじゃ終わらないよね。ホセリ−ト!
98年11月19日
マドリードのフェリア・デ・オトーニョ 最優秀闘牛士、ウセダ・レアル。
サラゴサのフェリア・デ・ピラール 最優秀闘牛士、モランテ・デ・プエブラ。
大分遅くなったが、報告しなければならない。サン・イシドロ祭の時に、TVカメラに向かって 「これから、耳2枚取って、プエルタ・グランデに行く」 と言って、アレナに出ていったのが、ウセダ・レアルだ。知り合いのマルさん夫婦は、ウセダ・レアルのことを、嘘だレアルと、言っていた。その彼が、プエルタ・グランデした。良いファエナだったらしい。ペーニャの会員の寿美さん曰く、「綺麗だった」と。
サラゴサのモランテ・デ・プエブラは、耳3枚取って最優秀闘牛士になった。マヌエル・カバジェーロも耳2枚取ってプエルタ・グランデをした。これは、マヌエルらしい、良いファエナだったが、耳3枚取った方がやはり受賞した。モランテは今年セビージャの最優秀闘牛士になっているので、第1級闘牛場の初めと最後の祭りで受賞したことになる。
98年11月20日
ホセ・トマスのモソ・デ・エスパーダが、ホセリートのモソ・デ・エスパーダのホアキン・ラモスに代わる。ホセ・トマスのアポデラード(マネージャー)は、現在サンティアゴ・ロペスだが、10月の末あたりから代わると、言う情報が新聞紙上で流れている。
これが、誰になるのかアフィショナード(闘牛ファン)の、関心の的だった。カサ・デ・チョペラか、カサ・デ・ロサノになるのか。それとも、エンリケ・マルティン・アランスになるのかと。
移籍補償金が、1億3千万ペセタになるらしい、話の行く先はどうやらエンリケ・マルティン・アランスになりそうだ。エンリケ・マルティン・アランスはご存じのように、ホセリ−トのアポデラードなのだ。これが、はっきり決まれば、ホセリートのアポデラードとモソ・デ・エスパーダが揃ってホセ・トマスのもとに集まることになる。
と、言うことは?ホセリートは来年は闘牛をやらないということになるのだろうか?本当にこのまま彼は引退してしまうのだろうか?今後も目を離せないこの問題の行方は、如何に・・・。
98年12月5日
ホセ・トマスのアポデラードが変わった。サンティアゴ・ロペスに変わってアポデラードになったのは、チョペラ一家でも、ロサノ一家でもなかった。やはり、ホセリートのアポデラードのエンリケ・マルティン・アランスがアポデラードに収まった。この様な交代劇が何を意味するものなのかは、解らない。サンティアゴ・ロペスがどのような事で得をするのかも・・・。
また、ホセリートが引退するという、噂が流れているらしいがホセリートは引退しない。そう本人が言っている。この情報は、ペーニャ(東京闘牛の会)の会長の荻内さんが、エンリケ・マルティン・アランスとTELで話して判った。エンリケが言うには、ホセリートは、新しいモソ・デ・エスパーダ(剣持ち)を探していて、来年も闘牛を続ける。と、言っている。と、の話だ。
エンリケとホセリートは、HPの闘牛観戦記の「欲望の謎。母よ!母よ!母よ!」の中にも書いたが、ホセリートが10歳になる頃からの知り合いだ。アポデラードと闘牛士という関係だけじゃない。父と子の様な関係で同じ牧場の中に住んでいる。恐らくホセリートは、エンリケがアポデラードじゃなかったら闘牛士を止めてしまうだろうと思っているくらいだ。
ホセリートのアポデラードは生涯エンリケから変わることはないだろう。このエンリケがホセリートは引退しないと言っている。先ず、間違いのないことだろう。モソ・デ・エスパーダが見つかれば3月のカスティジョンか、バレンシアで登場するはずだ。僕で良かったらモソ・デ・エスパーダやるんだけどなぁ。勿論、安くて良いよ。(笑う)
98年12月14日
今年のシーズンが終わったが、12月10日付けのABCに、リトリの引退の記事が載った。今年は闘牛を見始めた時に活躍していた闘牛士が、引退のの噂が出たり、引退したりする。オルテガ・カノに続きリトリも引退。ベーリー・スペシャル・ワン・パターンの闘牛はもう見なくて済む。ここ何年かは、それなりに正統的な闘牛をやろうとしていたが、技術がついて行かなかった。
残念と言うより、リトリは寧ろ立派だ。自分を解っていないと思っていたが、リトリでさえ自分を解っていた。そう言う事だと思う。ペーニャのリトリファンはさすがにガッカリしていた。ファンとは、ありがたいものだ。そう言う風に思う人もいるのだ。リトリでさえ。
今、思い出したがリトリのバンデリジェーロのファン・モンティエル。92年の時、セサル・リンコンのバンデリジェーロだった。彼は、腕は良い。エル・マンギ(リトリのもう1人のバンデリジェーロ)にしてもそうだ。彼等がその気なら他の闘牛士から声がかかるだろう。ファン・モンティエルには来年また会いたい。去年、6年ぶりに会ったのに僕を覚えていてくれた。来年は何かプレゼントでも持っていこうと思う。
98年12月22日
12月19日に、アーネスト・ヘミングウェイの闘牛士追っかけ記(1959年の闘牛ドキュメント) 『危険な夏』 の主人公の1人、アントニオ・オルドニェスが死んだ。享年66歳。
1932年2月16日に、カジェタノ・オルドニェス(闘牛士“ニーニョ・デ・ラ・パルマ”)の息子としてロンダに生まれる。カジェタノは、やはりヘミングウェイの長編処女小説 『日はまた昇る』 の主人公ペドロ・ロメロのモデルになった有名な闘牛士だった。1920年代にNO1闘牛士になっている。そして、ペドロ・ロメロとは、現在の徒歩闘牛の基礎を作ったロメロ一族の1人の事である。今、ロンダの9月の祭りは、フェリア・デ・ペドロ・ロメロと、言う。
アントニオ・オルドニェスはカポーテの名人として知られている。優雅なカポーテ捌きはヘミングウェイのお気に入りだった。牛を動かして、向かえ受ける剣刺し、レシビエンドをやった時アントニオは「父と同じように出来たでしょうか?」とヘミングウェイに聞いたと、『危険な夏』 に出てくる。
ヘミングウェイが良い闘牛士だと言ったから、アントニオ・オルドニェスが大闘牛士になったのではない。アントニオ・オルドニェスの闘牛を観た、多くのスペイン人が大闘牛士だと思っていたからだ。
92年9月のロンダ。そこにアントニオ・オルドニェスがいた。ロンダの興行主であり、この年デビューしたフランシスコ・リベラ・オルドニェスのお爺さんでもあった。リベラ・オルドニェスが肩車されている姿をジッと見ていた。サインを貰おうとカジェホンに降りていって頼むと、返事もせず、ちらっとこっちの顔を見てノートにボールペンでサインした。その間、目は孫をずっと見ていた。
孫は目に入れても痛くないほど可愛いそうだが、まさにその通りだとそれを見て思った。去年はマドリードのラス・ベンタス闘牛場で、ファン・カルロス国王の隣で闘牛解説をやっていた。ヘミングウェイの 『危険な夏』 の主人公2人はもういない。ルイス・ミゲル・ドミンギンは96年に死んでいる。そして、アントニオ・オルドニェスも死んだ。
99年1月2日
98年12月28日カリ(コロンビア)の夜間闘牛で出場の3人の闘牛士がプエルタ・グランデをした。その3人は、セサル・リンコン、マヌエル・カバジェーロ、ビセンテ・バレラ。
セサル・リンコンは、8月21日ビルバオでこの年2度目の骨折をして、12月に闘牛復帰してからなかなか良い所を見せれずにいたが、復帰以来初めて耳3枚取ってプエルタ・グランデをした。
新聞の記事はセサルの活躍を伝える。4頭目の 「真面目な牛で、様々なカポーテ技を見せた。ムレタでは、闘牛士の手本とすべき技をかみ合わせ、闘牛士としての偉大な素質を証明した。それは難しい事だ。」剣刺しの時にコヒーダされた。プエルタ・グランデした位だから大丈夫なようだ。
マヌエル・カバジェーロは、パセ・デ・ペチョが良かったと書いていた。耳2枚。ビセンテ・バレラはアジュダード・ポル・アルトからいつも通り。耳2枚。
セサルは、自分の国に帰って活躍し始めた。カリの次はマニサレス。ボゴタもある。これからまた、プエルタ・グランデを連発するのだろうか?コロンビアは、スペイン、メキシコに告いで3番目に闘牛開催日数が多い国。ファンはセサルの活躍を待ち望んでいる。年が明ければもうすぐスペインのテンポラーダが始まる。調子を上げてスペインに行って欲しい。
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