欲望の謎。母よ!母よ!母よ!

−−−闘牛士ホセリートの物語−−−

斎藤祐司

 

 

 隣の席に座る女が、ゲルニカの習作『泣く女』(cabeza de mujer llorando con panuel)の如く、手にハンカチを握ってこわばった表情を浮かべている。いや、明らかに引きつっている。白いハンカチはしっかりと歯で噛まれ、それを引っ張るように手で握られているのだ。今にも泣き出さんばかりに・・・。

 1991年5月26日、コルドバの闘牛場でそんな女を見た。二十歳位の金髪の美人。スペイン語で言えば、セニョリータだ。未婚であることは、薬指に指輪がないことからも分かるし、おじいさんと2人で来ていることからも分かるからだ。

 彼女は恐怖している。目の前5・6mの所でホセリートという闘牛士が牛を相手にしていた。牛の前30cmの所に立っていた。牛の左右の角先の間にホセリートの体があった。

 ホセリートは体の左側に牛を置き、右手に握った剣とムレタを、彼の体の前後にゆっくり振りながら立っていた。角とムレタの間にホセリートの体があった。彼の体の前にムレタが振られると牛はそれを見る。すると右角の先がホセリートの体を向く。彼の体の後ろにムレタが振られると牛はそれを見る。すると牛の左角の先がホセリートの体を向く。

 隣の女に恐怖が走る。さっきまで「アッー」とか「ギャー」とか叫んでいた金髪の美人は、5・6mの所まで近づいたホセリートを前にして、声を出せない状態になってしまった。ここで彼女が叫び声を上げれば、牛が驚いてホセリートは角に刺されて大怪我をするだろう。金髪の美人は、白いハンカチをしっかりと噛んで恐怖に満ちた目で牛とホセリートを見ていた。

 ホセリートは、前後に振っていたムレタを、ゆっくり体の前に出した。牛はムレタに向かって動き出した。ホセリート牛の動きにあわせてムレタを振りパセした。牛は仮想敵であるムレタを突き刺そうと動いたが、角は虚しく空を切った。「モー」と牛が啼いた。闘牛用の牛は滅多に啼かない。

 競馬を観ている人なら分かるだろうが、競走馬が骨折しても馬は啼かないものだ。彼等はただひたすら自分自身の運命を受け入れ、歯を食いしばって耐えるだけだ。その後に来る薬殺処分も分からずに。

 

 

 アメリカという国家が、共産主義というムレタを相手にどれほど虚しく角を振ったことか。朝鮮半島でベトナムで・・・。17・8の思春期を終えたばかりの若者を3ヶ月に渡って、徹底的に訓練して戦う男に洗脳し戦争に送り出した。

 ベトナムでは、6万5千人もの死者を出し、その何倍もの負傷者を出した。帰還兵として本国に戻って来た者の内6万5千人の自殺者を出したのだ。

 その数は、ベトナムでの戦死者の数と同数なのだ。(1980年代末の統計)血を見たこともないような17・8の若者が戦場に行って見たものは、顔が半分飛び散った死体、手足のないウジ虫がわいている人間の“死”だったり、ジャングルでのベトコンの罠や、砲撃やゲリラ戦による、”死の恐怖”だった。

 帰還兵が真夜中に目が覚めて寝室の窓を開けて通りすがりの住民をライフルで射殺する事件が起きても、ある意味で不思議なことではなかったのかも知れない。

 彼等の中には、未だに精神的ショックから立ち直れずに社会復帰出来ずに、精神科医のカウンセリングを受けている多くの患者と、アメリカのジャングルなどで人と交わらずに暮らす多くの人々を生み出した。

 そして彼等は狂っていたのだろう。戦争中ベトコンの死体の耳を切ってビニールに集めるコレクターまで出たのだから・・・。

 

 

 ホセリートは右手のムレタをゆっくり大きく前に出した。牛はムレタに向かって頭を低くして動き出した。ホセリートはムレタを振った。牛はムレタを追ったが、ムレタを突き刺すことは出来なかった。牛は「モー」と啼いた。牛が突き刺そうとしているものは、決して突き刺すことの出来ないムレタだった。隣の女は白いハンカチをジッと噛んでいた。

 

 

 1969年5月1日マドリードのラス・ベンタス闘牛場裏にホセ・ミゲル・アロージョ・デルガド(ホセリート)が生まれる。

 ホセ・ミゲルの遊び場は闘牛場だった。闘牛が開催される時に見た闘牛士の華やかな姿に心奪われたとしても、それは不思議なことではないのかも知れない。

 父は生活能力に乏しい人だった。生活は貧しく食べていけない。幼くして母親は、子供と夫を捨てて家を出ていった。子供と2人でも食べていけない。かといって、親戚も頼れない。ホセ・ミゲルは孤児院に引き取られる。

 内気でおとなしいホセ・ミゲルについたあだ名は“デブのホセリート”だった。栄養失調でお腹が出ていたから“デブ”と、言われたのかも知れない。良いものを食べたことがないから、変な材料のものばかりしか口にしてこなかったから太ったのか。どちらなのか分からない。スペインでは、乞食がデブだったり、下層階級の人が太っていたりする。

 内気でおとなしい“デブのホセリート”を孤児院の院長が可愛がった。

 母親に捨てられ、父とも別れて暮らす“デブのホセリート”が、幸運だったのは孤児院の院長エンリケ・マルティン・アランスが、闘牛学校の校長でもあったということだろう。

 闘牛学校でカポーテの持ち方や、バンデリージャの撃ち方、ムレタ捌き、剣の刺し方といった闘牛に関する基本を学べたもの、エンリケ・マルティン・アランスなしには出来なかった。

 そして、闘牛に夢中になれたのもラス・ベンタス闘牛場の裏で生まれ育ち、闘牛場を遊び場にして実際闘牛士を目の当たりにしていたからかも知れない。素人闘牛、いわゆるカペアに参加し腕を上げていったのもエンリケ・マルティン・アランスのおかげだ。人の出会いとは不思議なものだ。

 幼い頃父は、お金が出来ると孤児院を訪ねホセ・ミゲルを連れだして食事したり、おもちゃを買って上げたりしていたらしいが、ホセ・ミゲル12歳の時、父ホセ・ゴンタバは死ぬ。

 ひとりぼっちになったホセ・ミゲルをエンリケ・マルティン・アランスは自分がアポデラード(マネージャー)になって闘牛士としてデビューさせる。闘牛士ホセリートの誕生である。

 1983年9月8日ブルゴス近郊のレルマでデビュー。14歳だった。1986年4月40日マラガで正闘牛士になるためのアルテルナティーバを受ける。

 同年5月26日マドリードのラス・ベンタス闘牛場で正闘牛士認定式コンフィルマシオン・デ・アルテルナティーバを受ける。スペイン最大の闘牛祭サン・イシドロの時、ホセリートは自分が生まれ育ち遊び場にしていたマドリードのラス・ベンタス闘牛場に帰ってきたのだった。そこで耳一枚取る活躍を見せる。

 しかし、闘牛とは厳しいものだ。翌87年サン・イシドロ祭初日。5月15日事故は起こった。

 ホセリートは、左側から来る牛をカポーテでパセした。牛は頭を下げ通り過ぎた。ホセリートは、5・6歩左側に横に移動して牛を向かえる準備をした。牛は向きを変えてホセリートの誘いにのって突っ込んだ。ホセリートは素早くカポーテを前に出してから引いた。牛は頭を下げたまま通りすぎた。ホセリートは5・6歩右側に横に移動して牛を向かえようとした。

 しかし、ホセリートが準備が出来る前に牛が突っ込んでいった。カポーテを充分前に出すことが出来ない内に引いてしまった。牛は一完歩動いて充分頭を下げた状態で首を振り上げた。

 モンテラ(闘牛士の帽子)が飛びホセリートの体は角に刺さったまま移動した。牛は着地した。

 ホセリートの体は右前脚の肩から首のあたりにぶつかった。牛は再び前脚を踏ん張って首を思い切り振り上げた。ホセリートの体は垂直に空中4・5mの高さまで上がって、右足の爪先からアレナ(土)に着き、右膝を着き、前に倒れ右肘が砂の中にめり込んで、砂がはじけるように飛び込んで動かなくなった。

 

 「容態書は伝える。                                        

角は気管、甲状腺小葉、頸動脈、頸静脈、を損傷し、左鎖骨の複雑骨折を引き起こしている。角の直撃を受けたのが鎖骨であったおかげで首が助かった。」 

−−−荻内勝之『午後の死へ、ようこそ』より−−−

 生死の境を彷徨い、助かる。病院のベッドで目を覚ましたホセリートに医者は、「ホセリート。君は生まれ変わったんだよ」と、言った。

 

 翌88年また事故は起きた。5月22日にホセリートのバンデリジェーロ(配下の銛撃ち)が牛の角に刺され、大出血して病院に担ぎ込まれる。

 マドリードのマイヨール広場にメソン“アンダル”という店がある。店内の壁に、闘牛士のコヒーダ(牛に突かれている)の写真が何百枚も飾られている。その中にこの時の写真がある。その白黒写真は壮絶だ。

 バンデリジェーロがバンデリージャ(銛)を撃ちに牛に近づき、牛の背中に刺した後、バランスを崩して牛の頭と首に乗り上げる。牛が首を振る。バンデリジェーロはアレナに落ちる前に何カ所か角に刺される。この時点で一番大きな傷は、尻の下に刺さったものだった。

 アレナに落ちた後も牛は攻撃を続けた。うつぶせに倒れた所に、牛の頭がバンデリジェーロの頭にぶつかるようになって角を振り上げた。バンデリジェーロは、頭の方から持ち上げられるように起き上がらせられて後ろに転がった。

 角はバンデリジェーロの首の付け根に入って、血が4・50cm位噴き上がっている。顔は血だらけになっている。

 それから3日後の25日この年サン・イシドロ2回目の出場の日。そんなに良くなかったにもかかわらず、闘牛場に詰めかけた観客はホセリートに喝采を送った。

 それは生死をを彷徨う彼のバンデリジェーロと彼の気持ちを気遣ってのものだった。翌翌日27日3回目の出場の日。最後の牛で観客の喝采に応えて場内一周をする。彼のバンデリジェーロはまだ小康状態を保っていた。

 だがそれから4日後の5月31日、オスピタル“ドッセ・デ・オクテゥブレ”(10月12日病院。10月12日はスペインの日である)で、帰らぬ人となった。

 首都マドリードの守護神サン・イシドロ祭で、2年連続の事故。

 

 「闘牛場の裏で育ったホセリートが土地の守護神の祭りで角に引っかけられたもでは、その後頼む神のあるものか、彼はそれ以来、巡業に祈祷具を携帯しない唯一の闘牛士になっている」                                 

 −−−荻内勝之『午後の死へ、ようこそ』より−−−

 

 貧しい家庭に生まれ母に捨てられ、孤児院に入り、父が亡くなり、エンリケ・マルティン・アランスに出会い闘牛士になる。そして事故。

 ホセリートの人生は、良い事と、悪い事とがバイオリズムの波のように、交互にやってくる。

 ホセリートと、じいさんほど年の離れたエンリケ・マルティン・アランスとは、闘牛士とアポデラード(マネージャー)というものを越えた、本当の親子のような関係だと言う。 

 今ホセリートは、エンリケ・マルティン・アランスが持っている牧場で一緒に暮らしている。

 マドリードからバスや列車で2時間位行ったタラベラ・デ・ラ・レイナの牧場は1920年に死んだ、今世紀始めの大闘牛士ホセ・ゴメス“ガジィート”こと“ホセリート”が持っていた牧場らしい。

 そして、ホセ・ゴメス“ガジィート”こと“ホセリート ”が、牛に殺されたのもタラベラ・デ・ラ・レイナの闘牛場だった。

 神を信じないホセリートは、死んだ“ホセリート ”の運命に挑戦するようにタラベラ・デ・ラ・レイナに拘っているようだ。

 土地のアフィショナード(闘牛ファン)は、「ホセリートがタラベラ・デ・ラ・レイナで闘牛の開催日に雨で中止になることが多いのは、神様が雨を降らせているからじゃないか」「いや、死んだ“ホセリート”が天国から雨を降らせているんだ」と、噂している。

 ホセリートは、エンリケ・マルティン・アランスと家族には、心を許すことが出来るようだが、他の人とはあまり溶け込む事が出来ないでいる。

 闘牛場の中で一緒に出場する闘牛士と、あまり話をしない。彼は、積極的に自分から話をするということをしないのだ。

 彼がいつも自分の出番でない時は、かたわらにカポーテを置いて牛を観ている。そこに92年であれば彼の運転手がそばに行って良く声を掛けていた。運転手は、ホセリートの剣刺しが上手くいくと右手の拳を突き上げて良くガッツ・ポーズを取っていた。

 91年のモソ・デ・エスパーダ(剣持)フランキン・グティエレスは、ホセリートと大喧嘩して92年からエンリケ・ポンセのモソ・デ・エスパーダ(剣持)になっていたが、闘牛場で会っても挨拶もしなければ、目線すら合わせることがなかった。

 ホセリートの短気な面もあるのだろうが、自分を理解してくれる運転手のような人間が、彼には必要なのだと思う。

 

 

「人間の感情はどこから来るのか。人間のあらゆる感情は脳から生まれる。

 脳の感情に関わる部分だけを通る神経をA10(エー・テン)神経と呼ぶ。A10神経を流れるドーパミンは、喜怒哀楽、快、不快、に関係する物質で、特に愛と関係が深いと考えられている。

 A10神経は、神経繊維の束です。その一本一本の中を神経繊維は、細胞から細胞に信号を送る電線で、その内側では、小さな球にくるまれたドーパミンが末端へと送られる。

 そしてA10神経の末端に溜まった小さな球は、外から入ってきた刺激を受けて、はじけ中のドーパミンが放出されます。するとA10神経の通っている場所の細胞がレセプター(受容体)で受け止め、興奮し始めます。その興奮は脳に快感を生み出します。

 快感とは、A10神経から回りの細胞にドーパミンが放出され、その時生じる興奮から生み出される現象だと、考えられています。

 快感は、自律神経から全身に伝達されます。たとえば、好きな人の前に立つと、心臓の鼓動が早待て胸がドキドキしたり、顔に伝わると、頬が赤くなったり目が潤んだりします。恐怖の時も同じような現象が起こります。

 A10神経は、中脳、視床下部(ししょうかぶ)、扁桃体(へんとうたい)、前頭葉を通っています。

 視床下部は、欲望のを司る脳です。食欲、性欲を司る。男と女では大きさが違います。

 ドーパミンは親子を結びつけるオキシトシンを視床下部で生み出します。

 人間は、自分以外の生き物に恐れる原始的本能があります。不安や恐れは、視床下部で生み出される原始的本能です。視床下部は、外から与えられる刺激の種類によって、快感を生むこともあれば、不安を生むこともあります。

 扁桃体は、好き嫌いを判断する中枢。自分にとって有利、不利を判断する。五感などからの情報に扁桃体が反応し、A10神経を通って興奮、細胞が記憶します。また、視床下部で生み出された快感や不安の暴走を防ぐ為にコントロールする作用もあります。

 男女の愛。その好き嫌いを決める出発点は幼児期に決まります。この時期にどの由な愛情を与えるかが、その後に大きく影響して来るのです。

 人の脳は幼児期に急激に発達します。誕生から1年たつと脳の体積はほぼ倍に増えます。そして神経繊維が枝のように伸びて脳の基礎が出来上がるのが3・4歳頃まで。この時期が愛にとって最も重要なのです。

 赤ちゃんには、自分に快感を与えてくれる特定の人と絆を作りたいという、強い本能を持っています。無条件に愛される親子の絆。愛の原点はここにあるのです。

 巨大に進化した脳。全ての感情はここから生まれます。

 愛とは何か。それは私達の脳に、問い続けてきた永遠のテーマです。

 

 人の脳から愛が生まれる時、そこには快感を伝える物質ドーパミンの大きな働きがありました。

 その快感が人と人を結びつけるのです。人を愛し、愛される為に私達の脳は常に外を向いて開かれているのです。

 愛とは、人と人が生きる喜びを分かち合う事。二つの心が出会って、ひとつの心に溶け合う命の喜びなのです」

 

     −−−NHKテレビ、人体U 脳と心 第四集「人はなぜ愛するのか〜感情〜」要約−−−

 

 

 ある時、ホセリートを1人の女が訪ねる。女は自分がホセリートの生みの親だといった。そしてホセリートの生みの親である自分は、それ相当のお金をもらう権利があるのだと主張した。

 女は確かに生みの親だったが、ホセリートは無視した。当然だろう。生みの親ならば、まずホセリートを捨てたことを一番始めに“わびる”事が筋だろう。

 だが、女はそれをしなかった。自分を捨てた母親でも、一番大切なものはやはり母親だろう。母親を無視したのは、その逆説。裏返しとしてだ。

 女がホセリートに会いに来たのは、親子関係を修復しに来たのではなく、お金が欲しいだけなのだ。

 昔あるボクサーが寺山修司に、

「自分がボクシングをしているのは、自分を捨てた母親がテレビで殴られている姿を見て、可哀想だと、思って訪ねてくるのを待っているからだ」と、言ったそうだ。

 しかし、ホセリートを訪ねて来た母親は、「牛に突かれて痛かろうに」と、思う母親ではなかったのだ。

 

 

 

「     母恋春歌調 −−−青少年のための家出入門−−−  寺山修司

 

   思いあきらめ去りゆく影を

   呼ぶかこだまのあの声は

   乳房おさへてあとふり向いて

   流す涙も母なればこそ

 

 大映映画「母三人」は、三倍泣かせる映画であった。水洗以前の便所の匂いが鼻をつく場末の港館で、

私はこの映画を三回観たのを覚えている。人生は、映画以前のノゾキカラクリで、どこでもここでもお涙頂

戴。おかげで私は映画館の暗闇に逃げ場をさがして、そこに繰りひろげられる三文悲劇の因果のむくいは

すべてスクリーンのなかで完結してもらうことにしたのだ。それと言うのも連絡船で、二夜の旅に出た母が

そのまま帰らず、私が「捨児」になったのだと気づいたときには、母はもう炭鉱町で酌婦をしていたからだっ

た。私は、母が出ていってから、一度も掃除をしなかった。畳の上に落ちている一本の抜け毛が、母の髪

の毛だとわかると、それを指にぐるぐると巻いて長さをはかったりした。二ヶ月位は平気だったが秋風が吹

く頃、銭湯に行って湯につかっているとなみだが出てきた。

遠くから、銭湯まで祭囃子の音がきこえてきたときのことだ・・・・・・・・・

 

 それから私は母の悪口を言うようになった

 ノゾキカラクリの人生めがね

「おい、いい歌おしえてやろうか」

と、言って、近所の子たちを集めてきては、みんなに合唱させた。

「浮世はなれた坊主でも木魚の割れ目で思い出す

 道心堅固な母でさえ バナナのぬき身でサネこする」

 さあ、大きな声で歌ってみな。道心堅固な母でさえ バナナのぬき身でサネこする。

 思えば切ない復讐ではあった。

 

一人だけで暮らすことが不可能になり、福祉事務所から人が来て、私を親類のもとにあずけさせることにな

ったのはその年の冬だ。私が家を去る日、ふと思いついて畳をめくってみると、そこには母のヘソクリも成田

さんの守護札もなくて、ただ、一冊の春本があった。私はそれを福祉事務所の人にかくして学校の鞄の中

にしまいこみ、夜汽車の中で一人で読んだ。それは、恐ろしい「わが読書」のはじまりであったが、しかし、

十三歳の私にはいささか難解にすぎたとも言える。私は汽車の中で、その春本のなかの、意味不明のとこ

ろすべて、ハツという名をはめてみた。ハツというのは、私の母の戸籍上の本名である。

 

 「いきなり腰に手をかけて引き寄せ、しなやかな内腿に手を入れて、新芽のような柔ら  

 かい彼女のハツに指を入れた。するとハツは

   あれ!

 と身もだえしたが、そのままハツをくねらせると、だんだんハツになると見えて、

 ハツの腿のへんまで伝い流れて、ハツの瞳の色も灼けつくように情熱を帯びてくる

 のだった。そこで、時分はよしとハツのよくのびた片足をあげて、半ば後ろからハ

 ツをのぞませ、二三度ハツをハツしてから、ぐっと一息にハツすると、さしものハ

 ツもハツで充分だったので、苦もなくハツまですべりこんだ、その刹那・・・さすが

 にハツに馴れたハツも思わず

   「ハッ!」

 と熱い息をはいて、すぐにハツをハツしてハツハツとハツするハツにぐいぐいと

 ハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハ

 ツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツ

 ハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハ

 ツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツ 魂

 の母親殺し 泣き笑う声かハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハ

 ハツハツハツハツハツハツハツ

  「雨に嵐にまた降る雪に

   つばさも痛むか 迷ひ鳥

   知らぬ他国の山越え野越え

   ながす涙も母なればこそ」                      」

 

 

 

 92年9月13日ムルシア。闘牛が終わった後のホテルで行われた記者会見で1人のアフィショナード(闘牛ファン)の老人が切り出した。

老人 「ホセリート。あんたはあの牛の左側に立ってパセをを続けた。何故なんだ。あんた位闘牛を知っていたら判ってたはずなのに。いや、あんた判っていた。あの牛の左目が見えないことを知ってたはずだ。」

ホセリート 「いや、判っていた。牛の左目が見えないのは知っていた。だけど何故、あの牛を闘牛に使ったんだ。獣医はどこを診ていたんだ。」

獣医 「私は、あの牛の左目が見えない事を闘牛場側に伝えた。あの牛を闘牛に使わないように言った。獣医として許可が出せないと。しかし、興行主がその事を握り潰して、あの牛を闘牛に使ってしまったんだ。」

老人 「ホセリート。あんたは判っていたのに何故あんな危ないことをするんだ。左目が見えないなら左側にではなく、右側に立ってパセをしなきゃ駄目じゃないか。あんたはそんなことは判ってる。あんたは意識しない内に牛の左側に立ってパセし    ていたのかも知れない。意識していたのかも知れない。しかし、ホセリート。あんたをそういう風に投げやりにさせるのは、あんたの生い立ちのせいじゃないのか」

ホセリート 「・・・・・・・・・」

 

 以上は、荻内勝之先生が、ムルシアの記者会見のやり取りを話してくれたものの、聞き書きである。

 

 老人は、ホセリートに向かって言う。「あんたをそういう風に投げやりにさせるのは、あんたの生い立ちのせいじゃないのか」と。

 スペインでは、人と人との間の距離が凄く近い。少なくとも日本よりもずっとずっと近いんだなぁ。

 確かにホセリートの闘牛を観ていると時々投げやりとも思える、無鉄砲な部分を感じる。「おいらの命なんて、どうでも良いんだ」とでも思っているのか、それは知らない。しかし、老人はホセリートのその部分をたしなめたのだった。

 

 

 

 1991年5月26日コルドバの闘牛場。

 隣の席に座る女は、ピカソの『泣く女』のように、手に白いハンカチを握って明らかに引きつっている。今にも泣き出しそうな顔で、歯で白いハンカチを噛んで恐怖に耐えていた。彼女の視線の先では、ホセリートが牛の前30cmの所に立ってムレタを振っていた・・・・・・。

 闘牛場は静寂の中に入った。

 最後の仕留めの場が来た。

 ホセリートは、左手のムレタを高く上げた。牛の首を上げるためだ。それから腰の所に持っていってムレタを止めた。右手を顔の前に持っていって剣を構えた。剣先は柄の部分よりも10cm位高くなっていた。当時こういう構え方は彼独特の構え方だった。そしてムレタを振り牛に向かった。

 剣が牛の中に入っていくとき、シュルシュルという音が聞こえた。剣が牛の骨を擦るからか、肉と擦れる音なのかは判らない。剣を砥石で研ぐ音に近かった。剣は一刺しで牛の背に柄元まで突き刺さった。

 観客は一斉に歓喜の声を上げた。ホセリートは、左腕にムレタをたたんで抱え、右腕を真っ直ぐ伸ばし、人差し指を剣の刺さった牛に向けて「すぐ倒れるぞ」と言わんばかりのポーズをして立っていた。

 牛は、脚を踏ん張って堪えていたが、口からドス黒い血を大量に吐き出して倒れた。ホセリートは、右腕を大きく上に振って喜び、観客を観てにっこり笑った。

 手にハンカチを持って口にくわえ、叫び声を殺してホセリートの闘牛を観ていた金髪の女は、牛が倒れるとまっ先に立ち上がって右腕を上下に振った。右手には白いハンカチが握られていた。白いハンカチが振られているのは、闘牛を取り仕切るプレシデンテ(会長)に対して、倒した牛の耳を褒美としてホセリートにあげる許可を求めているからだ。

 闘牛場は白いハンカチで埋まった。ハンカチは風に揺れる花のようだ。

 彼女は興奮し真っ赤な顔で絶叫した。「ホセリート・ボニト。ムイ・ボニト」(ホセリートは美しい。本当に美しい)彼女は、極度の緊張から解放されたと同時に感動した。

 彼女の目からは、夕日に光る二筋の透明なものが零れ落ちていた。おそらくこの時、彼女の脳の中では、A10神経からまわりの細胞にドーパミンが、大量に放出されていたことのだろう。

 ピカソの描く『泣く女』は悲しみと絶望の中に身を置く女。この隣の席の金髪の女は歓喜と感動の中に身を置く女。どちらも人を引きつける、ある美しさを持っている。

 プレシデンテ(会長)は、ホセリートに耳を渡す許可を出した。ホセリートは、プレシデンテ(会長)の代行者であるアルグシルから耳を受け取り、肩車で場内一周を始めた。そこにはたまにしか人前で見せることがない最高の笑顔があった。

 ホセリートが美しいのは、何も彼の顔が美形のせいだからではない。輝き、溢れ出るほどの才能を持っているからだ。

 また、闘牛を観ている人に感動を与えるからだ。そして、老人が言う“生い立ち”が、彼の闘牛と人生を、ダブらせる装置としてあるのかも知れない。

 いや、そればかりでなく、やはり、パセの美しさ、とりわけナトゥラルの職人的といえる正しい振り方や、剣刺しの凄さ、そしてひとつひとつの技の確かさが基本にあってこその、ものなのだ。

 

 

      取材中の荻内先生とホセリートの会話。

「闘牛は名誉かい、それともカネ?」

「名誉とカネは親子だから・・・・・・」

「あんたみたいに牛に体を預けちゃうと、早晩やられると思うよ、あんたは風じゃないんだから」

「いつもこれが最後だと思って牛の前に立つ」

「やめられない?」

「哲学だから」

 

 

 ホセリートは「いつもこれが最後だと思って牛の前に立つ」と言う。そういう気迫が彼の闘牛の中にいつも滲み出ているのだ。

 今ホセリートの楽しみは、牧場で牛を観ること。最も心が和むのはエンリケ・マルティン・アランスの孫の女の子と遊んでいる時だという。

 母に捨てられ孤児院で育ったホセリート。神を捨てたホセリートは、何だか今、神様に祝福された生活を送っているようだ。正しい行いをする者にはそれが約束されているのかも知れない。

 97年、ホセリートは婚約をした。おそらく、98年のシーズンが終われば結婚するだろう。


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