闘牛(Corrida de Toros)を開く親鍵

por 斎藤祐司


 闘牛はスペイン語では、Corrida de Toros と言う。Corrida とは、走る。Toros とは雄牛の複数形。だから日本語に訳すとすれば、闘牛ではなく、走牛とするのが本当だ、と言ったのは、片山右京(慶応大学名誉教授)さんだった。だが、そうならなかった。何故か?それは英語の、Bullfight から来ていると思う人が多いと思う。が、スペイン語にそれに相当する言葉があるはずだと思うのが普通だ。スペイン語の、Tauromaquia がそれだ。本屋に行って闘牛の本を探そうとすれば、Tauromaquia を観れば闘牛の本がある。辞書で引けば、闘牛術と書いてある。しかし、ギリシア神話に出てくるケンタウロス。その戦いをケンタウロマキア(残念ながら綴りが判らない)という。おそらく、Tauromaquia は、昔の訳では牛の戦いになるのだろう。

 Corrida de Toros では、牛は最後に殺される。そうしなければならないのだ。殺されることに意味がある。牛は人間にとって神であり、その神を殺すことは、再生をも意味する。命あるものは、いずれ死ぬ。アメリカインディアンの神話でもそうだが、死は新たな命を生むために必要なものである。日本でもアイヌは、神である熊を殺しいけにえにする。そして、熊の口の前に殺した肉を置き、熊がその肉を食べてまた再び生まれ変わって来るようにと言う儀式をするのだ。熊(神)を殺し、再び恵みである熊(神)が現れる様に儀式をするのだ。人間は身近にいる動物などを自然からの恵みの食料として得る。だから、食料であると同時に神でもあるのだ。人間は命を繋ぎ維持するために、他者の命を奪わなければならない。それが動物であろうが、植物であろうが。いけにえは、人間世界では昔から行われてきた儀式なのである。

 そういう原初的な人間の行為がここに現れているのだ。人は牛を殺すことによって命を維持し繋ぐのだ。殺しは残酷であり、暴力的だが、こういう事を何千年何万年を続けて人間を成長させて来た事実がある。命を奪われる牛は、そのことによって非常に重要なものになる。だから崇拝の対象になる。


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