ホセ・トマスのバダホス狂詩曲!ペレラ、耳3枚、ペドゥリート耳1枚。

2009年6月21日バダホス(第2級)闘牛場の結果。

19時半開始、終了時間記入できず。おそらく22時15分を過ぎていただろう。

プレシデンテ、 。ノー・アイ・ビジェテで満員の入り。

ハンディージャ牧場の牛。

   全体として、良い牛が出ていた。。
   1頭目、。2頭目、ノブレ。3頭目、。
   4頭目、マンソ。5頭目、。6頭目、。
   

闘牛士

エル・フンディに代わり、ペドゥリート・デ・ポルトガル、 耳1枚、拍手。

ホセ・トマス 耳2枚、耳2枚。

ミゲル・アンヘル・ペレラ 耳1枚ともう1枚要求、耳2枚。


 ホセ・トマスとミゲル・アンヘル・ペレラがプエルタ・グランデをした。

 快晴。無茶苦茶暑い。ハンディージャ牧場の牛(牛Procedencia actual=現在の起源<基の血統>、ファン・ペドロ・ドメク牧場)。闘牛士、エル・フンディに代わり、ペドゥリート・デ・ポルトガル、ホセ・トマス、ミゲル・アンヘル・ペレラ。満員の入り。ソルのテンディド6にてビデオ撮影しながら観戦する。

 エル・フンディに代わり、ペドゥリート・デ・ポルトガルは、昔とあまり変わっていなかった。綺麗な形のパセをする闘牛士だが、特徴がない。牛との距離も判っていない。牛の扱いは2流。これからも上位に行けないだろう。闘牛回数が少ないのは、埋めるべき材料が少ないし、そこまで才能を感じない。もしそうなってとしたら、突然変異で何かが大きく変わったときだろう。

 ホセ・トマスは、エンリケ・ポンセのようにいつも同じファエナをしない。それは、牛の特性に合わせてファエナをするからだ。その牛の持っている力を最大限に引き出す努力をいつもする。それと共に、その牛の、特性とダメだと思っている面も修正して、より良い牛として観客に意識させるように努めている。まず初めにあるのは、自分がやりたい技を構成してファエナをするのではない。ここが根本的にポンセと違うところだ。

 料理でいったら、素材の美味しさを最大限に引き出す為に、今は、生が良いのか、炒めるのが良いのか、煮るのが良いのか、焼くのか良いのか、蒸すのが良いの、様々な料理法を基本に持っていて、調理に入る。その時の使う調味料なども様々ものを状況によって使い分けている。それをごく自然に、当たり前に、丁寧にこなしていく作業は感動を呼ぶ。何よりも素材を活かそうとしている気迫が観客にしっかり伝わっているのだ。

 ミゲル・アンヘル・ペレラは、地元のバダホスということで、甘い耳を取った。それは良い。地元で闘牛場に来ている観客は、1番大きな歓声は「オーレ」の声を上げていた。でも、闘牛の内容は、耳4枚と耳3枚という、1枚の差以上のものがあった。地元だから自分を良く見せようとするのは分かるのだが…。



 「自分は競争の最前線にいるから、いつも何が強いのをものすごく考えているんです。そうすると、いろんな意味で、『自然にしている』 『自分の気持ちに嘘をつかない』ということがいちばん強いのかな、と。デザインも人間も同じで、大切なのは無理をしないこと。いちばん弱いのは、本物じゃないのに虚飾を施したり、表面で繕ったりしていることだと僕は思うんです。」 ーー『プロフェッショナルたちの脳活用法』 茂木健一郎・NHK「プロフェッショナル」制作班 著より 佐藤可士和 アートディレクター ーー

 「嘘をつかないということです。自分にも嘘をつかないし、動物にも嘘をつかない。なぜならば、嘘をついたところで何の役にも立たないからです。真摯な気持ちで取り組んでいくのが最善の方法であり、いろいろなものをつかむための近道だと気づいたんです」 ーー『プロフェッショナルたちの脳活用法』 茂木健一郎・NHK「プロフェッショナル」制作班 著より 勝俣悦子 海獣医師 ーー

 「 「高く評価されたい」「褒められたい」というのは脳の最大の欲求である。そして、この欲求があるために、「正直を通すこと」が難しくなる。自分の力を少しでも高く評価してもらいたくなると、のは背伸びをする。それが向上心として作用しているうちはいいが、努力の方向性を間違ってしまうと、欠点や短所を隠して、装飾品(=実力以外の要素)で自分を演出しようとすることにもつながりかねない。
 自分の力だけで人を引きつけられるプロフェッショナルには、"装飾品"は必要ない。むしろ、欠点や短所までさらけ出してこそ、真のリーダーと言えるのではないだろうか。  ーー中略ーー
 「自分の「弱さ」を冷静に受け止めるということは、ある意味で「強さ」だと私は思う。さらに、コミュニケーションを重ねながら、共同作業でひとつの目的を達成しようとするシーンでは、ときとして人間の弱さが、強さ以上に開いても心を動かす力を発揮するということを、音楽プロデューサーの武部聡志さんの言葉は教えてくれる。
 「アーティストも、弱いところがすごく武器になると僕は思うんですよ。そういうものを何も持っていないような、何の挫折も味わっていないような人の歌を、誰も聞きたいとは思わないでしょう。だから、そういう部分を引き出すために、プロデュースにあたって、僕もまず自分のいちばん弱い面を相手に見せます。強い人間に思われたら絶対にダメですから。自分が苦手にしていることも、トラウマに感じることも、挫折の話もします。そうすることで、相手はすごく安心してくれるというか、『この人も自分と同じように苦しみを持っているんだな』という気持ちを共有できるんだと思いますね」 ーー『プロフェッショナルたちの脳活用法』 茂木健一郎・NHK「プロフェッショナル」制作班 著より 武部聡志 音楽プロデューサー ーー

 自分の長所や特技をアピールできることも、生きていくうえでは必要な力といえるだろう。しかし、過度の演出は極論すれば「自己欺瞞」でしかないし、本来の姿ではない自分を演じれば、脳は間違いなく疲弊する。
 ありのままの自分をさらけ出すということは、脳に余計な負担を与えないということでもある。自然体----これに勝るコミュニケーション技術はないといってもいい。」  ーー『プロフェッショナルたちの脳活用法』 茂木健一郎・NHK「プロフェッショナル」制作班 著より 

 ホセ・トマスの闘牛は、高度な技術に裏打ちされたものであるのだが、いわば自然体の闘牛といっていいだろう。そこに最大の魅力がある。そこに集約されるといっていいだろう。ポンセの自己過剰演出型闘牛であり、嘘のある闘牛なのだ。ペレラは、未だ経験が不足しているが、今は嘘をついている部分を感じるのだ。



rhapsody [英語] Rhapsodie [ドイツ語]
「狂詩曲」と訳される。幻想曲風で自由な形式の19世紀の器楽曲。ラプソディーとは元来、ギリシア叙事詩のなかの吟唱者が歌う一つの部分を意味した。この表題を共有するロマン派の器楽曲も、とくに初期のものは叙事詩的、英雄的、民族的性格を備えている。リストの19曲の『ハンガリー狂詩曲』(1846〜85)はその好例であり、ドボルザークやバルトークの作品にもこの特徴が認められる。しかしブラームスの『二つのラプソディー』(1879)はバラード風の性格を示しており、さらに新しい時代の自由な感情表現の傾向を示す作品には、ジャズの語法を用いたアメリカの作曲家ガーシュインの『ラプソディー・イン・ブルー』(1924)がある。 [執筆者:寺本まり子] ーーYahoo百科事典よりーー


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