人にとって永遠の課題みたいな大事な要素がいっぱい含まれてる闘牛

por 米元寛子

 私が最初に闘牛を観たのは、4年前、旅行で行ったバルセロナでした。闘牛を絶対に観たいという強い願望もそこまでなく、ただスペイン=闘牛という単純な結びつきで、当然のごとく足を運んだと言った感じでした。だから、その時も闘牛のことは全く知らなかったし、簡単なガイドブックを斜め読みした後、闘牛に対するイメージを勝手に膨らませた程度のものでした。

 闘牛場に着き、最初に感激してしまったのは、恥ずかしながら闘牛場、その会場でした。スペインらしいと言っても、何がスペインらしいのか良くわかりませんが、地元の市民球場しか知らない私にとっては、一歩踏み入れた闘牛場でさえ歴史的な建造物を観たようなそんな印象を持ちました。

 牛も観ていない時点で、この状態の私ですから、数分後、目前で何が起こるのか期待でいっぱいだったのは言うまでもありません。少し拍子抜け?のラッパの演奏が始まり、それと同時に闘牛士が登場。まもなく、牛が何かに取りつかれたようにものすごい勢いで入場してきました。いつもは牧場でのんびりしている牛しかみたことのない私は、あの黒くて硬い筋肉の固まりの様な牛に目を見張らずにはおれませんでした。

 だって、牛があんなに機敏な動きをするとは思ってなかったし、獰猛な牛を目の前にしたら一たまりもないじゃないですか。信じられないと思いながらも、実際目の前で、牛対人の闘牛が着々と行われています。1回目の闘牛は、訳が分からない上、はじめて目にすることばかりで何かを感じる余裕など無く、気がついたら牛が死んでいた・・・と言った感じでした。

 2回目3回目も多分そうだったと思います。ただ、4回目になると闘牛の流れも何となくですが分かってくるし、周囲の歓声で特にどの瞬間が「闘牛」なのか、雰囲気で感じることができました。だから、次はバンテリジェロに刺されるんだ・・・なんて気構えする自分がおり、闘牛に釘付け状態でしかも緊張の連続でした。

 そうして闘牛が終わる頃、驚いたことに何故か泣いている自分がいたのですが、別に恐かった訳でも、牛が可哀想と思った訳でもありません。あの緊張感に耐え切れなかったのでしょうか?なんと説明すればいいのか分からないのですが、とにかく観たそのままのものとそれから得る自分の感覚の整理がつかない…どうしようもなくて泣いてしまったんだと思います。

 それほど、私にとっては、闘牛の中でおこる全てのことが衝撃的なことでしたが、こういう種類のショック(一定の時間内に、生き物の生と死を目の当たりにしたことと、闘牛士の人達が何を思って牛と戦っているのか分からないことが一番ショックだった。)を受けたことがなかった私にとっては、理解に苦しむところがかなりありました。何だか良く分からなかったけど、このショックは何?闘牛って凄い!でも、何がどう凄いの?という感想が頭の中を堂々巡りしながら、バルセロナの闘牛場を後にしました。

 さて、あれから4年経ちましたが、今年の5月に再度、闘牛を観に行くことになりました。でも今度は闘牛の会の斉藤さんも一緒です。闘牛に対する私の一応の感覚はあるものの(ただし4年前のまま)、闘牛自体は全く知らないにひとしい私は知りに知り尽くしている斉藤さんと一緒というのは正直気が引けました。しかし、そんなことはなんのその・・・・。マドリッドのベンタス闘牛場と、タラベラで行われた闘牛、計2回ごいっしょさせて頂きました。

 ベンタス闘牛場で観た闘牛は、マノロ・サンチェス、ペドゥリート・デ・ポルトゥガル、エル・カリファのカルテルで斉藤さん曰く、あまりいい闘牛ではないそうですが、私にとっては対比の仕様がないし、いい、悪いの判断なんてできません。やっぱり4年前のあの感覚を確認しながら観たし、久々の闘牛も私にとっては、とても衝撃的でした。

 次に行ったタラベラ・デ・ラ・レイナでは、"エンリケ・ポンセ、ホセ・トマス、エル・フリ"のカルテル。当日チケットは売り切れでダフ屋からしか買えないと言ったほどの人気でした。でも、どの闘牛を観ても違いのわからない私には、ダフ屋が出没すること自体、これまた理解しがたいことでした。出場者によってそんなに違うものなのかなぁ?今日はその違いが私にわかるかなぁ?そんな事を思ってしまいました。

 さて、闘牛が始まりましたが、目の前で起こっていることはいつもと変わりません。でも、席が前の方だったため、牛の引き締まった筋肉も間近に見ることができたし、その息遣いも聞こえてくるほどでした。思っていた以上に、迫力があり獰猛なのには改めて驚いてしまいましたが、今度はそれ以外に、余分なものがないというか、完成されているというか、牛そのものの体つきって美しいなと思ってしまいました。

 満員の場内では、今までになく観客の方の盛り上がりがすごく、声の音量が実況中継そのものの様で、私にとってはそれがあるから、今の瞬間は凄かったんだ・・・なんて判断しながら見ることができました。と言っても、もし、そういう観客なしで闘牛だけを観ていたらどうだったんだろう?もっと違った見方をしたのかのかなぁなんて風にも思いましたが、今回は、周りにつられて分かったような気にさせてもらいました。

 斉藤さんからは、牛の善し悪しや、マタドールの技についての話を聞きながら観ていましたが、言われてみると、なるほど技と名がつけば高度なものからいろいろあるもので、この時初めて感覚+分析しながら観戦しました。

 私なりにですが、そういう見方をしてみると、マタドールもそろぞれだし、歓声が上がる時にはやはり高度な技が繰り広げられている様でした。この時は、技ばかりに集中していたためか少し冷静に観ていたので、いつもの緊張感はそこまでありませんでしたが、闘牛の形みたいなものがホントに少しですが分かったような気がしました。変なたとえですが、闘牛が終わった時は、同時に講義が終わったと言った感じでした。

 何でもそうだと思いますが、人によっていろんな見方があると思います。私が思うに、闘牛って人がいて、牛がいて、生死がある。人や牛を知ることだって容易ではないと思うのに、それに加えて生死のこと。生と死って言うものは、単純に心臓が動くか止まるかってことでもあるけど、哲学みたいにとらえにくい部分で、またそれだけに、人の受け止め方も様々だと思います。

 だから、そのぶん闘牛って、掴みにくい様な気がしてなりません。そう思うと、私の場合は、これまで3回闘牛を観たけど、感覚で観るのが一番闘牛の激しい部分を全身で受け止められるような気がします。そうして感じるだけ感じた後は、技や牛、特定のマタドールについて知りたいと思うようになって、私は闘牛にのめり込んで行くのだと思います。

 それから、闘牛のなにが分かったかって、ひとくちには言えないけど、闘牛から感じて考えることは、それにとどまらず、いろんなことに通じているようなそんな気がします。上手く言えないけど、人にとって永遠の課題みたいな大事な要素がいっぱい含まれてるって言うのかなぁ?今の時点で、私の闘牛に対する思いはこういったところですが、これから闘牛を観る機会がたくさんある私にとって、自分自身がどんな風に変わって行くのか楽しみで仕方ない今日このごろです。



 これは99年5月にネットで知り合った広島の米元さんの文章です。本人の許可を得てHPに掲載します。99年12月現在彼女は、マドリードで語学学校に通いスペイン語の勉強中です。

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