<闘牛と死>

por 片山左京(慶應大学教授)

 見事なレシピエンドで<牛>を屠るマタドールの伎倆に酔い歓声を上げる観衆。華麗に儀式化されたこの<牛殺し>の光景の背後に、数多くの芸術家・作家・思想家といった人々が、人間の<生と死>凝縮されたドラマの祖型−スペイン人の心の底層に潜む<死への特異な感受性>やそれと意識されず身体に刻み付けられている死生観といったものからうまれるドラマを観て取り魅惑され語りついでいる。

 しかし、現実に闘牛に死を賭けて立ち向かう当の闘牛士たちは、<死>という問題をどう捉えているのだろうか? 伝説的闘牛士ルイス・ミゲル・ドミンギンが、「死と戯れる者」と題されたクリスチャン・シャバニスとのインタビューのなかで、この問いに一つの答えを提示してくれている。

 彼の言葉によれば、闘牛を前にして死を考える者は闘牛士にはなれない。死を意識すれば、人は必ず逃げ出すものなのだ。それでも敢えて死を軽視して牛に挑む者は、自らの死を招くだけなのだ。

 闘牛士にとって、死とは、観念的なものでなく、闘牛に一人で立ち向かう孤独と恐怖として立ち現れてくるものである。若い闘牛士は栄光や富を求める燃えるような野心のうちに、恐怖や孤独を転移し消失させる。また、年をとって死について想いを馳せるようになっても、その時は、危険や死の裏をかく術を身に付けて自分を守ることができるようになっているのだ。

 ドミンギン自身は、死の恐怖を、別の恐れ−滑稽なミスや失敗・凡庸さや不名誉への恐怖に置き換えて、闘牛に立ち向かう勇気をうみだしたといっている。また、彼は、何回か重傷を負い死の危機に直面しているが、自らの努力が無駄な場合は、運命を甘んじて引き受ける<運命愛>にも似た態度で死の恐怖に対処しているようだ。

 彼は、シャバニスに<闘牛>の定義を求められるが、自分には定義は不可能だ、と答えている。ただ闘牛とは、死を間にはさんだ二匹の獣の闘いだという。食物連鎖に窺われるように、あるものの死が他のものの生を保証する生存競争のうちに、彼は、コスモロジカルな生と死の有り様をみて取り、<闘牛>もこのような文脈に位置づけているようだ。闘いは生そのものだが、また同時に死でもあるという。

 宇宙の秩序は、生と死の交換により成り立ち、<闘牛>は、この宇宙の秘めた仕組みを象徴的に現出させているといっているようだ。闘牛士とは、自ら最大の勇気を示しながら、死にかけていても闘いつづけるよう牛を勇気づけ、この生と死のドラマを高貴な儀式に仕立て上げる存在なのであるとほのめかしている。

−−99年 7月定例会報告より−−


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