ミゲル・アベジャン (闘牛の会、会報『闘牛』より)

por 斎藤祐司

本名、ミゲル・アベジャン・エルナンド。Migue Abellan Hernando. 1978年9月24日、マドリード生まれ。94年10月(16歳)マドリード闘牛学校入学。97年2月2日、ビナロスで見習い闘牛士デビュー。98年6月24日、アリカンテでアルテルナティーバ。パドゥリーノ、マンサナレス。テスティーゴ、ポンセ。

 闘牛士の息子として生まれたミゲルはその家庭環境から闘牛学校に入る。才能を見いだしたのは、ガナデロのビクトリーノ・マルティン。初代アポデラードになる。デビューの年に2度ラス・ベンタス闘牛場に出て耳1枚を取る。初めてみたのはベンタス初登場の9月28日、アントニオ・イニエスタとのマノ・ア・マノ。アントニオは1頭目で右太股大動脈、神経を損傷の重傷を負う。残されたミゲルは6頭の牛を殺し拍手を受ける。一目で古典的な闘牛をする有望な新人だと言うことが解った。技術的に言えば、クルサードして牛を誘い、牛が体を過ぎてからもムレタを最後まで回すように振っていた。こういうパセのやり方が本来正しいと言うことを下山敦弘(闘牛士)さんが言っていた。

 翌年(98年)のサン・イシドロで最優秀見習い闘牛士になる。世界一、目の肥えた闘牛ファンを総立ちにしてしまう。カポーテのバリエーションが豊富。チクエリナの時に体ギリギリを牛を通し、膝をついたメディア・ベロニカ。観客の「オーレ」の絶叫は最後まで闘牛場にこだました。1回の闘牛でこれだけのカポーテ技を観たのは初めてだった。ムレタも上記のように素晴らしかった。文句なしに、新しいスターの誕生に観客は酔いしれた。

 アルテルナティーバを受けて(正闘牛士になって)からも各地で活躍が続いた。2000年のフェリア・デ・アブリル(セビージャ)で目を瞑って4回やったアジェダード・ポル・アルトには体が震えた。が、何と言っても6月2日、サン・イシドロの闘牛は強烈な印象をファンに焼き付けた。ポルタ・ガジョーラからラルガ・カンビアールなどのカポーテ技で観客の感情を絞り出した。あれほど素晴らしいキーテはなかなか見れない。

 ムレタの時コヒーダされ、右太股の裏を破き血塗れの闘牛はファンを凍り付かせ、足を引き吊りながらの闘牛に感動した。その日、2頭目の牛の時は出てこないと思っていたが医務室から姿を現すと観客は喝采を浴びせた。クアドリージャもアポデラードも医者も止めた。闘牛で片足をなくした父親も止めた。しかし、「僕がラス・ベンタスでプエルタ・グランデ出来る最後のチャンスかも知れない。だから、行かなきゃ」とミゲルは言ってアレナに立った。これが、幼い頃から片足の父を見てきた男の選んだ生き方なのだ。

 定例会で何度もこの時のビデオを流した。その度に泣いている人がいた。熱い、そして冷静でもあった。ポルタ・ガジョーラの時に牛が体に向かってくるのを避けながらカポーテで交わした。ベロニカを繋ぐとオーレの大合唱が鳴った。ムレタでも観客を沸かせ続けた。コヒーダされて頭から落ちても牛に向かっていった。本当に命懸けの闘牛だった。プエルタ・グランデの時、僕の横にいたスペイン人のセニョリータが涙をボロボロ流しながら声を上げて号泣していた。物凄い感動があった。でも、本当は98年の時のような闘牛をやって欲しいと思っている。

闘牛の会、会報 『闘牛』 9号に掲載された元原稿。会報と少し違うところがある。


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