疎開編  1999.4      戦争編  是非戦争編をご覧ください。         


昭和19年7月18日学童疎開(集団疎開)に出発です。校庭に学年別に、

しゃがみながら、先生の注意事項を聞きました。我が家では私が5年生、弟が3年生

この二人が疎開に行く訳で今ならさしずめ修学旅行っていった風景かな。?

修学旅行でしたら3,4日すれば帰ってきますが、集団疎開では戦争が終わるまでは

帰れないのです。子供たちはこれから起こる、さまざまな苦労なんてどこ吹く風まるで

旅行気分でした。母親は涙声で「生水はダメよ飲み水に注意してね。お腹の薬は

リュックのここに
あるのよ。熱が出た時はこの薬を飲んでね。」など細かい注意を

・・・・今、考えると母の
愛情が痛いほど身に沁みます。

上野駅まで隊列を作り徒歩で団体入り口からホームへ夜行列車です。行き先は宮城県

蔵王山の麓。東北本線 白石駅からバスに乗り換えす。車内では緊急時にと配給された

乾パン(兵隊の襟章のような)を腕白な連中は食べ始めました。すっかり注意事項を忘れ

てしまったようです。

定められた5軒ある旅館にそれぞれが入りました。兄弟は一緒の部屋です。地域的にまと

まったようです。始めの1週間はとても楽しかった気がしますが、それから先が大変です。

ご存知の方はお分かりでしょうが夜は消灯ラッパで寝ますがこの音色がもの悲しいんですね。

「♪ 新兵さんは、かわいそうだねえ!また寝て泣くのかねえ」 ←クリックで消灯ラッパが鳴ります。


どこかで一人がシクシク始まると、つられて何人かもシクシク。最後はみんなが声を、あげ

て泣き出す始末。私の分団では私が班長でした。先生に怒られるのは班長なのです。

「 消灯ラッパが鳴っても起きてる部屋の連中は朝食減らすぞ!!」これがつらいです。

ただでも腹すかしが多いのに減らされちゃ大変、ホームシックでこっちも、泣きたいところですが、

なだめ役にまわります。・・・

そんなことから、時折、脱走者が出てきます。ほとんどが白石の駅で捕まってしまいます。

消灯ラッパの前に点呼があります。班長が先生に申告します。番号!!1、2、3、4、5、

6、7、8、9、10!第7分団、第3班、班長以下総員10名、現在員10名、異常無し!!」先生の

「よッし」で消灯ラッパを待つのですが、寝込んだ後に先生が見回りにきます。

点呼の際のメモでこの部屋は異常ないか、人数の確認です。私の班では起こりませんでしたが、

ある日、隣の班で6年生の女子が床の中に見当たらず大騒ぎになりました。各班長だけ召集

され付近を捜しましたが、見つかりません。先生が職員部屋に戻り方々に電話していました。

今でも鮮明に覚えてます。ハンドルをグルグル回して交換につないでもらう電話機でした。

結局、連絡をしておいた駅で確保されてしまいました。

「箸とらば天地(あめつち)御代(みよ)の恩恵み  父と母の恩を味わえ・・・いただきまあす。」

毎朝、東京の方向に向かい合掌しながら唱えて朝食になります。やっぱり「ホトケ様ではあるまいし、

一膳飯とは情けない。」軍隊と同じでアルマイトのボウルでお代わりは、できません。食器を洗うのは

何故か3、4年生が級生のものを洗うようになっていました。後で聞いた話で私達は温泉旅館なの

で入浴には不自由ありませんでしたが、お寺に疎開した人達は風呂場がせまいので入浴に苦労

したようです。それでも女子は、今のような良いシャンプーなどない時代ですから、髪に虱がわいて

困ったようです。
                                 
                                
余りの空腹で女の子から、お手玉を数個、貰い、中に入ってるアズキを出しそっと井戸端に、おいて

あるアルミのひしゃく(鍋がないので)を持ち出し山に入り、たき火の中で煮て食べました。

当然、砂糖、塩なんてありませんが、おしるこの匂いだけは充分です。(勿論、先生には内緒)

分けて食べたのが思い出の一つ、でも女の子のお手玉は、またたく間に尽きてしまいます。

親にアズキで作った、お手玉を送って頂戴!との手紙を書き、送ってもらった女の子は何人もいました。

当時「わかもと」という整腸剤。そうです今の「エビオス」と同じようなものこれを誰かが持っていました

(大きなビンで3本も)それを分けて食べました「麦こがし」に良く似た味で結構、腹持ちもよかったです。

食欲の無いときに、これを飲めと、親は持たしたのでしょうが皆で食べてしまいました。食欲は皆あり

ますからたまりません。益々腹が空いてしまいます。悪循環でした。

子供ながらの生活の知恵でしょうか、食事の時、美味しいものは後で食べるってことは不利なのです。

上級生が「おまえそれ嫌いなのか?」って言って取られてしまいます。それからは好きなものは

一番先に、取られても惜しくないものは後で食べる、そんな習慣も身につきました。                           

先人方から軍隊生活をよく聞かされますが、小学生でありながら全く軍隊生活そのものでした。

ミニ軍隊、です。朝は、起床ラッパで飛び起きます。

           
「♪ 起きろよ、起きろよ、みんな起きろ、起きないと大将さんにしかられる」 ←クリックで起床ラッパが鳴ります。

畳の部屋で朝食後、勉強、その後 、手旗信号の練習は全く軍隊のものと一緒です。

3年生〜6年生まで各班ごとに集ります。私の班には男子3年生が4人4年生が

3人5年生3人の10人です。                                  
イロハニホヘト・・・・班長が教えるのですが3年生に教えるのが一苦労です。まだ掛け算九九

も判らない子達に教えるのですから並みたいていのものでは、ありませんでした。旅館の裏山、

頂上に上り向こうの山にいる相手の班に送受信するのです。内容はすっかり忘れましたが、

「北の風、強し」程度のものだったと思います。与えられた文を送り、相手からの受信文をメモして

山を降り先生の所へ勿論、相手の班もしかり。成績の悪い班は連帯責任です。班ぐるみの、

おしおきは食事の時にやってきます。お陰で今でも手旗信号の送受は覚えております。

この画は何故か赤い旗2本ですが間違いです。赤と白の旗が本当です。              

昨年11月に同期会(クラス会)をいたしました、男女42名集りましたが、みんな孫を何人も

持つ、おじいさん、おばあさんです。3時間ほどの会合でしたが終始この学童疎開の話で

もちきりだったのは、申し上げるまでもありません。
          

こんな集団疎開なんてもう二度と来ないでしょう。否、二度とあってはいけないもの。このページは

学童疎開の一端を披露したものですが、若い方達にこんな時代が63〜64年程前にあったのだと言う事

を知って頂きたいのです。そして戦争は大人達だけではなく、子供たちにまで、親と別れこんなつらい、

体験をさせるのだ。と言うことを・・・

現在も世界中のどこかで戦争が行われています。イデオロギーの相違、民族の対決、宗教の相違

での対決、などなど理由は沢山あるのでしょうが、弱い立場の女、子供達にまで悲惨な目に

逢わせないように、話し合いでなんとか解決したいものです。     

         学童疎開先 当時の住所 宮城県刈田郡刈田村遠刈田温泉
                 現在の住所 宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉

 
ご感想などお寄せください。