プロ野球(職業野球)

終戦直後からのフアンです。当時は六大学野球も大変人気があり、早慶戦などは

なかなか切符が手に入りませんでした。神宮球場は米軍が使用するので後楽園を

使って早慶戦などやってました。まだ中学生でしたが家から歩いても30〜40

分で行けますので良く観に行きました。早稲田、岡本投手、慶応が大島投手(後

に中日ドラゴンズ)

後楽園にプロ野球を初めて観にいったのが中学校のクラスメートと行きましたが

学生証を見せて内野席が2円80銭でした。水原(慶応、巨人)が復員で帰って

きてホームベース上で「水原、只今シベリヤから帰って参りました。」こんな風景

もみましたが、この頃からぞくぞくと戦地から引き上げてきた名選手たちが合流す

るようになり面白い野球になってきました。勿論TVはまだ出ていない時代でもっ

ぱらラジオの実況中継で面白い解説の「なんと申しましょうか〜」で有名な小西

得郎氏。アナウンサーでは、歯切れの良いNHKの志村 正順アナ。なつかしいな〜。


赤バットの川上 哲治、青バットの大下、スタルヒン(太陽ロビンス)小鶴、

真田(太陽ロビンス)若林忠志(阪神、以下阪神)、梶岡投手、土井垣 捕手、

御園生、金田、富樫、長谷川、藤村兄弟、本堂、呉、等 等、巨人では川上、

千葉、南村、藤尾、多田、中尾、宇野、黒沢、塀際の魔術手、平山、中日では

杉浦、西沢、清水、坪内、野口兄弟、服部、国枝藤原捕手、南海で別所(後に巨人)

鶴岡、阪急で青田(後に巨人)好投手の天保、ヘソ伝の異名で山田伝、等、

名選手が活躍してました。当然、当時はまだ1リーグ制でした。後楽園野球場

のセンター後ろの塀には、「わかもと」の砲丸投げをあしらった広告は何故か

未だに覚えています。日本初のナイターは神宮球場で行われ、観戦途中にバケツ

をひっくり返すような大雨で弟とグランドに飛び降り3塁側ベンチに待避。

隣に派手なアロハシャツを着た人が「坊やこの雨じゃあ試合は中止かもね」

と話しかけられたのが彼の灰田勝彦だったのも懐かしい思いでです。あの

万年青年の灰田勝彦もこの世にはおりません。
 

訃報 平成17年1月10日の朝日新聞によりますと。

冒頭にも書きました大島信雄投手が肺炎で死去されたとのこと。83才。

岐阜商業(現在は県立岐阜商高)で選抜野球で4連投で優勝。慶応大学に進学

野球の活躍は冒頭にあるとおり。プロの松竹ロビンスに入団、その後、中日

ドラゴンズで活躍現役引退後、中日のコーチなどを歴任。また昭和のスター

が減って行きます。

ご冥福を祈ります。



                                   
日本一の名投手 沢村栄治

私が後楽園で観戦するようになったときは沢村投手は戦争にかり出されて、

見ることはできませんでした。よくネット裏にサトーハチロー氏が見えており

ました。8月12日
付け読売新聞、編集手帳より抜粋したものを載せます。以下原文の通り。

野球を愛したサトーハチロー氏は自叙伝のなかで、往年の名選手一人ひとりに

言葉を贈っている。巨人の沢村栄治投手にはたった一行、次のようにある。

◆「戦争は、あなたを失くしただけでも罪悪である。」・・・と

17才でベーブルースのいる大リーグ選抜を失点一に封じた沢村は、応召

して乗った輸送船を撃沈され、死亡する。終戦の前年、27才であった。

◆三重県伊勢市の山口千万石さんが86才で亡くなった。尋常高等小、

京都商業を通じて5年間、捕手として沢村の球を受けた人である。

記事を読みながら伝説となった剛速球をまぶたに浮かべたオールドファンも

いることだろう。

◆「指は10本とも脱臼した」と、山口さんは昨年6月、小紙の取材に語っ

ている。ミットで受ける左手はともかくも、ミット

の裏に添えた右手まで無事で済まない球ならば打たれないのも道理である。

◆ドロップは肩口からヒザ元に落ちた。試合の山場で山口さんがそれを要求

すると沢村は「ドロップで三振を取って、おれが喜ぶとおもうかい?」

と苦情を言ったという。

◆「戦争は・・・」ハチロー氏の言葉を人それぞれがかみしめる8月、

折しも甲子園は熱戦のさなかである。泉下で再会したバッテリーに言葉は

いるまい。一人はだまってしゃがみ、一人は降りかぶる。サインは

直球だろう。(原文通り)